私たちの轍を残しながら
明け方、二人は早々に朝食を用意した。
温かいスープと柔らかい肉とは当分お別れになるのだ。瓶に詰めて余った分のスープと、いちばん柔らかそうな脂の乗った肉。
昨日よりも多めのそれを、メエユーシュカはじっくり味わって食べた。……でも、やっぱり牛の肉は飽きたな。
対して、ルジャンダルは早々に食べ終えて、くるくると炭かき棒を回して遊んでいる。
頭には、里から持ってきて牛の肉を運ぶのにも使った鍋が、きれいに洗われて再び乗っかっている。
はやく発ちたくてうずうずしているようだった。
列石都市は西だ。
陸路では北西に進み、壮麗なる極北山脈が見えたら南西へ。
皙耀の国の首都を経て、そこからは北部大商路を使い天雷峡を超え、道なりにずうっと進めばやがて列石都市にたどり着く。全て徒歩で二百日ほどの道程になる。
……というのは、街道を無視しても進める羊人の認識だ。
後半は街道とは言え、素人が作った荷車(それも、荷物を満載した)で極北山脈が見えるほどのところまで進むのは厳しいだろう。
食料の問題もある。
唯一の食料である牛の肉は、ざっくりといって百二十日分くらいの量あるのではないか、という計算だ。悪くしない、という仮定の上でだ。
列石都市までの二百日の道程にはとても足りない。
「街道を西に進もう」
メエユーシュカは炭かき棒を使って土におおざっぱな地図を描き、ルジャンダルに見せた。
魔法のコンパスと照らし合わせて、これから進む道が西側に伸びていることを確かめる。
今いる鉱山街からは東西に進む街道が伸びている。
二人がこの街にやって来るときは、これを無視して南からやってきたわけだけれど、今度は街道に乗って西に進む。
西への街道の先には、晳耀の国の第二の都市がある。そこまでなら、三十日程度。
そこは豊かな果樹と果実酒の街だったはずなのだ。
メエユーシュカの思惑はこうである。
「果樹が残っていたら、食料を得られるかもしれないからね」
「りんご?」
「りんごやぶどうが多いらしい」
そこで次の食料のあてを得て、列石都市への道程を続けることができればいい。
定住できそうなくらいの果樹が残っていれば、それもいい。
季節的には果実を手に入れるのは厳しいだろうけれど、どうせ確かなあてはない。この鉱山街に留まっていても食料が手に入らないことだけは確かだ。
「いこう!」
ルジャンダルが弟のたまごの入ったかばんを背負い、鍋をかぶり直して言った。
忘れ物がないか何度も確認して、水筒の水をいっぱいにして、二人で押せるように改造した荷車に、ぐっと力をかける。
それがごろごろと動き出せば、掛ける力は少し減った。
しばし無言で進んだのち、ルジャンダルが言った。
「どれくらい、いくの?」
「街から街道沿いに一日歩くと、だいたい旅籠があるんだ。井戸とか、水場も近くにあるはずだ。それを見つけたら、その日は歩くのおしまいにして、休もう」
「なくなってたら?」
「木造の建物はなくなってても、さすがに痕跡はわかるだろうから、その近くで寝よう」
「うん」
「屋根があるに越したことはない。濡れて身体が冷えると、それだけで体力を消耗するからね……」
「さむいの、やだねー」
「そうだね」
それから天の光が大地に近づくまでの道中は何事もなく、順調であった。
旅籠は石積みの建物だった。裏手に沢があり、水には困らない。
二人はその沢から水を汲んで夕食をとり、翌日の支度をすることができた。
ずっとこの調子なら嬉しいが、どうなることやら。
スープに浸してみたけれど、肉は硬かった。
柔らかい新芽が恋しい。
食事を終えたら、ルジャンダルと作った櫛を使って、軽く毛をすきながら今後のことを考える。
翌日も明るくなったらすぐに発つ。
一日中歩き続ける生活は、メエユーシュカにとってはそう辛いことではないが、里から出たばかりのルジャンダルはどう思うだろう。
鉱山街では初めての町で、目新しい物たちに喜んでいたけれど、これからの旅では代わり映えのしない景色が続くことになる。
少し憂鬱だ。
そんな憂鬱を抱えたまま半端に眠っていると、夜中に目が覚めてしまった。
隣で寝ているルジャンダルを起こさないように、静かに寝返りをしようとしたけれど、そのルジャンダルの気配が感じられないのに気づいて、メエユーシュカは暗闇に目を凝らした。
ルジャンダルは、すぐ近くにいた。『おとうと』のたまごの隣に座って、それに触れている。
