第2話

丁度4歳の頃といえば、幼稚園に行く年頃になっていた。

離婚のゴタゴタでなのかは分からないが私は幼稚園には行かなかった。

兄は小学生低学年だった。

私は建設会社に務める父や学校に行く兄が出かけた後に1人で起きて、多分 父が用意してくれていたであろうちょっとした朝ごはんを食べてお昼休みになってバイクで父が私のお昼ご飯の為に一時帰宅してくれるのをテレビの教育番組を観ながら待っていた。

する事もなく教育番組ばかり観ていたので小学生に入る頃には小学校4年位の知識があった。字は稚拙だったが勉学については1年生になる頃にはちょっとしたテスト等は10分程度で終わり暇な時間を過ごしていた。

当時の時系列は曖昧だが家の電話から父の職場に電話ばかりしていた記憶もある。

実にくだらない用事でかけていた。

しかし、その事で怒られた記憶は無い。

私の小学生生活が順風満帆だったかといえばそうではなかった。父も母も直毛だが私と兄はものすごい天然パーマであった。

少しカールしてるとかウェーブしてるとかではなくアフリカや黒人の人達みたいな天然パーマだった。何もしなければアフロの様な有様だ。不思議な事に妹は直毛だっのですが遺伝とは不思議なものです。今では縮毛矯正やストレートパーマ等色々とあるが当時は何も無くて恰好の虐めの対象だった。小学生に上がる前には父じゃ髪を梳かしたり結んだり出来なくて坊主にされていた。

幼稚園に入らず1人でいた期間が長くて小学生になるのが楽しみだったのにその時は凄く残念で子供なりに憤りを感じていて、1年生の担任の先生に反抗的態度だったのも覚えている。相当ひねくれていたと思う。

今とは違い給食費や学級費を期日までに提出して無い生徒は黒板に名前を書かれていたというのも虐めの対象だった。

お金が無かった訳では無く、仕事や色々な事で忙しく期日に合わせて持たせてくれなかったのだろう。そもそも父は時間にとてもルーズなタイプの人で待ち合わせの時間になってから家を出るような性格だった。よく会社員が務まっていたなと思う。

父は私が小学生中学年以降には企業して自分で設計事務所を設立した。その理由は会社員だと転勤があり母親がいない子供2人を連れて数年おきに転勤は無理だからだと父が後に語っていたが、それまでその時間のルーズさでよく会社をクビにならなかったものだと思う。

その頃は母はまだ長崎市に住んでいたと思う。父が居ない時にこっそり電話をしてきていた。近くにあった高島屋系列のデパートで待ち合わせしてたまにあっていた。

離婚した時に父について行きたいと言ったが決して母が嫌いだった訳では無かった。そもそも私が父について行きたいと言ったから父が引き取ったのかといえば それだけじゃ無いだろうと思う。後から聞いた話では母には離婚する時にはもう恋人がいたらしい。そういう大人の事情が本当の理由なのだろう。

後にその母の恋人は母と結婚して私に今も残るトラウマを植え付ける事になる人だった。

母とデパートで密会して、そこのレストランで美味しい物を食べてお人形さん等のオモチャを買ってもらうのが楽しみだったし、母が恋しかった。

その日も母と密会の約束をしてデパートに向かった。母と会ったと同時だった…なんと父がやってきたのだ。父は私を担ぎあげ連れ帰ろうとして階段を降りていった。泣きながら母を見るとゼスチャーでまた電話するよ!と合図を送ってくれていた。そんな母を見て私はまた更に悲しくなって涙が溢れた。

何故その時に父がやってきたのかは、祖母から聞かされた。祖母は父の育ての母親で私の事が好きでは無いと子供心に感じていた。

私が母とデパートで会っているのを父に知らせたのは兄だった。何故かは未だに分からないが兄は母を嫌っていたようだ。

同じく母を嫌いだった祖母はその時の兄の行為を褒めたたえていた。その時に兄が父に密告したのだと知った。

小学校の時の話に戻るが、やはり母親が居なく服も毎日着替えられないし、そもそも母親のやってくれるだろう身の回りの事も何も出来てなくて更に虐められていた。

冬も裸足だったし毎日着替えてもいなかった。好きでそうしてる訳でもないのに虐められる事に怒りを覚えていた。その頃の私はまだ心が強かったと思う。

虐められても負けたくなかったし、殴り合いの喧嘩もした。意地があったのだと思う…子供なりの。

でも、本当は学校で虐められるよりも陰口を叩かれる事よりも もっと辛い事があったから…だから学校での虐めなんかは平気だったのです。

父が企業してからは家に帰ってくるのがもの凄く遅くなっていた。仕事だけではなくて麻雀屋に入り浸っていた。兄と麻雀屋まで夕飯代を取りに夜遅くに歩いて行ったこともある。その後も帰りが遅いのは変わらなかったが御夫婦で経営している定食屋さんが近所に出来て、そこの定食屋さんでツケで夕飯を食べる様になった。とても優しい御夫婦でしたが、息子さんが殺人事件を起こしてある日突然その定食屋さんは無くなった…それは私が中学の時だったし、その時私は長崎に居なかったので後に調べてどんな事件だったのかを知る事になる。

