第29話
しっとりと雨の降る脇で、二人の男が将棋盤を挟み向き合っていた。五所川原邸の縁側で、静かな日本庭園を眺めながらの対戦である。
勝負に没頭するのは、事件が片付き久々の休日を満喫するマムシのヤスと、よもや隠居のような生活を送っている五所川原一徹であった。
五所川原のこめかみに、青筋が浮き出ている。
「お前さん、刑事のくせに、随分姑息な手を使うじゃねえか」
ヤスは顔に、余裕の笑みを浮かべている。
「将棋の勝負に姑息もクソもあるかよ。そもそも刑事ってのはな、姑息にいかなきゃ手柄をたてられねえんだよ」
その言葉で、五所川原の頭にますます血が上る。
五所川原が将棋盤をひっくり返す寸前で、丁度よく妻の雅子が顔を出した。
「あなた、皆さんがおいでになりましたわよ」
五所川原はここぞとばかり、「そうかそうか、残念だがこの好勝負はお預けだな」と、いきなり将棋盤の上の駒をばらばらにした。
今度はヤスのこめかみに、血管が浮き出る。
「どこが好勝負だ。相変わらず汚え手を使うじゃねえか」
すっかり機嫌を直した五所川原は、余裕の態度で言い返す。
「それは極道にとっての褒め言葉だぜ。可愛い孫が来たというのに、ジメジメとじじい相手に将棋なんてやってられるか」
ヤスも負けじと、「それはこっちの台詞だ」と言った。まるで子供の喧嘩にようだ。
二人は庭に沿った縁側を通り、揃って座敷に顔を出した。
その日は五所川原邸にて、ある祝賀会を催すことになっている。
食事は、五所川原邸では中規模の広さを持つ、二十畳の和室に準備されていた。普段は身内の食事で使われる部屋だ。
二人が部屋に入ると、五所川原雅子、康夫と貞子、孫たち、猪俣が、既に料理が乗る座敷テーブルを囲んでいる。
そこへヤスの視界に、驚愕の人物が飛び込んだ。彼は自分の目を疑った。
その人物とは、拘置所で裁判の始まりを待っているはずの、
「おおっ、どうしてお前さんがここに……」
言葉を失ったヤスに、五所川原が声をかけた。
「ヤスさんよ、まあ座われや。今日は康夫君のめでてえ職場復帰祝賀会だ。野暮な話は抜きだ」
それでもヤスは、動揺を隠せなかった。
「そうは言ってもよ、こいつは、ここにいちゃあならねえ奴なんだよ」
うろたえ、同意を求めるよう周囲を見渡すヤスの様子に、一同が笑いを噛みしめる。
ヤスはいつもの冷静さを失い、ひと目もはばからずに慌てた。
「みんな、なにニヤついてやがるんだ。おい、誰か説明してくれ」
康夫がようやく口を開いた。
「ヤスさん、心配することは何もありませんよ」
猪俣も言った。
「おやっさん、乾杯が先ですぜ」
ヤスの困惑をよそに、猪俣が立ち上がり、強引に乾杯の音頭を取る。
ヤスも仕方なくグラスを取ったが、その視線は相変わらず
「若旦那、今回の若頭代行役、お疲れ様でございやした。無事に事件も解決し、若旦那はめでたく職場復帰となります。わたしとしては少し残念ですが、これは若旦那の希望ですので、おめでたいことだと思うことにしました。今後の若旦那のご活躍を、心より祈願いたします。それでは皆様、乾杯!」
一同がグラスを持ち上げ、乾杯と声を揃えた。
その日は身内だけのささやかな宴である。若い衆も参加せず、小ぢんまりとした食事会だ。そうでなければ、刑事であるヤスを招待するのは無理なことだった。暴力団の大宴会に出席したことが外部に漏れたら、やましいことがなくてもヤスの立場が悪くなる。
それぞれが料理に手を付けだすと、早速仏頂面のヤスが言った。
「さて、そこの客人の件を説明してもらおうか」
「おやっさんも歳をとって、ますますしつこくなってきやしたね。どうしても知りたいんですか?」
猪俣は顔に笑みをたたえたまま、いたずらっぽい調子でヤスに尋ねる。
「当たり前だ。逮捕して起訴したばかりの人間が目の前にいて、気にならん刑事がどこにいる」
猪俣は驚いた顔をした。
「ヤスさんだけは、普通じゃないと思ってたんですがね。そうなら言いますが、その人は
猪俣の態度には、もう少しヤスを困らせ、酒の肴にしようとする魂胆が透けている。
「なに? おい、真面目に分からんぞ。だったら俺が逮捕したあいつは誰なんだ?」
今度は康夫が答えた。
「もちろん
ヤスは頭を抱える寸前だった。逮捕したはずの人間が突然目の前に現れれば、ヤスが戸惑うのは当然なのだ。
