心のソーシャルディスタンス

松本青葉

第1話

 ・密閉空間(換気の悪い密閉空間である)

 ・密集場所(多くの人が密集している)

 ・密接場面(互いに手を伸ばしたら届く距離での会話や発声が行われる)

 この三つの条件が重なると感染のリスクが高まると言われている。

 現在では人との物理的距離が近づくことを「三密」と呼ぶ。



 夏というのはむさ苦しいものだ。しかしこの夏は以前よりかはマシと言えるかもしれない。二〇一九年の十二月に始まったCウイルスのパンデミック以降、三密回避特別法案が可決され三密メータというの装着を義務付けられている。その結果日本国民全員が二メートルの社会的距離を保つようになったからだ。その三密メータで距離を測られているってわけだ。そして誰かに近づくと三密警察がやって来て刑事罰が下される。プライバシーが無いとの批判もあるが仕方ないだろう。


しかし、ふと思うことがある、彼女はどう思っているのだろうか。いつもバスの前から二番目の席に座り本を読む彼女は。

 彼女は同じクラスの生徒だ。絶世の美女とまではいかないが、気がつくと何故かその後ろ姿を見つめている自分がいる。毎朝同じバスに乗っているのに何か話が膨らんだことはない。たまに目が合うし、彼女はもしかしたら俺のことを、と都合のいい妄想に浸るのは果たして何回目か。窓から入り込む熱気で思考がおかしくなったのかもしれない。しかしそんな妄想は突然の警告音とともにかき消された。


「密です。密です。あなたは現在三密状態にあります。社会的距離を保ったのち、その場に停止してください」


 乗客の男性二人組が近づきすぎてしまったらしい。バス車内という空間は判定が厳しくなるのを知らなかったのだろうか。何より迷惑だ。運転手はバスを止めて三密警察に二人を引き渡さなければならないのだから。そしてバスが停止した三分後に全身防護服に身を包んだ三密警察が現れた。


「三密警察です。あなたたちを三密回避特別法第十二条に違反したとして現行犯逮捕します」


「ふざけるなよ。俺たちは二メートルも近づいてねーよ」


「三密メータのデータは絶対です。あなたたちのような意識の低い人のせいで感染爆発が起きるんですよ」


 二人は観念したのか、それ以上は何も言うことはなく、そのまま車両に乗せられた。その後三密警察が言った。


「申し訳ありませんが、このバスはウイルスチェックを行わなければいけないので皆さん降りて下さい。これは三密回避特別法第二十一条に則った要請です。ご理解お願いします」


 仕方がないと思いつつ彼女に続いてバスを降りる。真夏の日差しで網膜がかすかに痛みを覚える。乗客はあの二人組以外は僕と彼女の二人だけだった。学校までは歩いて向かうしかなさそうだ。


「あのっ」


 突然の呼びかけに振り返ると彼女と目が合った。彼女を直視している自分に恥ずかしくなりすぐに目をそらした。


「た、大変だったね」


 彼女は消え入りそうな声でつぶやいた。


「あ、そう、だね」


 そう返したはいいものの、気まずい沈黙が流れる。彼女は俺が話すのを待っているように見えた。普段の妄想なら恐ろしいほど会話が続くのに、現実では何もできない自分にあきれてしまう。しかし勇気を振り絞り話しかけてみる。


「その、学校へは歩いていくの?」


「う、うん」


 先よりも大きな声で返してきた。


「そ、そうです。じゃあ、もしよかったら一緒に行きますか。方向も同じでしょうし」


「う、うん」


 彼女はうつむきながら答えた。そしてお互いに歩道の両端ギリギリを歩き出した。無論、三密を回避するためである。

 それから会話は続いた。世間話とも言えないような質問のし合いの繰り返しだったが、それは不思議と途絶えなかった。いや途絶えさせたくなかったのかもしれない。会話が進むたび、彼女を意識してしまう。彼女の方も僕を嫌っているわけではなさそうに思えるが、彼女は歩道の端を歩いている。もし三密を気にしない社会だったらもっと距離は縮まっているのだろうか。いや、近づいて傷つくくらいならこの距離のままでいい。


「実は私、ご高齢の人に席を譲れるのすごいと思ってた」


 と突然彼女が言った。


「え、別に当たり前だろ。それぐらい。老人をバスの真ん中に立たせるわけにもいかないし」


 と返したものの照れ臭い。ほめられたことが。それ以上に自分のことを見てくれていたことが。もしかしたら彼女は自分に好意を抱いているのかもしれない、という妄想を頭の外に追いやる。


