夜一夜

 集合時間は夜の十時。場所は校門前となっていたが、四人全員集まるまでに見知らぬ人間に怪しまれてしまいそうだったので、少し離れたところで待ち合わせをして、直接校舎裏の斜面に行くことにした。

 気休めにイヤホンで音楽を流していたが、それに干渉するほど心臓はうるさく跳ねていた。今耳につけているのは聴診器なのだろうか、と波佳は思った。

 待ち合わせ場所に着くと、先客がいた。そくりだった。波佳はイヤホンを外して彼女に近付いた。

「久しぶり」


 波佳がひょいと声を掛けたとき、蓮行はすゆきそくりはじっと下を向いていた。声に驚いて勢いよく顔を上げると、波佳が笑みをこぼした。

「波佳ちゃんか。早くない?」

「そくりが言う? それ」

 何を話せばいいのかわからない。数秒間の気まずい沈黙を振り払おうと、そくりはぎこちなく口を開いた。

「アキタも阿原も遅いね! わたしたち、せっかく早く来たってのに。この寒い中待てってのかよ、うう」

 波佳は困った顔をした。それを見て、そくりは、言い方がまずかったかと自分の言葉を反芻する。

 波佳はスマートフォンの画面を見て、ぽつりと言った。

「秋太は、電車が遅れてるっぽい。アパラチアは……わかんない。既読も2のままになってる」

「アキタのほうは……人身事故、とか?」

「信号の故障だって」

「……すぐ復旧するといいね」

 そくりは空を見上げた。たった十年のうちに、大半の星がこの街に愛想を尽かしてしまったらしい。

 自然と思い出話が口を突いて出た。

「わたしさ、学生の頃ずっと『演じてた』でしょ」

 波佳は「そうだね」と頷いた。

「でも、私たちが同じクラスだったときはそうでもなかった……よね?」

「良いクラス、だったから」

「昔のそくりはさ、誰にでも分け隔てなく接しようとしてたのはわかるけど、際限なかったね」

 そう呟くと、波佳はため息をついた。おそらく、ずっと周囲に異常な献身をするそくりの心身を案じてきたのだろう。

「反省してるよ。ほんと、人間ってやんなくていいことやっちゃうよねえ」

「それをやらなくてよかったのがあの一年ってことでしょ」

「そういうこと! わたしたちのクラスに乾杯だね」

 言いながら、そくりの中には違和感が渦巻いていた。

 楽しかった、そう、楽しかったという思い出はあるのに、記憶がない。始業式の日の期待感も、卒業した日の寂しさも覚えているのに。

 あのクラスで過ごした一年だけが、幾重ものベールに包まれている。

「てか、やんなくていいことといえば! 『おまじない』なんて誰が始めたんだろうね! まどろっこしいことしてさ」

 そくりは明るく笑ったが、その笑い声は乾いていた。

「ごめんごめんごめん! 間に合ったぜ」


 遠くから息を切らして走ってきたのは、紅木秋太べにきしゅうただった。

「電車動いたんだね、アキタ!」そくりが元気よく話しかけた。

「ちげーよ、パス。まだ止まってる」

「ほんとだ」波佳がスマートフォンを見て言った。「息を切らして来たってことは……走ってきたんだね」

「あとここまで二駅だったから」

「さすが元陸上部! いまだ衰えを知らないね」

 そくりが親指を立てた。

「おう」秋太は少し恥ずかしそうに笑った。「パスは、もうお茶点てないのか」

「点てないよ。忙しくてとても……」

「お茶会、校内でもたまにやってたよなぁ」

「みんな、よく来てくれたよね」

 秋太は懐かしむように腕を組んだ。すぐに解いて、波佳に聞く。

「じゃあ、クロナは今何やってんだ」

「小説の編集者」

「文芸部だったから?」

「まあ、結局のところそうかな」波佳は首を傾げながら言った。「そうかな?」

「十時! というかもう十時十五分! とっくに時間だよう」

 そくりが腕時計を着けた右手を挙げて言った。

「拓は?」秋太は辺りを見回した。

「アパラチア、また個展の作業じゃないの」波佳が言った。

「え、俺ですら研究結果の分析を同僚になんとか引き継いで、任せてここ来たのに……」

「私、電話掛けてみる」

「波佳ちゃん、強めに言ってやってよ」

 コール音が際限なく続いて、どうしようもなく不安を煽る。やっと電話が繋がり、波佳はいっぺんに捲し立てた。

「ちょっとアパラチア! なんで来てないの、もう三人とも集まったよ」

 返事がない。

「何、大丈夫? 遅れるならいつ着くか言ってほしいんだけど」


「ごめん、今着いた」

 三人の背後と、波佳のスマートフォンのスピーカーから同時に声が聞こえた。阿原拓あはらたくだった。

