悲愴の研究〈名探偵のいなかった空白の3年間〉

綾波 宗水

大空白時代の習作

 彼からより詳細な話を聞いたのは、再びホームズ君と再開出来た喜ばしき、またモリアーティ教授の腹心、ロンドン第2の危険人物たるセバスチャン・モラン大佐に関する事件が無事解決した少し後の頃である。

 したがって、読者に彼の語った大まかな進路は伝える事が出来たが、その機微なる心情に関しては、ついに書くことがなかった。


 1894年5月4日。私を絶望させ、英国民がホームズ君を英雄視すると同時に、類いまれなる知能を失った哀しみを感じたあの日。

 それだけでなく、あの忌まわしいジェームズ・モリアーティ教授の命日であり、ナポレオンが所有した軍隊、民兵の如く統率のとれた犯罪組織が、あたかも一緒にライヘンバッハの滝壺へ落ちたと思われたホームズ君へ、仇を打たんと躍起になり始めた日という、英国史上稀にみる、人心が揺れ動いた1日でもあったのだ。


 ホームズ君はあの3年間、モリアーティ一派の残党をことごとく審判の場へと引き出そうと努力し、かつ、自身が生きていると世間にバレないように、秘密裏に、偽名や彼の得意とする変装術を用いて活動してきた。


『空屋の冒険』事件が解決し、ストランドへ投稿する原稿を執筆していたある日の昼食を済ませた頃、彼はいつものように、私の書き方に小言を挟む。

「ワトソン君。君の著作では僕を推理機械のように描く事が多いね」

「そんなことはないよ。君のユーモアなどもしっかり書いているつもりだ」

「無論、純粋推理は、極めて科学的に記録されるべきだ。しかし、僕は冷血漢ではないつもりだがね」

「そうは言うが」

「僕があの3年をどういう感情で過ごしていたと思う?」

 彼から心情を吐露されるのは稀なので、私は注意深く、彼の思索を邪魔する事のないよう慎重に聞き出した。

「僕はね、残虐非道な犯罪者には多少の違法行為とも言える対処はしても構わないと思う。いやいや、そんな顔をするなよワトソン君。君の紳士ぶりは僕も見習っているよ。ただし、如何なる犯罪者であっても、法の赦すところでない、違法な手段として用いる事は断じて許されない」

「僕もそれは賛成だね」

「そうだろうとも。だからこそ僕は悩んだ。そうしなければ自分だけが死んでいた事もよく理解していても、僕は奴を殺したのだ」

「しかしそれは君の言うとおり、仕方のないことじゃないか」

「むしろ僕の自尊心は、つまらないものだが、この自尊心が傷つけられたのは、世界中見渡しても、そう多くない高知能の持ち主と僕が対決した。それなのに最後は滝壺へと落とさんとして必死になっていたという事実なのだ。僕はあの時、僕の、人間の最期に見せる醜悪さを知ったね」


 彼はあの3年の後、些細な点ではあるが、性格の変化をみせ、熱心な読者からは「やはりあの時、モリアーティと死んだのでは?」とまことしやかに囁かれていた。第5ノーサンバランド・フュージリア連隊の軍医補として従軍した時、私は彼のように、殺戮行為による精神的消耗に悩まされた人間を数多く見たので、彼の辛い心情は安易に察する事が出来る。

 ただし、彼の完璧なまでの理性における、そういった苦悩の深さは、軍隊で見受けられるものではない。その精神の荒涼たるや、如何ほどのものか、これは私にさえも分からない。


「僕はね、国々を放浪し、趣味の一つである化学実験に打ち込んだ時もあった。それに生き残ったからには、残党を一人残らず捕まえる使命もある。君もかねがね心配してくれていたが、以前の僕なら数ヶ月で、奴らを捕まえる事が出来たが、自分の精神を安定させるために、逃さぬ範囲で地道に捜査したのだ。それが3年という歳月を必要とした大体の理由だよ」

「そうだったのかい。僕も出来ることなら支えたかったが……」

「ありがとうワトソン君、ありがとう。しかしあの時の僕は、自分に嫌気がさし、その上人間嫌いと言っても過言ではなかった。時には探偵も辞めて、本当に死んだことにしようかとさえ思ったさ」