「それを言うならそっちだって、バスを降りる時に運転手さんにいつもお礼言ってるじゃん。そういうとこ、えらいなーって」


 最後の方ははっきり言えなかった。


「えっ、あっありがと」


 またもや気まずくなってしまった。ここで会話が途切れてしまい、さらに気まずくなる。セミの鳴き声がこだまする中


「あのさ、このソーシャルディスタンスって不便だよね」


 と彼女は沈黙を破った。


「うん、でも三密を回避することで普通の暮らしができるようになったから仕方ないと思う。いつまでも引きこもってるわけにはいかないし。それにそのおかげで救われた人もたくさんいるだろうし」


「そう、だよね」


 と彼女が元気がなさそうに返した。それを見て返し方を間違えたと思ったが、


「まあ、確かに、手をつなぐこともできないしな。親子で」


 こう返すのが限界だった。


「そう、だよね」


 今度は少し明るい声だった。そしてまた沈黙。太陽が雲に隠れると彼女はゆっくりと口を開いた。


「実は私、この夏で引っ越しするんだよね」


 初耳だ。学校でもそんな噂すら聞いたことがなかった。驚いてとっさに彼女の方を見ると、彼女の目線は真っすぐ先に向けられていた。まるで未練などないと言うかのように。

 そこではじめてこの距離感で満足していた自分に気づいた。終わりを告げられるまで、この日常はなんとなく続くものと思っていた。


「どうして?」


 とりあえず聞いてみる。


「いや、うち父子家庭なんだよね。それでお父さんが例の病気で死んじゃって、それでおばあちゃんが私を引き取ってくれることになって。ごめんね、何か重い話になっちゃって」


 と彼女は笑って答えた。


「いや、ごめん。余計な事聞いて」


 仕方がない、と割り切るのは簡単だ。そう、仕方がない。でも本当は、諦める理由ができてほっとしている自分に気づいていた。そんな自分が嫌だ。できない理由を並べて何も動かない。でも今逃げたらダメな気がした。今逃げるとこれからも逃げてしまう気がしたから。そして胸が締め付けられそうになりながら一歩踏み込んでみた。


「実は、ずっと、好き、でした」


と同時にけたたましい警報音が鳴り響いた。


「密です。密です。あなたは現在三密状態にあります。社会的距離を保ったのち、その場に停止してください」


 少し近づきすぎてしまったみたいだ。それでもまだ彼女との間は遠いような気もした。もちろん突然のことに彼女は驚いているようだ。しかし何に対して驚いてるのかは分からなかった。僕の言葉か、警報音か。そもそも僕の気持ちが伝わったのかもわからない。


「本当にごめん。近づいて」


口から出たのはそんな言葉だった。


「あ、まあ、こういうこともあるよ。うん」


彼女は目をそらし、そう言った。


 あと三分ほどで三密警察がやってくる。それから三日間の保護観察処分が待ち受けている。明後日から夏休みだからこれで本当に終わりだろう。そよ風に揺られる並木だけが動く世界に二人が取り残されたように思えた。ああ、三密警察のサイレンが遠く聞こえてきた。そしてサイレンの音が大きくなってくる中、彼女が口を開いた。


「私、待ってます。ウイルスが無くなって三密を気にしなくて普通に生活できるようにになるまで」


 彼女の方を向くと目が合った。何を待つのかは言わなかったが分からないままでいいのかもしれない。だから曖昧なまま返すことにした。


「あー、俺将来研究者になるつもりなんだよね。ウイルスの」


「そう、なんだ」


 と彼女。


「三密警察です。三密回避特別法第十二条に違反したとして現行犯逮捕します」

 三密警察がやって来た。


「あ、僕が近づいただけなんで」


 と言うと


「なら、君はもう行っていいよ」


 と三密警察は少し時間を置いてから彼女に告げた。そして車両に乗り込む。もちろん座席ごとに隔離されていた。窓から外を見るとそこにはいつもと変わらない彼女の後ろ姿があった。


―――


 それから十数年後、一人の天才学者によってCウイルスの特効薬が開発された。

ソーシャルディスタンスや三密といった言葉は消え去ったのだ。

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