ようやく五所川原が、助け舟を出した。
「ヤスさんよ。実はな、
「双子?」
ヤスは驚きの声をあげ、湿った目付きで
そしてふとヤスは、それにしてもまだ不思議なことがあることに気付いた。それは素朴な疑問だった。
「それが、どうしてここにいるんだ?」
貞子はテーブルの一番端で、話を聞いていない振りをし、子供に料理を勧めたり何かを話しかけている。
それまで沈黙を守っていた
「どうも収まりが悪そうなんで、それはわたしが言いましょう。わたしが坂田さんに、弟分にしてもらったからですよ」
ヤスは「弟分?」と、素っ頓狂な声を出す。
双子かもしれないが、見た目はあの狡猾な
「しかし、一体どうして……」
ヤスにはどうしても、理解できないようだ。今にも彼の顔に困惑というニ文字が見えそうな気がするほど、眉間には皺が寄り眉毛の両端がつり上がっている。
「初めて坂田さんと会談を持った日、彼に、
ヤスにとっては、驚きの連続である。
「なに? 一徹さん、あんたあの男まで引っ張り出したんかい」
五所川原と付き合いの長いヤスは、五所川原と
五所川原は、恥ずかしそうに頭をかいた。
「除の件が、どうにもならんかったからのう。あいつには借りだらけで少し恥ずかしかったが、まあ借りついでじゃと思ってな」
「まさか、
そこから猪俣が補足した。
「つまりここにいる
康夫は如何にも恥ずかしそうにしていた。
「僕なんか、まるで駄目なんで、お断りしたんですが」
しかし、五所川原は言った。
「康夫君、そんなに卑下することはない。君は自分の価値に気付いとらんのじゃよ。これはな、人の上に立つには何が大切かという問題なんじゃ。君にはそれが備わっとる。だから本音を言えば、君には五所川原組に永久就職して欲しいんじゃ」
五所川原は全ての成り行きを見ながら、猪俣同様、康夫の能力に気付いていた。
五所川原のその言葉に、敏感に反応を示したのが貞子だった。
「お父様、わたしは男の世界に口出しするつもりはありません。わたしはいつでもやっちゃんの意思を尊重し、それを支持します。それだけは言わせて下さい」
貞子の本音は、康夫を危険な目にあわせたくないということだった。その世界に身を置けば、どうしてもそんな場面に出くわすのである。
貞子は幸せな家庭を継続さえできれば、お金や地位や権力など、全く気にならなかった。彼女はいつでも、康夫の健康と安全だけを祈っているのだ。
そんな貞子の気持ちに、康夫はいつも感謝している。五所川原親分や母の雅子も、それが幸せになるための正しい道だと理解していた。
猪俣も援護射撃をする。
「おやっさん、あっしももちろん若旦那には残って欲しいんですが、結婚するときに若旦那へ言った約束は、守らなければなりやせんぜ」
「ふむ、それはそうなんじゃがなあ」と、五所川原の言い方は、未練をたっぷり含んでいる。
歯切れの悪い親分に、猪俣は言った。
「なに、また相談したいことがあれば、若旦那はきっと助けてくれますよ」
そこで
「おそらく猪俣さんより、わたしの相談が多くなりそうですがね」
「それで、どうして
現役の刑事らしい質問である。康夫は迷いなく答えた。
「二人は歩き出し方が違うんですよ」
「歩き出し方?」
康夫は頷いて続けた。
「実は僕たちは、新宿の殺人事件を調べるために、
「そのことは、自分たちも全く気付いていませんでした。しかし言われてみれば、弟は武術をやっているので、構えるときには左足を前に出します。その特徴は、そのことに関係あるのかもしれません」
ヤスは口をへの字にして唸る。随分間延びした、地鳴りのような低い唸り声だった。
「一徹さんよ、俺はあんたの婿さんを、うちにスカウトしたくなっちまったぜ。普通はそんなこと、気付かないもんだがなあ」
「確かになあ。康夫君、どうやったらそんなことに気付くもんかね?」
康夫が「さあ、自分にも分かりません。たまたまですよ」と答えると、貞子は「やっちゃんは普通じゃないのよ」と言った。
「彼は真面目過ぎるのよ。他人を傷付けるのが嫌いだし、抜け駆けとか嘘をつくとか、そういったこともできない人なの。だから会社ではいつも損な役回りばかりで、見ていて気の毒になるほどだった。同期の人たちはみんな、陰でやっちゃんを世渡りが下手だと言ったわ。そんなことを言う人ほど、仕事をしないで、上手に立ち回るの。面倒を他人に押し付け、手柄だけを横取りするのよ。やっちゃんは顧客や会社のことを考えて、いつでも真面目に仕事をするの」