たまごの放つ淡い光で、そのシルエットを見つけることができたのだ。
「目が覚めちゃった?」
「う……」
ルジャンダルはかばんを閉めて『おとうと』のたまごをしまうと、メエユーシュカのとなりに戻ってきた。
「こわいゆめみた……」
「そっか」
小さな体に毛布がわりのマントを掛けてやる。ルジャンダルは羊人のふかふかの毛に埋もれるように寄ってきた。ゆったりと撫でてやると、まもなく寝息を立て始めたので、メエユーシュカも再び目を閉じた。
ルジャンダルの見たこわいゆめとはなんだろう。『おとうと』に関することだろうか。あるいは朝の話で、食料の計算で少し脅かし過ぎたせいかもしれない。メエユーシュカは反省した。
程なくしてメエユーシュカも眠りに入った。
十三日目もよい天気になりそうだ。
メエユーシュカが目を覚ますと、ルジャンダルはすでに起きていて、石の壁に向かって何かを刻んでいた。
何をしているのか、と問うと、ここに来たことを記念して書いているのだ、という。
それはメエユーシュカにとってもよい考えに思えた。
もし他の残された人々がここを訪れたとき、自分たちが記した字を見つければ、それを頼りに合流できるかもしれない。
しかし、ルジャンダルの爪が刻んでいる文字はうねうねとした不思議な文字で、メエユーシュカには読むことができなかった。
この字は見たことがない。……いや、覚えがないわけではない。竜人の里で見た魔法の道具に、こんな模様が刻まれたものがあったような気もするけれど、よく思い出せない。
少なくとも、この近辺の国の公用語で使われる文字ではない。
「それは里で使っていた文字?」
「うん!あんまりつかわないけど、字は知ってる」
「読み書きができるのはすごいことだよ。私にはその文字は読めないけど……」
「めえは、違う字なの?」
「違う字だなあ。大抵の人は、刻印語の文字を使ってる」
「刻印語! こういうやつ?」
ルジャンダルは床板が消失して土が剥き出しになった足下を引っ掻いて、刻印語の文字をいくつか書いてみせた。
「刻印語も知ってるのか! すごいな、ルジャンダル」
「にへへ」
今、二人が口語で会話できている通り、多少の語彙の差はあれど、話す音は同じで書き表す文字だけが違う。
『羊人と竜人、泥界化より十二日目の夕方、ここに着いた。
十三日目の朝、ここを発つ。
私たちは晳耀の国の第二の都市を経て、列石都市へ向かうことを試みている』
見た人に伝わりやすいように、二つの言葉で刻んでおくといい。こんな文ならどうかな?——そんなメエユーシュカの助言に従って、ルジャンダルは、竜人文字(とメエユーシュカが頭の中でだけそう呼ぶことにした文字)と刻印語で、それぞれ同じ内容の言葉を彫った。
刻印語の文字と同じく音をあらわす仕組みらしいということはルジャンダルの説明で分かったが、文字を識別することは、メエユーシュカにはまだできそうになかった。
当然、その日の道中の話題は、文字のことになった。
「二種の文字を使える人は少ないだろうなあ」
「そうなの?」
使う意味が無いからだ。
泥界化による消失をまぬかれたが、大陸からは隔絶されてしまったような種族が独自の文字を開発し発展させることはあるが、その劫の文明が進めば列石都市の文化と合流し、独自の文字を使う理由がなくなっていく。
そんな文字があった、という記録が文彫館のどこかに収蔵されて、今日も、明日も、ひっそりと眠り続ける——刻印語以外の文字は、この世界ではそういうものだ。
「里の人たち、教育熱心だったのかな」
メエユーシュカには、これまでのルジャンダルの口ぶりからして、竜人の里の大人たちは子供達が飢えないような教育はすれど、文化的な営みには関心が薄いように思えていた。
けれど、ルジャンダルが多様な伝説を誦じることと言い、刻印語を知りながら独特の文字を使うことと言い、その評価は適当ではなかったのではないか、と思い直したのだった。
「ネッシン?」
「ルジャンダルは里でいろんなことを教えてもらったんだね、ってこと」
「おしえてもらっては、ないよ?」
「ええ? じゃあ、どうしてルジャンダルは文字とか、羊の伝説とか、知ってるんだ?」
ルジャンダルは困ったように唸った。そして、心なしかルジャンダルの荷車を押す力が強くなっているように感じた。
メエユーシュカは、ルジャンダルがあんまり悩んでいるのでかわいそうになって、「まあ、無理に答えなくてもいいよ」と言った。