それはまた別の思い出である…

話を戻して、父が家に殆ど居ない状態の時、今で言えばネグレクトなのだろう。

そうなると私は学校に行ってる時以外は殆ど兄と2人で過ごさなければならなかったのです。今思えば兄もネグレクトの被害者であり何らかの精神的苦痛があったのかも知れませんが、兄のその感情の矛先は私でした。

精神的にも肉体的にも私に苦痛を与え続けていました。奴隷の様にこき使うのは当然でしたが、埃だらけの押し入れの中のケースを舐めろとか裸になって外に立っていろ、コップいっぱいに入れた醤油を飲めと言われていた。やらないと殴られる。私はそれに従うしか無かったのです。暴力といえばビンタや蹴ったりを想像するかも知れないけれど、そんな生易しいものではありませんでした。裸にされて体中を抓るのです。小さい青アザが体中にありました。小さく抓ると凄く痛いのです。アザが出来るほど痛いのです。体中にびっしりと小さな青アザがありました。学校で年に何度か身体測定で下着姿になっていたのですが、問題視もされず誰も助けてはくれませんでした。頭を蹴られよろけて玄関の硝子が割れて、そして頭から血が噴き出しても父に言ったら殺すと言われ怖くて誰にも言えないまま、絆創膏をはっただけにしていました。今も右のこめかみの上に傷があり、触るとピリッと痛みが走る時があります。針で指を刺されたり、もちろん殴る蹴るは毎日で来る日も来る日も兄からの虐めは続きました。怖くて怖くて夕方になっても家に帰ることが出来なくなったりしました。家の近くでずっと隠れて父の帰りを待ったりしていたのですが、帰ってきた父は家に戻ってない私に怒り そして殴られました。大人達は私が問題児であると思っていました。私にはそれを何とかする術はありませんでした。誰も私を愛してはくれませんでした。

それでも私はまだ希望を持っていました。

母です…母は私の事を好きでいてくれるだろう。そう思っていました…

でも、小学生中学年の時に母は例の恋人と結婚して福岡に行ってしまい私の前から居なくなってしまいました。たまに長崎に帰ってくると聞いた時は何時の列車か分かりもしないのに朝からずっと長崎駅の改札の前で何時間も待ち続けていました。

そんな家での生活は学校での虐めなんかの比ではなく学校での生活は別の世界の出来事の様でした。遠足にお弁当を持っていけず何も食べれなくても運動会の時にもお弁当が無くて一人ぼっちでも平気でした。可哀想にと同級生のお母さんが私の分のお弁当を持ってきてくれていた事もありましたが、自分自身は自分が可哀想な子供だと思っていなかったのです。学校は家での生活に比べるとまだマシだったのです。

まだ小学生中学年だっただろうか…兄と兄の友人に下着を脱いでコタツに入れと言われた。最初は兄の友人がコタツに潜って来た。

私の下半身に指が触れていた。痛くは無かったが怖かった。次にヌメっとした感触が下半身に走った。直ぐにそれが舌であると分かった…気持ちが悪い…でも痛くない。我慢すれば痛い思いはしなくて良いのだ。ひとしきり私の下半身を舐めまわしたら、次に兄がコタツに潜り込んで来た。

しかし、兄はその時 私に何もして来なかった。友人には「お前と同じ事ばしたぞ」と言っていた。でも、兄は私に触れても居なかった。その時の兄の心境は兄にしか分からないですが、単に汚らしい奴隷の妹が性の対象じゃ無かったのかも知れないし、その禁忌だけは踏み外せないと思ったのかもしれない。

もっと良く言えば、さすがにそこまでしては可哀想だと思ったのかも知れない。その後も兄が居ない時にその友人は私に何度も同じ事をしてきた。それは兄も知らないと思う。

ただ、性行為自体をされた事は無くて舐められるとか触られるとかだった。気持ち悪いし嫌だったけれど、痛くないから…そう思っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

本当の自分 八咫烏 @kaede1192

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る