「お嬢、それのどこが普通じゃないんでやすか?」
「本来は、やっちゃんみたいな人が普通であるべきなのよ。でもね、一般の社会では、それが普通に見えなくなることがあるの」
「それは警察も同じだぜ。足を使わず、手柄だけは欲しい連中が増えた」
「そう。会社というところは不思議で、真面目な人ほど出世できないのよ。要領のよい人が出世する。でもね、立ち回りのよさだけで出世した人から会社の看板や肩書きを取れば、ただのでくの棒よ。わたしはそういう人を信用しないし、人もそんな上司には心からついていこうと思わない。でも自分のことになると、みんなそうやって出世したいの。何か変だけど、そういうものなのよ。そんな風潮に染まっていない彼は、私から見れば普通じゃないし常識的でもない。今回のことは、常識的な人には気付けないわよ」
確かに康夫は、普通とは少し違うのかもしれない。
普段はぼんやりし、主張の強い人間でもない。だから人の多い大企業でさえ誰も彼の才能に気付かず、会社からは全く評価されない。しかし本人は、そのことをまるで気に掛けない。何事にも淡々とし、他人が心配するようなことにはひょうひょうと臨む。ある意味鈍感にさえ見えるのだ。
しかし今回の件で、康夫のしつこさと緻密さは、普通ではなかった。
監視ビデオ画像を穴のあくほど観察し、断片情報からストーリーを組み立て、自分の推理に対する裏付けを徹底し、そして曖昧な点は更に追求した。どれも並みではなかった。あの影山が途中で放り出したくなったものを、康夫は地道に調査を続けさせ、事実を積み上げ、作戦を練った。
康夫本人は、猪俣を始めとする周囲の助けがなければ、自分は何もできないと言った。
それは事実かもしれない。しかし五所川原や猪俣、そしてヤスや影山は、そうした康夫の努力がなければ、この結末は迎えられなかったことをよく知っている。
「お嬢も普通ではないですし、お二人は最強の夫婦かもしれやせんぜ」
「あら、猪俣、わたしの何が普通じゃないのかしら」
「ほら、その人を射抜く目ですよ。お嬢くらい腕のたつ女性は、まずおりやせんぜ」
彼女はあらゆる武術に精通し、空手と柔道は黒帯、剣術は父親譲りで、日本刀を持たせると、彼女は何かが取り憑いたような凄まじい気を発する。
貞子の凄さは、相手のあらゆる動作を正確に予測できる勘にあった。相手の顔付き、筋肉の動き、思考や動作パターンから、貞子は五感を総動員し、相手の次の攻撃を読み切ることができるのだ。よって仕掛けた方の攻撃はことごとくかわされ、攻撃中に生じた隙を突かれれば、百戦錬磨の猛者でも貞子にはかなわない。
猪俣が貞子と互角に戦えるのは、彼が、自分から攻撃を仕掛けなければやられることがないことを知っているからだ。
貞子は猪俣の言葉に、不満を漏らす。
「人を怪物みたいに言わないで欲しいわよ。そもそも、散々ご馳走してあげたのに、どうして料理の達人って言わないの」
ヤスが即座に同調した。
「そうだよ。さだちゃんの料理は本当にうめえんだ。猪俣、あんたはそういう、がさつな感性しか持ち合わせてねえから、いつまでも嫁をもらえねえんだよ」
思わぬところへ飛び火し、猪俣は首を引っ込め「へい、仰る通りで」と退散する。
そんな康夫を囲み、その日の宴は上昇気流のように上り調子で盛り上がった。
開けた酒樽の中身はみるみる減り、中盤では乱痴気騒ぎの様相を呈していた。康夫と貞子の馴れ初めとなった、腹芸まで飛び出す始末だった。
康夫と猪俣のコンビ芸は愉快だったが、そこへ
五所川原とヤスは、将棋での諍いなどすっかり忘れ、打ち解けている。元々二人には、貞子の幸せを心から願うという、共通の強い想いがある。それがある限り、二人の間に存在する絆が壊れることはないようだ。
そんな様子を見ながら、猪俣は感無量であった。
猪俣は、一円連合を変えたかった。
暴対法施行で、暴力団組織も変わらなければ、そのうち生きてゆけなくなることを彼は憂いていた。
組織にぶら下がる大勢のはみ出し者が拠り所を失えば、それは組織と世間の双方にとり悲劇である。はみ出し者が更にはみ出せば、それが社会で、新しい犯罪の温床となるのだ。世間では既に、その兆候が見え始めている。