幼く語彙の少ないルジャンダルには、言い表すのが難しい物事も多々あるだろう。そして、それを気に病む必要はどこにもない。
ごろごろと荷車が転がる音と、二人の足音だけが広がる。
風はなく、天気もいい。少し暑い。
しばらくして、そうだ、前にもこんなことがあった、と、メエユーシュカは思い出した。
街にある鐘の存在を、どうして里から出たことのなかったルジャンダルが知っているのかと聞いた時だった。
「思い出したよ。街の鐘の話をしてた時、ルジャンダルは……」
「おもいだす……」
「うん?」
「おもいだす、に似てる」
「えーと、何のこと?」
「おしえてもらってないことがわかるの」
「ずっと考えてたのか」
「ん……」
「誰に教えてもらったか思い出したってこと?」
「ううん。だれにもおしえてもらってないけど、おもいだすみたいに、わかるの」
メエユーシュカには想像もつかないことだったが、知らぬ間に知識が湧いてくるようなものだという。
ルジャンダル達稲妻竜人だけがそうであるのか、竜人がみなそうなのかは判然としない。竜人は元々数が少なく、文化も知られていないところが多い。
ルジャンダルも、育った里以外の竜人を知らない。
大きくなるほど、多くを『思い出す』、ということだけれど、ルジャンダルはまだそうして得た知識はわずからしい。
そう、ルジャンダルはしょんぼりして言った。
「なにをおもいだすのか、わかんないし……」
「アテにはできそうもない、ってことかな」
かの稲妻竜人の里は外界から隔絶されている割に、思ったよりも文化的な家や物作りの痕跡があった。
それらは大人の竜人たちが『思い出した』知識を使って維持した、のかもしれなかった。
「めえのほうがものしりだな〜」
「ま、今はね」
それからまたずうっと歩いて、天の光が地につきそうな頃には、旅籠跡と思われる煉瓦の壁と石畳のある区域に着いた。
「天井がある場所は……ないな」
「あめがふらないといいね」
「そうだね」
井戸があったので、瓶を毛の紐で吊って水を汲む。
紐の強度には不安があるので、一度に多くは汲めない。
鎖があれば鍋いっぱいに、一気に汲むことができだろうが、鎖は結局、荷車を引くのには役に立たなかったため、重さを嫌って置いてきてしまった。
飲み水を確保することはできても、体を洗えるほどの量を汲むのは難しいので、それは川を見つけるまで我慢しなければならない。
十四日目も、十五日目も、十六日目も、ずーっとずーっと街道を進む。
道中の変わったことと言えば、虫や小動物の死骸が稀に見つかるくらいだ。遠くの山の中腹に、小さく違う色の点を見つけて残されたる木があるのか、と話し合ったりもしたけれど、街道から見える範囲では食べられそうなものはほとんど見つからなかった。
例外として、十五日目に花を見つけた。
鉱山街へ向かう途中で見たのと同じような、小さな薄青色の可愛らしい花。
よく葉を茂らせていたので、小さな葉を一枚だけ摘んで味見させてもらった。
蹄の三分の一もない、小さな葉は懐かしい味がした。
羊人には食べられる草だったので、この花が種をつけてよく増えてくれるといいねえ、と言い合って、その場を去った。
十七日目には、ついに雨に降られた。
荷車の干し肉には牛の皮をかぶせて濡れを防いだけれど、二人はずぶ濡れになってしまった。
その日の夕に煉瓦造りの旅籠に辿り着いたので、眠る時は雨に当たらずに済んだ。
翌朝になっても雨は止んでいなかったし、服も乾いていなかった。
メエユーシュカが荷物の包みから今日の分の食事を取り分けている間に、二人は今日の予定を話し合った。
一日に進むペースは維持したかった(その方が夜に旅籠の設備を使える可能性が高いからだ)から、ここで一日休むか、雨の中進むか、どちらを選ぶかが問題だ。
寒さの苦手なルジャンダルは雨の中を歩くのを厭うかと思ったけれど、進む、と言った。
ルジャンダルの主張は、牛の皮の雨除けは機能しているから、肉は大丈夫だろう、だったら先を急ぐべきだ、というものだ。
メエユーシュカには、ルジャンダルは食料の心配をしているのだ、と分かった。
朝、一日分の肉を取り分ける時、ルジャンダルはこんなに食べないよ、と言う。
やろうと思えば魔力の循環で、食べ物を摂らなくても生きられるのだ、とも。
