鉄紺は誰の夢を見る

なぎの庭

プロローグ

前書き

“新即物主義”。それは、歴史の記録に埋もれかけている記憶。

埋もれかけているのなら、また掘り返せばいい。

これは彼らの記憶を巡る、追憶と希望の物語。

※史実は忠実に再現しているつもりですが事実誤認である場合もございます

※登場人物たちの多くは実在した人物です。検索避け等を徹底してお願い致します

※参考文献は近況報告に記載してありますのでそちらをご確認ください


─────


1969年夏。僕は死んだ。


僕は、オットー・ディクスという男は、自分でいうのもなんだけれど、中々に波瀾万丈な人生を送った。ドイツに生まれ、絵や彫刻を学び、戦争を戦い抜き、帰還後はとある芸術運動に身を投じた。そして、時勢と対立し、かの独裁政権から迫害された。戦争も再度始まり、逃亡生活を余儀なくされた。もちろん、仲間たちも。ある者は国外逃亡をし、ある者は死んだ。僕はなんとか逃げ切った。と、思ったら今度は老年兵の徴収に遭った。それを生き延び、貧困の生活を送りながらも歩いていたら、次々と仲間たちが死んだ。大切な、仲間が。ゲオルク・ショルツ。マックス・ベックマン。そして、ジョージ・グロスさえもが、死んだ。

一人に、なった。

「『私は自分の時代の夢も幻も、ありとあらゆる人間の夢も幻も、描くのである!』……己の言葉が、こうも突き刺さるとは」

共に夢を見た仲間たちは皆、先に逝ってしまった。遺された我らは──“新即物主義”は、恐らく僕だけだろう。我らはまだ、認められていない。国から勲章は貰ったりはしたけれども、まだ、足りない。まだ………………!まだ、死ねない!死ぬわけにはいかない!

「大丈夫だよ、きっとまた会えるから。時が来たら、会いに逝くね」

そう、ジョージの墓に花を手向けた。


足掻き続けた僕は、最後にレンブラント賞を受賞した。画家として、とても名誉な事だった。

まだまだ浅いかもしれないけれども………歴史に爪痕を、遺せた。その年はちょうど、ジョージの死から十年が経っていた。そして僕は、十年目の彼の命日を過ごしてから、彼の誕生日を祝うようにこの世を去った。これで、ようやく皆に会えるはずだった。

しかし、僕は彼らの元に辿り着けなかった。この世界は、死んだ際の祖国の評価で冥界の行き先が違うらしい。つまり、迫害の最中に死んだ彼ら──祖国ドイツ、そしてそのドイツに併合されたオーストリアに認められぬまま死んだ彼らと、形のみだとしても、死ぬ間際に数々の賞を貰った僕。その差は、明確で──。

「…………僕は、彼らにはもう二度と会えないのですか?」

冥府の番人だという案内人に問う。

答えは、“Jaはい”。僕と、彼らが会うのはほぼ不可能であると案内人は言う。

僕は、死してなお、一人ぼっちだった。


◾️◾️◾️◾️◾️


──死してなお、独りぼっちになってから、半世紀が経った。

相変わらず、僕は独りで絵の具を混ぜ、時に腐蝕液を用いて銅板を掘っていた。絵の具といっても、僕のパレットに存在する色は濃淡が違うだけの黒色しかなった。元々世界はそんなに彩豊かではないと思っていたけれど、それがここまでくすむとは。

「…………主観に、囚われすぎているなぁ。完全な即物性がこの世にあるとは思わないけれども、これは、ダメだ。これでは、“新即物主義”を、名乗れないな…」

“新即物主義”。“即物性”を重点とし、世の中の地獄を炙り出すか、マテリアルに身を委ねるか、そのあり方は様々だ。“即物性”をどう捉えるかも個人の匙加減。根底に共通するのは一種のニヒリズムのみ。その程度の定義の我らは、何事も生きている人々の評価で左右される冥界では、その存在自体をも曖昧にされていた。ここにいる僕でさえ生前のある特定の出来事を覚えていないことがある。きっと、他の彼らの存在は、酷く曖昧になってしまっている。

「…………足掻けたと、思ったのだけれどなぁ」

まだ甘かったのか、人の忘却速度が異様に速いのか、その両方か。

ああ、彼らに会いたい。愛しい彼らに、逢いたい。共に歪な夢も幻も描いた彼らに、面識はなかったけれども同じ主義に数えられた彼らに、逢いたい。何故、僕はここにいる?僕だけが、ここにいる?全てに、押し潰されそうになる。

一人は慣れている。しかし、独りは初めてだ。本当の孤独が、こんなにも重たく、陰鬱なものだとは。

自嘲混じりに鼻を鳴らした時、背後から声が落とされた。

「らしくないな、オットー・ディクス」

その声は、匂いは、記憶のどこにもない。もしくは、

「どちら様かな。僕の知り合いは、ここには………いない、はずだよ」

半世紀ぶりに他者に発せられたその声は、自分でも驚くほどに弱々しかった。ああ、これは相当、参っている。

「随分と憔悴しているな。ここは大抵の人間が羨む場所だと言うのに」

その声に文句や皮肉のひとつやふたつでも言ってやろうかと振り向くと、背の高い男がこちらを見下ろしていた。フードを深く被っていて顔は見えないが……ああ、こいつは人間じゃないな。直感的に、何故だかそう思った。