康夫の存在は、一円連合に新しい息吹を吹き込むのに丁度よかった。猪俣は、素直に何でも吸収する康夫の柔軟性と、鋭く偏見のない不思議な感性を見抜いていた。その上で、康夫に若頭代行をお願いしたのだ。
康夫の登用は、かたぎの感覚でどのように暴力団という組織を運営するかという、一大実験のようなものだった。世間に迎合するつもりは更々ないが、孤立し過ぎるのも問題である。
そして康夫は身体を張り、そのやり方の一つを具体的に示してくれたのだ。
猪俣は、それを今後どう活かすかについて、あとは自分の仕事だと思っている。いつまでも康夫を、この世界に縛り付けておくことはできないのだ。
翌週から、康夫は会社に復帰する。毎朝の通勤ラッシュに揉まれ、靴底をすり減らして歩き回り、上司からプレッシャーと嫌味をもらう毎日だ。
そんな彼が、実は関東圏や全国各地の荒くれ者から一目置かれる存在であることは誰も知らない。
会社復帰後、果たして康夫の何かが変わるのか、あるいは会社の方が康夫の何かに気付くのか、それは神のみぞ知る領域なのかもしれない。
しかし猪俣は、やがて会社でも、康夫は頭角を現すだろうと予想していた。
ますます存在感を増した一円連合を、言葉一つで動かすことのできる康夫は、名実ともに陰のドンになった。彼がその気になれば、その世界に君臨できるのである。
しかし康夫は、また普通の人生を歩もうとしている。
実は康夫は、自分の生きる道は何でもよいと思い始めていた。一円連合の仕事は、やり甲斐もあったからだ。人情の残るこの世界は、やもすれば一般社会より居心地がよいと思うことさえあった。
しかし、普段感謝の念を寄せる貞子の願いが何であるかをよく知る彼は、暴力団組織と一定の距離を保つことが、自分のつとめであるような気がしていた。
妊娠騒動から半ば強制的に結婚という道を用意された康夫は、長年連れ添った貞子を今では愛している。その愛する人の願いに応えるのが、康夫の貞子に対する愛の示し方であった。
これからもまだ、波乱万丈は続くかもしれない。しかしそれはそれだと、康夫は思っている。
貞子との二人三脚、猪俣との親交があれば、康夫は何があっても乗り切れる気がした。
康夫のために催された祝賀会が、終わりを迎えようとしていた。ヤスの疑心暗鬼で始まった宴も、始まってみれば賑やかで、それぞれみんなが幸せな顔をしている。
新参者の
康夫は会談の中で、
突然猪俣が、主役の康夫に締めの挨拶を振った。
「若旦那、本日の主役として、どうか挨拶をお願いいたしやす」
賑やかだった会話が中断し、場が静まり返る。
康夫は挨拶が嫌いだが、仕方なく立ち上がった。その姿をみんなが注目する。
康夫は突然、緊張した。
一息飲んで、彼は話し始める。
「今日は僕のためにお集まり頂き、ありがとうございました。さだちゃんと結婚する前、僕はこの世界と無縁の男でした。それがこうして、名だたる方々と一緒に酒を飲み交わすなど、夢にも思わなかったことです。そしていつも思うのですが、こんなに波乱に満ちていながら、いつでも暖かさを感じる皆さんに囲まれ、僕はさだちゃんと一緒になれて本当によかったと思っています」
ここで康夫は、一旦間を取る。彼の顔が高潮した。
そして彼は、勢いよく言い放つ。
「突然ですが、僕はここで改めて、宣言したくなりました。さだちゃん、色々ありがとう。そして愛しています。これからも宜しくお願いします」
貞子は両手を頬に当て、驚きとはにかみを混ぜこぜにした表情を作ったが、「わたしも愛してるわよ」と、頭を下げる康夫に大きな声で返事をした。
五所川原親分は、意外な康夫の挨拶に目尻の皺を深くして微笑み、お母様は「あらま」と言って、珍しく感情豊かに笑った。
それでも、康夫らしい挨拶であった。
ヤスはとびきり激しく拍手を送り、それにつられるように周りも康夫に拍手喝采となる。
康夫は照れくさそうに頭をかいて、何度もみんなに小さなお辞儀を繰り返した。
みんなの幸せな気持ちを代弁するように、五所川原邸に響き渡る盛大な拍手は、中々鳴り止まなかった。
(了)
陰のドン 秋野大地 @akidai
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