 彼は良心の呵責に悩み、それが正義に基づく行動であっても、天職たる唯一の職業、私立諮問探偵を廃業しようとしたのだ。モリアーティのある種の呪いは以降、度々彼を諸方面から脅かした。

 モリアーティが死亡してからの事件は大抵空虚に感じるようになり、いつだったか、モリアーティを追い詰めたのは間違いだったのでは、と世迷い事さえ言ったこともあった。

 悪の具象化、明確に現れたライバル。事件そのものを報酬とする彼にとって、事件解決が目的であるのに、それを心なしか拒む思いも浮かび始めたのだろう。




 かつては私もそう思っていた。

 しかし、告白しよう。

 と。


 読者はここで、舞台装置に私が悪の帝王を産み出したのか、と推測されるであろう。

 実はそれも違う。モリアーティ教授はのだ。


【あり得ないものを取り除いていったとき、最後に残ったものが、どんなに信じられなくても、真実に違いない】


 モリアーティとは、ホームズ君の『強迫観念の具体化』なのである。

 彼は酷使した頭脳と体力、コカインによる幻覚作用などにより、モリアーティなる人物を虚空に見出だしたのだ。

 彼の名誉のために、モリアーティの兄が誹謗中傷してきた、と『最後の事件』で書いたり、『小惑星の力学』という著作まで伝えたが、そんなものは存在しない。それはモリアーティが裏社会の人間である故に、秘匿されているのではない。

 数々の犯罪者は確かにいた。モラン大佐も実在する。しかし、「彼らの裏には、それを操る頭脳がいる」とホームズ君が思い込んでしまったに過ぎないのだ。


 私は唯一の友人として、医者として、読者へ謝罪する。

 彼の晩年を思い出してほしい。田舎で隠棲し、養蜂で日々を過ごし、「探偵学大全」を執筆するどころか、『実用養蜂便覧』などという著作を最後に、何の論文も発表していない。かつて『緋色の研究』の時、彼と出会った時に、『人生の書』という大それた論文記事を発表したあの「シャーロック・ホームズ」はもうこの世にはいない。

 確かにドイツ人スパイを捕まえるには至ったが、それもマイクロフト率いる、大英帝国の誇る諜報部員からの報告から、彼の頭脳が導き出したものであり、かつての純粋な活躍とは実は言えないのである。

 読者は私に憤慨しているかもしれない。ホームズを見くびったかもしれない。


 しかし、彼は自らの能力をすり減らし、犠牲となって、我が国の犯罪のみならず、大陸における諸犯罪も解決したのだ。

 その代償がモリアーティであり、一応の回復をみせるまでに要したのが、誰にとっても長く辛かったあの3年なのである。

 彼の犠牲なくして、今日の我々はなく、来るべき20世紀、21世紀と続く、未来の平和は存在し得なかったのである。

 その礼として、ヴィクトリア王妃はホームズ君へ、ナイトの称号を何度も賜ろうとしてくださったが、彼は頑なにそれを良しとせず、代わりに私が授かる事となり、恩給の半分以上を彼へと渡している。

 もちろん、素直には受け取らないので、在りし日のハドソンさんを彷彿とさせる、マーサという大家に渡しているのだ。


 ホームズ君の熱狂的支持者が日に日に、それも喜ばしい事に世界各国で現れている今だからこそ、彼の「人間」である部分を意識してほしい。

 恒久な平和は、隠れた本心を察する事が重要になるのだ。度々辛辣であったホームズ君と仲違いしなかったのは、私が嫌がる本当の部分には口を出さず、たとえば私の銃の撃たれた箇所もそうだが、観察眼の優れた彼が、その文を見落とすはずはなく、しかし指摘しない、見極めがあったからである。


 私も、そして読者の皆さんも、彼に救われていた事を改めて知ってほしく、またそれは、彼の犠牲の賜物であることを、この度公開したかったのだ。


「教育に終わりはなしだよ、ワトソン君」

 今でも彼の言葉は私の脳内で語り続けている。私の著作は「研究」に始まり、「研究」に終わるのだ。


 ハドソンさんも、マイクロフトも既に亡くなり、ホームズ君より3歳年上の私もそろそろ死ぬだろうから、最後に、病気となったホームズ君への感謝とお見舞いの意を込めて、この記録を私たちの、英国民の心の友となった雑誌・ストランドへ投稿し、幕を閉じる。



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