「無様な顔だな、オットー・ディクス」

「煩いな。そんなの、僕が一番よく知っているよ」

こちらを揶揄する言葉に、素直に声に苛立ちを乗せる。そんな事わかっている。思わず自嘲を零すほどだ。──自嘲する癖は生前からだが、その頻度が明らかに増えている。

「流石は“新即物主義”の最精鋭、オットー・ディクスと言ったところか。己すらも冷静に分析し、嘲笑の対象と捉える。自らを時に否定しながらも揺らぎはしないその芯の強さ……」

「やめろ」

男の言葉を遮る。思ったよりも、低くザラついた音が出た。“新即物主義の最精鋭”?“揺らぎはしない”?僕が?この有様を見てもそう思うのか?こいつの目は節穴か?

「どうした?皮肉の一つや二つもなく、それか。らしくもない。自由を渇望し叫んだジョージ・グロスが信頼したお前が、それか。あの男もその程度か?何たる皮肉だ」

その言葉が、引き金となる。

「ジョージの名を語るな」

先程よりも、低く、敵意と殺意が混ざる声。ジョージ・グロス。僕をダダイズムの舞台に引っ張りあげてくれた年下の彼。誰よりも強く華々しくあった彼。何故、貴様にその名を語られなければならない…………!

「僕自身についてはいくら侮辱してくれても構わない!だが、彼への侮辱は止してもらおうか!」

そう吠えると男は心底愉悦だとでも言いたそうに声を立てて笑う。それがまた、神経を逆撫でする。

「声を荒らげるとは。それ程あの男に気を許していたという事か。“即物性”に重きを置くオットー・ディクスが。矛盾する事を言う」

──ああ、結局、またそれか………!!

「矛盾している?僕が?まさか!していないさ。貴様が勝手に、僕は、とレッテルを貼っているだけじゃないか!あの時のように!!僕の一つの側面を垣間見た程度で!全てを知ったかのように振る舞うなっ!!僕の真意は、僕の想いは、僕しか知らないのに!人はすぐに決めつける!型にはめようとする!そもそも相反する想いを持ち合わせるというのは、特殊な事でも無い!貴様が僕をどう見ようと勝手だか、それは貴様の身勝手な幻想に過ぎない!驕り上がるのもいい加減しろっ」

相反する事と、矛盾する事。それは全くもって違うものなのだ。相反するが共存し得る事だってある。それなのに人は、頑なにそれ認めようとしない。自分の理想像を押し付ける。もしくは、自分が理想だと思う一欠片のみを真実だと思い込もうとする。

憎悪と嘲りに任せてまた吠えようとしたその時、「そうだな」と男は僕の言葉を肯定した。突然の事に目を見開くと、もう一度男は頷いた。

「そうだ。お前の言うことは正しい。お前は、お前たち“新即物主義”は、多面性の塊のような男の集まりだ。断片的な情報だけでお前たちを判断する事は、非常に愚かで危険な事だ。よくぞ言った。よくぞ叫んだ。オットー・ディクス。お前が叫べるのなら、まだどうにでもやれる」

そう軽快に笑った男は、フードを取り顔を覗かせた。長い黒髪を靡かせた、鮮血のような紅の瞳を持つゾッとするほど美しい男。

「試すような事をしてすまなかった。謝ろう。そして、前言を撤回しよう。お前は、“新即物主義”のオットー・ディクスだ」

突然の事に毒気を抜かれた僕は、静かに脱力する。彼に、乗せられただけだったか……。

「………ご覧の通り、今の僕は“即物性”とは程遠いよ。完璧な即物性なんて元よりないけれども、これでは“新即物主義”は名乗れない」

「何を言う。均衡が少し崩れただけだ。お前は“新即物主義”足り得るよ。多面性を語れるのなら、お前はまだ大丈夫」

そう笑った彼は、僕に一つの提案をした。現世に、我らの──“新即物主義”の記憶を掘り起こす旅に共に出ないかと。その言葉に目を見開く。

「そんな事が、可能なのかい?」

「可能か不可能かでいえば、不可能。しかし今回は──特例だ。昨今、歴史を軽んじる傾向が強まっている。このままでは、お前たちどころか歴史の大局すらも危うくなる。この状況を覆せるのは、“即物性”と“客観性”を併せ持ち、自らさえもを嘲笑しながら時代に抗った“新即物主義”以外有り得ない。そう判断した」

なるほど。時代に見放された我らに、その“時代”を救えと。そういう事か。

「ははっ!それこそ、何たる皮肉!我ら“新即物主義”に相応しい舞台だ!いいよ。引き受けよう。時代なんてどうでもいい。ただ、彼らが忘れ去られるくらいなら──僕は、“憐れな役者”になってやろう!」

