あしながおじさん、何センチ?

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あしながおじさん、何センチ?

 ネカフェを追い出されて三日経つ。2020年の夏は私が経験した中でも一番暑くて、一番鬱陶しい。世の中は混乱して誰かを見ている余裕がない。なのにみんな、常に誰かを見て叫んでいる──でも私には気付かない。


 ポケットを探ると30円。なんでこれだけしかないんだっけ。何に使ったのか思い出せない。家計簿アプリを見ようにもスマホはとっくに電池切れ。パンプスも壊れて、歩きにくいから裸足になった。たまらない熱さだ。焼肉はこんな気分に違いない。ああ、ハラミが食べたいな。


 影を踏みながら歩いていると、河川敷に着いた。降りると上に鉄橋があって、ここは涼しそうだ。しばらく過ごせないかと思案していると肩を叩かれた。


 振り返ると知らないおじさん。

「靴どうしたの?」

「壊れちゃったんです」

 私はパンプスをかざした。

「借りるね」

 彼はそれを手に持つと、右手を伸ばして何回か当てた。

「ここにいる?」

「あ、はい」

「待ってて」


 小走りでどこかへ行った。別にあてもないし、用事もない、私はそこにいて、三十分ほどして彼が戻ってきた。

「少し大きいだろうけど」

 彼の手にはスニーカーがあった。飾り気もなにもない、実用的なただのスニーカー。


 私はよくわからないままそれを履いた。確かに少し大きい。彼は履いたのを見て「それじゃ」と引き返そうとした。


 反射的に、私は彼の手を掴んでいた。


「あの……」

「どうしたの?」

「えと……その……」

 言葉に詰まる私に、彼は別に持っていたビニール袋を差し出した。

「何か食べる?」



 鉄橋の下で、私はおじさんに話をした。両親が別れて数年前に田舎から出てきたこと。居酒屋でバイトをしていたこと。父親について行ったこと。父親が私にしていること。戻るくらいなら死ぬこと。


 彼は口を挟まなかった。聞いているのかいないのか、ただ横にいた。ずっとずっと横にいて、私はずっとずっと喋って、そうしているうちに、たまらなく寂しくなって涙が出てきた。


 しゃくり上げる私の横で彼は黙っていたけど、「ちょっと待ってて」と再び告げてどこかへ行った。車の音がする。それから私が少し落ち着いて、涙が頬にこびりついたくらいの時に、両手に大きな袋と段ボールを抱えて戻ってきた。


「ここはあまり巡回も来ないし、雨風もある程度しのげる。寝る時は必ずこの段ボールを敷くんだよ。暑くても毛布はかぶりなさい。できればくるまった方がいい。この辺は節約して食べれば五日持つ。頭がぼうっとする時は必ず食べること。水も必ず飲みなさい。川の水は飲んじゃだめ。わかった?」


 両手にあれこれ説明する彼をぼけっと見ながら、言われたことを小さく反芻していた。よくわからないけれど、この人はたぶん、いい人なんだ。


「あの……」

「どうしたの?」

 ここまでしてもらって、まだ求めるのは悪いと思うけど、

「また、ここに来ますか?」

 どうしても確かめたかった。


「うん、また来る。それまで元気で」


 段ボールを敷いて毛布を準備して、食料を並べて……これが全部、知らない人に貰ったものだと考えると、また視界が滲むが、今度は寂しくない。また会える。あの人はまた来る。



 よく考えるとこの状態はホームレスという奴なんだろう。慣れてみると悪くない。ネカフェに缶詰だったあの頃と違わない。いや、そう思うのはおじさんがきちんと見に来てくれるからだ。


 彼は本当にまた来た。何日か開けて、また両手に色々と持って私のところに来る。


 彼はあんまり話をしない。その代わり私が話す。面白かった友達、バイト先のクレーマー、ハマっていたゲーム。いつも最後まで聞いてくれる。教師みたいに横槍を入れない、ただ私の隣にちゃんといる。私は基本的に前を向いて、誰にでもないように話す。たまに不安になって横を向くと、彼は私を見ている。──この人は私を見ている。私はこの街に来てはじめて、人からきちんと見てもらっている。たまらなく嬉しい。なんでこんなことをしてくれるのか、わからない。ただのいい人なのか、何か別にあるのか。でも、そんなことよりも、この人は私の眼をちゃんと見てくれる。



