『霧雨に紛れて』

あん

霧雨に紛れて

あれは忘れもしない、あの晩はじめじめした霧雨だった。



 中学に入り、漸く背が延び始めた孝作は、

二つ上の兄である良雄とともに福岡から長崎の御厨まで疎開していた。

体の大きな良雄は田舎でも目立ち、しかも成績も優秀であったために、

御厨の中学校では誰からも一目置かれる立場だった。



 二人は母方の祖母の家に暮らしていた。

戦争が始まる前はよく夏休みに家族で帰省していたから、

孝作たちには古くからの顔馴染みが多く、あまり寂しさは感じなかった。



 スイカ畑を挟んだ隣家には、孝作と同い年の美紀子がおり、

小さい頃から一緒に遊んだものだ。

美紀子は男勝りで気が強く、孝作が近所の連中に苛められた時などは

竹箒を振り上げて苛めっこを追い散らしていたほどで、

孝作は美紀子には全く頭が上がらない。兄良雄と違い、

孝作は引っ込み思案のために遊び友達は少なかったので、

美紀子はいつも孝作を引っ張り回していた。




 戦争は日に日に激しくなり、先週は福岡が大空襲で消失したと聞かされた。

父母の消息はわからない。狼狽する孝作に良雄は「狼狽えんな。

もうすぐ俺は佐世保に働きに出るけん、兄ちゃんはお前の面倒は見れんとぞ。

お前もはようしっかりして働くんやぞ」と叱りつけた。



 祖母の小さな畑での稼ぎなどで食べてはいけないのは孝作も

肌で感じてはいたが、二つしか離れていない兄がもう働きに出ると聞き、

心細さと共に尊敬する兄への誇らしさを感じた孝作だった。




 御厨から佐世保までは山を二つばかり越えなければならない。

朝靄の中出立する良雄を、美紀子と孝作は見送った。

佐世保までの峠道は険しいが、この頃出征する学徒兵たちが数多く

御厨を経由して佐世保へ向かうため、

山中の往来が多いので道中の心配はあまりない。



 峠の松の木を越えて兄の姿が見えなくなるまで見送り、

残された孝作はしばらく手を振っていたが、

美紀子は遠くに出征兵士の集団を見つけて慌てたように我が家に走っていく。

峠を越えるために出征兵士たちがこの近辺で腹ごしらえをするため、

村の人々は自分達は食べない白米を炊いて握り飯を用意するからである。



 美紀子の後ろ姿を見て、孝作ものっそりと後を追う。

孝作も白湯を飲ませる仕事があるのだ。

家に着くとすでに美紀子が白湯を沸かしてくれていたので、

白湯を薬罐に入れて外に出る。

隣家では美紀子が板に握り飯を並べて運び出している。

到着した出征兵士たちは孝作達より歳が3つか4つくらいしか違わないが、

彼らはこれから戦争に行くのだ。孝作は戦争は好きではない。


 しかしあと何年かすれば自分も戦争に行かねばならない。

兄もまもなく出征するだろう。

何よりも美紀子に会えなくなるのは怖かった。

甲斐甲斐しく出征兵士に握り飯を配る美紀子を見ながら、

いずれ自分にも同じように彼女は握り飯を渡すのだろうと思い、

身がすくんだ。




 梅雨は間もなく明けようとしていたが、その日は夜も突然の霧雨で、

裏庭で薪割りをしていた孝作は軒先に駆け込んでいた。

通り雨が過ぎるのを待っていたら、隣家からこうもり傘が歩いてきた。


「母ちゃんが孝作んとこ持ってけって」

見れば芋蔓とツワの煮しめだった。



「いつも悪いなあ」

「ツワなら山に行けば一杯あるけんよかとよ」

持ってきたお裾分けを祖母が皿に移す間、

軒先で二人並んで雨空を見上げていた。



「良雄兄はどがんしよるかねえ」

「佐世保の海軍基地の工場で働いとるみたいよ」

「基地の…そうね…」兄に懐いていた美紀子は少し寂しそうだ。

「孝ちゃんには言うばってんね、ウチ…良雄兄んこと好いとるとよ」

「…そうね」そう返事はしたものの、孝作は美紀子の方を見れなかった。




 夜の11時過ぎのことである。

空襲警報で目を覚ました孝作は、庭に飛び出ると霧雨に紛れて飛ぶ

100機以上のB29を見た。このところ空襲が減ってきていたせいか、

付近の村民は油断していたためパニックに陥った。



「ありゃあ佐世保ば狙っとる」

空を見上げて良雄の無事を祈り手をすり合わせてお題目を唱える祖母を

裏庭の防空壕に引っ張って行くと、今度は防空壕にいた美紀子が

佐世保側の空を見上げながら走り出した。

それを見た孝作が後を追う。


「美紀子でけん!戻れ」


そのまま小高い丘まで登った美紀子は、佐世保の空が真っ赤に燃えるのを目撃した。


 世に言う佐世保大空襲である。1945年6月29日の深夜であった。

本来ならば佐世保のような小さな港町にこれほどの規模の爆撃を行う意味はない。

しかし佐世保には海軍基地があり、戦略上の重要拠点であるために

佐世保は狙われたのだった。



 燃える空を見ながら、泣くでもなく、喚くでもなく、

木の下で立ち尽くしながら美紀子はただただ黙っていた。

追い付いた孝作も何も言わずに空を見た。



 良雄兄は無事であろうか・・・そう思いながらなすすべも無く

空を見る孝作の耳に、暗がりの中、何やら美紀子の足元から水の滴る音が聞こえた。


雨の音だろうか。暗くて何も見えないが水源は美紀子であることだけはわかった。



 その水たまりが広がって孝作の草履を濡らした時、

孝作の心の中に、人として許すことの出来ない様々な思いや衝動が押し寄せ、

彼の心を取り込み身体がビクビクと痙攣するのを感じて



…ゾクリと背筋が凍りついた。



                  —完—


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『霧雨に紛れて』 あん @josuian

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