ああ、笑ったのなんて、久方ぶりだ。何時だったか、僕をシェイクスピアに例えた者がいた事を思い出しながらそう叫ぶ。

皮肉も、嘲笑も、もはやどうでもいい。憐れな役者となろうと、かの独裁政権を敵に回した時のように、派手にかませばいい。僕にはそれがお似合いだ。

「交渉は成立か」

そう笑う男にもちろん!と笑みを返す。覚悟はもう、出来ている。

「いい顔になったな。オットー・ディクス。私は──この冥界を統べるもの。ひとまずはカラスバとでも呼んでくれ。その方が好都合だ」

「了解したよ。カラスバ。……上手く使ってくれよ?」

そう好戦的に投げかければ、男は──カラスバは歪に口元を歪めた。

「誰に向かってものを言ってやがる」

この声に乗っていたのは、一種の高慢さと、それ故の公平さ。そして穏やかな音。その音にひとまずは信頼しても良さそうだと安心して笑う。

「さて、お前たちの反撃を、再開させよう」


僕はまた、感情を逆立てて立ち上がった。



【史実解説】


◾️新即物主義

第一次世界大戦終戦(1914-1918)から第二次世界大戦(1939-1945)が勃発するまでの約十五年の間にドイツを中心に興った芸術運動。ドイツ語ではNeue Sachlichkeit。世の中の事象を冷たい視線で捉え、『即物性』とある種のニヒリズムを有する画家たちを指す。シュルレアリスムと境を曖昧にする『魔術的リアリズム』(後述)を有する画家たちともされる事もあるがそれも厳密には“少し違う”らしい。が、『魔術的リアリズム』の使い手とされる画家たちも多く所属していることは確かである。

新即物主義の中でも細やかかつ複雑な派閥があり、どこをとっても曖昧で、非常に不安定な派閥。そのため誤解を招くことも多い。

日本での知名度は限りなく低い。

筆者(なぎの庭)も完全に把握出来ているわけではない。恐らく彼らのいう『即物性』は、二つの戦争の狭間にあったあの時代の狂気と混乱、怒りと絶望を理解しない限り辿り着けないのだろうと思う。


◾️魔術的リアリズム

新即物主義に数えられる多くの画家が使った手法。と言っても、具体的な共通点といえば『現実と非現実の融合』程度である。それがどのように画面に発揮されるかは画家次第。同時代の代表的な派閥シュルレアリスムと境界を曖昧にするものの、その不安定な定義から知名度は低い。筆者が軽く絶望する程度には低い。


◾️新即物主義(魔術的リアリズム兼)の主なメンバー

▪️アレクサンデル(アレクサンダー)・カノルト(1881-1939)

▪️マックス・ベックマン(1884-1950)

▪️ゲオルク・シュリンプフ(1889-1938)

▪️ゲオルク・ショルツ(1890-1945)

▪️オットー・ディクス(1891-1969)

▪️ルドルフ・ヴァッカー(1893-1939)

▪️ジョージ・グロス(1893-1959)

▪️カール・グロスベルク(1894-1940)


◾️本編登場人物解説

▪️オットー・ディクス(Otto Dix)

1891年12月2日生。1969年7月25日没。

新即物主義のキーマン。『即物性』を唱えたマックス・ベックマン(1884-1950)と共に『新即物主義の父』と呼ばれる事もある。“汝の目を信じよ!(Trau deinen Augen!)”をモットーとし、時代の流れに抗った男。

第一次世界大戦前から絵を学び、1909年にベックマンが即物性を唱え論争を巻き起こすといち早くそれに追従する。

1914年、第一次世界大戦が勃発。志願兵として機関銃部隊に加わり、負傷や病気などで戦線離脱を繰り返しつつ最後まで最前線で戦い抜く。副曹長として部隊を束ねていたことも。戦後は絵の学術を再開させる。写実的かつデフォルメされた人物画やダダイズム的なコラージュを用いた風刺画を描く。

1920年ジョージ・グロス(1893-1959)等の招待を受け『第一回国際ダダ見本市』に出展。1924年に己が見てきた戦争の現実を描いた代表作『塹壕』を発表。大論争を巻き起こす。

ナチスが政権を掌握すると、退廃芸術として弾圧されるようになる。1938年、彼らの作品を貶める『頽廃芸術展』に目玉として作品が展示され、公のコレクションからも作品を押収される。代表作である『塹壕』はベルリン市民が見守る中、様々な作品と共に燃やされてしまった。公職からも追放され国外逃亡を余儀なくされる。

1945年に国民突撃隊に召集される。終戦を捕虜としてフランスの地で迎える。解放後東ドイツの地に帰る。数々の賞を授与されるも、仲間たちに置いて逝かれる。最後にレンブラント賞を授かり、1969年7月25日永眠。


─────

後書き

お付き合い頂きありがとうございます。筆者のなぎの庭です。

新即物主義非公式広告塔創作、『鉄紺は誰の夢を見る』お楽しみいただけましたでしょうか?

彼らの物語は決してハッピーエンドとは言えません。そもそも物語開始時から主人公であるはずのオットー・ディクスの精神がボロボロという。どうしてこうなったごめんなさい。

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