魔力の循環で生きられる自分が必要以上に食べて、仲間の取り分を減らしたら長く旅を続けるのが難しくなる。そういう考えだ。
メエユーシュカの考えは違う。大人の竜人は背が高く力強いものである。メエユーシュカよりも小さいルジャンダルが、そんなふうに大きく育つためには、肉や魚を食べて体を作る必要があるはずだ。
ルジャンダルが自分に遠慮して得られるはずの強いからだを得られなくなるのはしのびなかったから、メエユーシュカはそれでも、ルジャンダルには自分より多く肉を取り分けている。
さておき、雨の中を進むことで干し肉が悪くなりそうなら休むべきだけれど、どうやら荷物の濡れはかなり防げそうなので、歩ける程度の雨なら進む方が遠くまで旅を続けられる、というルジャンダルの考えには、メエユーシュカも同意した。
体が濡れて冷え過ぎないならば、だけれど。
これからの季節は暖かい。なんとかなるだろう。
雨に濡れながら歩いて、砂時計の砂が二回落ち切る頃に雨が止んだ。
雲の切れ目からのぞいた天の光が、ぴったり頭上にある。
暖かな光のもとに服をできるだけ広げて、歩きながらではあるが、乾燥を試みる。
そうこうしているうちに、空をまんべんなく覆っていた雲の半分はいなくなっていた。
「なんだか、あっという間に晴れたな」
「いいてんきになった!」
「上空では風が強いのかな」
じっくり空模様を見てみると、雲が風に流される様子がわかる。
あまり空ばかり見ていると、ぬかるんだ土に足を取られそうになるので、ほどほどに。
そうして時々空を眺めながらゆったり歩いていると、メエユーシュカは見つけた。
空に浮かぶ、しかし雲ではない、白い筋だ。
北の丘の向こう、しかしそのさらに先の大きな丘よりは手前から立ち昇っている、ように見える。
「煙かなあ? だったら、人がいるかもしれない」
「いく?」
ルジャンダルが尋ねると、メエユーシュカは唸った。
丘の向こうまで行って戻ってこようとしたら、夜になってしまう。そうしたら、旅籠に辿り着けないまま眠ることになる。
しかし、自分たちと同じく、泥界化から残されたる人がいるかもしれないとなれば、見過ごすわけにはいかなかった。
「行こうか」
「うん」
その場で方向転換して、北の丘に向かって歩いていくと、あるところで蹄の感覚が変わった。
固く踏み固められた地面。どこもかしこも草がなくなって道とそれ以外が見分けにくくなっているけれど、街道だ。
片方は先ほどまで歩いてきた通商街道に合流する方向に伸びている。もう片方は、丘の向こうへ。
「道があったのか。じゃあ、この先にも街や旅籠があるかも」
「まち?」
「わかんないけどね」
「ん」
それからまた砂時計一回分ほど歩くと、煙は見えなくなってしまった。かわりに、ルジャンダルが建物の影を見つけた。
「建物、あるの?」
「あるよ」
ルジャンダルは自信たっぷりだ。
メエユーシュカも疑っているわけではない。
「私には、もやでよく見えない。遠くから見えたのは、煙じゃなくてこのもやもやしたものだったのかなあ」
「もやもやなんだろね」
もやもやの正体は、更に近づくと分かった。
湯気だ。
建物の脇に、石で周りを囲まれ整形された泉がある。そこから湯気が立ち昇っている。
泉を覗き込んで、メエユーシュカは言った。
「温泉だ。ここは、温泉宿だったんだ」
「おんせん?」
「湯が出てくる泉を温泉っていうんだ」
「飲める?」
「飲めるところもあるけど、普通はお風呂にするんだ」
「おふろ、したことない」
「そうだなあ」
全身を湯につける文化は、鱗の者には少ない。
今日はこの建物で休ませてもらおう。ルジャンダルを促して宿の中へ歩を進める。
「めえはおふろしたことあるの?」
「あるよ。毛が汚れたままは嫌だからね。それに、毛を切って糸にする前には、羊人の特製の薬草湯につかって、全身の毛を加工しやすくするんだ」
荷物を解いて寝床を作りながら、羊人の里の風呂について説明した。
そう言えば、メエユーシュカのからだは、もう切って加工してもいいくらいに毛が伸びているのだ。普段はもっと長くしてから切っているけれど、今はたくさんの草が食べられないから、毛の伸びはあまり期待できない。
「特製の薬草湯はないけど、ここで毛を洗って切っておこうかな。ルジャンダル、協力してくれるかい?」
「えーっ! きっちゃうの!」
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