 おじさんが五回目にやって来た時、私はシャワーを浴びたいと言った。

「ウェットティッシュとか、タオルとかは使わなかったの?」

「そうじゃなくて、シャワーが浴びたい」

「流石にここでシャワーは」

「そうじゃなくて、」

 私は意を決して、

「ベッドで、一回、寝たいな。一緒でもいい」

 前を向いて、ぽつりとそう口にした。


 彼はなにも返さなかった。

 私もそれ以上なにも言わなかった。膝が少し震えているのが自分でもわかる。

 顔が赤いだろうか。怖いのだろうか。恥ずかしいのだろうか。わからない。どういう答えを期待しているのだろう。わからない。わからない──


 膝の前で組んでいた手にとつぜん硬い感触。

「千円……」

「近くに銭湯があるからそこに行くといいよ。気が利かなくてごめん」

 膝の震えが止まった。

 目に涙が溜まる。視界が滲む。

 ──たまらなく、どうしようもなく嬉しかった。


「おじさん、今日はまだここにいてくれる?」

「うん。しばらくいようかな」

「待っててね」


 私は千円を握り締めて、走ってコンビニへ向かった。まだきっと売っている。

 帰りも走った。彼は毎日来てくれるわけじゃない。一緒にいないと、時間がもったいない。


「銭湯は?」

「いいの」

 息を切らしている私に、彼は怪訝そうに尋ねる。

「それは?」

「線香花火」

 ライターも買ってきた。彼はたぶんタバコを吸わない。

「一緒にやろうよ」

 彼は苦笑いしていた。


 この付近は人通りが少ない。鉄橋を通る車も、あんまりない。たまにトラックが上を走ると、悲鳴をあげるようにして揺れる。夜は車の往来が多くて、流石にうるさい。

 手元でゆらゆらと、ぱちぱちと揺れる線香花火を見ながら、車が通らないことを願った。きっと振動で落ちてしまう。そうしたらまた次のに火をつける。また落ちる。そうして全部終わったら、おじさんは帰る。

 仄かな互いの顔もわからないような光。でも私は彼の顔がよく見える。

 一個目が落ちた。車は来てないのに。風かな。

 次に火をつける。次はもっと、もっと長く光っていられるように手をかざす。


「おじさん」

「なに?」

「靴のサイズ、幾つ?」

「26だよ」


 全部燃え尽きるのには三十分もかからなかった。



 けたたましいサイレンの音、無線の音。目を覚ますと警察がいた。大丈夫か、名前は、いろいろ。

 それからは矢継ぎ早だった。父親は音信不通、するとNPOだの、福祉協議会だのの人が来て、私の話を聞いて面倒を見て、住む家も当面のお金も、今後もあっという間に見通しが立った。


 柳生さんはすごくよくしてくれる優しい人だ。役場の橘さんも優しい。皆優しい。

 でも、皆が変なことを言う。

 危なかった。無事でよかった。同じような事例がタハツしていて。────なにが。

 私は危なくなかった。平気だった。私にはなにもなかった。人違い、だって私は嬉しかった。


「ねえ、その人の名前をちゃんと言える?」

「……おじさん」


 柳生さん達と同じくらい私をちゃんと見てくれた。なにが違うの。それで私は充分。



 一年経った。世の中は変わらずぐるぐる忙しない。生活が安定すれば、お世話してくれた人も疎遠になる。助ける人がたくさんいるから。勿論私から会いに行けば喜んでくれる。


 でも私を見つけてくれる人は、このだだっ広い街にはいない。


 休日になると、荷物を持って懐かしい場所へ行く。私は今靴屋で働いていて、あの右手が手尺と言って大きさを測るときに使うと知った。

 契約し直したスマホで色々と調べた。あの頃私のような女の子が沢山連れて行かれて今も不明になっている子も多い。社会問題になっているとか知った。

 人通りの多いところで目星をつけるとか、それでつけて行って誘導もするとか知った。

 裏にどうこうの組織、あれこれ知った。


 確か最初は、ここを歩いていたんだった。今思えば目立ったろうと思う。


 同じような子はいないだろうか。それを見ている誰かは。

 ふと、

 ひとりの男の人が目に留まった。


 自然と足が動いた。間違いかも。なんにしても、近づいて、

「あの、」

「はい?」


 間違いない。


「おじさ──」


 私の顔を見たその人は、私を突き飛ばして人混みへ走り出した。


「待って!」

 待って、待って。

 違う。違う。


「ち……待って……」

 お願い。

 とまって。


「おじ……とま……」

 人を追いかけている。

 誰もそれを気にしない。

 誰も私を見ていない。


「待って──」

 でもあなたは私がわかった。

 だから走ってる、だから待って、お願い。


「──でも、──で、いい──」

 あなたがどう言うつもりだったとか、どうでもいいんだ。

 私をどうにかするつもりで、それでいい。


 待って、待って。


「おじ──さ……」


 おじさんは、タクシーを呼び止め消えてしまった。


 息が上がる。コンビニの軒下に座り込んで、思い切り呼吸をする。



 どうでもいいんだ。おじさんがどう言うつもりだったとか。


 ただ、

 ただ、



 ただ一言、私に、久しぶり、とか、元気だった、とか言ってくれたら、それで、私は、あの人は私を救ってくれたんだと胸を張って言えるんだ。



 汗が止まらない。

 腕からも、足からも、体中から水が流れていく。都会を熱するコンクリートを冷ますように滴って、止まらない。そのうちに、目がどんどんと痒くなって、何度拭っても拭っても痒いままで、堪えきれなくなった。


「う──ぁ、あ────」


 水が落ちて、蒸発して消える。最初からなかったみたいにしてすぐに消える。


「落としてましたよ」

 そう言って知らない人が、革靴が入った箱をおいていった。初任給で買った26センチの革靴。


 私には大きすぎる、履く人もいない革靴を足元に手繰り寄せて、私はずっと泣いていた。

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