「お待たせ」

 拓は笑った。その身体の状態には似つかわしくないくらい、自然に笑った。

「……どうしたの、その傷」

 秋太が三人の気持ちを代弁した。

「初め、転んで。その次、ぶつけて。どこも折れてないし、平気だって」

「アキタ、服も汚れちゃってるじゃん」

 そくりの声は震えていた。ひとの痛みには鋭い子だったな、と拓はぼんやりと思った。ぼんやりとしか、思い返せなかった。

「こんな時間に校舎裏なんか入ったらどうせ汚れちゃうんだから、良いって。ほら、行こっか」

「……怪我人に斜面を歩かせるほど、私たちは困っているわけじゃないんだけど」

 波佳が言った。

「見張りも兼ねて、下で待っていて。お願いだから」

 嫌、とは言えない。拓は全員の荷物番と周囲の見張りのため、待機することになった。


 拓を除いた三人で斜面に踏み入る。勾配も雑草も昼なら何ともないが、夜の闇の中ではなにもかもが脅威になりうる。波佳は目の辺りに木の枝が刺さりかけて思わず声を上げていたし、秋太はもう何ヵ所も手に切り傷を作っていた。

 そくりは斜めに生えた細い木をを便りに出来る限り上まで登っていた。

「何かあるー?」

 下の方から波佳の呼びかけが聞こえて、大きめの声で返事をする。

「なーい! 波佳ちゃんとこは?」

「私もダメ! 秋太!」

「こっちも収穫なし! クソ、痛えな……」

「みんな、一度降りておいで」拓が声を張ったのが聞こえた。

 仕方なく、そくりも斜面を下る。慎重に行かねばならないと思い、そっと降りていく。

 左足が枯れ葉を踏み締める。右足は──つるつるとした曲面を捉えきれず、滑った。

 そくりは思わず悲鳴を上げた。

「パス!」秋太がいち早くそくりのもとに向かった。

「そくり? 何があったの?」

「な、なんか……埋まってたのかな、とにかく、土じゃないと思う。ずるっと行っちゃったよ」

「蓮行! それがタイムカプセルなんじゃないかな?」下から拓が言った。「……ごめん、前言撤回! 三人で、掘り起こしに行ってほしい」

「いいよ」

 そくりはすぐに答えた。無理を言われるのは慣れているし、無理をするのは得意分野だ。

「パス、立てるか」

 秋太は肘を差し出した。何度も枯れ枝や鋭い葉が裂いた掌はきっとひりひりと痛んで、もう使い物にならないのだろう。

 そくりは秋太の腕を抱えて立ち上がった。足首を捻挫したらしいが、それどころではない。何も言わずに肩を借りて歩いていると、秋太は立ち止まった。

「お前、足やったろ。歩き方が変になってる」

「……うん。でも、わたしが転んだとこがどこかは、登ってたわたししか分からないでしょ。だから降りないよ」

 固い決意の込められた言葉に、秋太は無言で足を進めることで応じる。

 推定ポイントに着くと、そくりは地面に手をついてまさぐった。散乱した木片が手にざらざらと当たった。プレートはとうに朽ちていたのだ。

 土を払うと、鈍く銀色に光る球形の物体が現れた。

「それがそうなの?」いつの間にか近くに来ていた波佳が尋ねた。「私が持ってアパラチアのとこまで降りるよ。秋太、そくりをお願い」

「了解」

 波佳は器用に斜面を駆け降り、月光に球体を晒した。さまざまな角度から観察しつつどう開ければ良いか戸惑っていると、拓が一点を指した。

「構造的に──ここ、押さえると開くよ」

 言われた通り、波佳が親指で負荷をかけると、バネ仕掛けのように蓋ががたっと開いた。

 タイミングよくそくりと秋太も降りて来た。

「お、開いたのか」秋太は手近な段差にそくりを座らせた。

「波佳ちゃん、中身は?」

 秋太による応急処置を受けながらそくりが尋ねた。

「……ケーキだ、これ」

 二秒の静寂が月に照らされた。三人は口々に混乱を訴えた。

「ほかほかの、スポンジケーキです。うん」

 波佳は自分自身を納得させるようにそう言った。

「あと、ナイフがついてる……」

 すべらかなナイフを波佳が取り出すと、小さな紙片が落ちた。秋太がそれを拾って読んだ。

「『おまじないはこの満月の夜に成就します。前でも後でもだめです。前ならただのタイムカプセルになっちゃうし、後だと腐っちゃう』」

「わたしたち、来てよかったね」そくりが言った。

「『かけたおまじないは、思い出を失くさないための──魔法です。アパラチアは計画進行表とかの管理が上手かったので手帳か何かに記録つけてもらいました。彼が無事その場にいると良いなあ』」

「魔法……?」拓の声は困惑していた。

「ほんとに、おまじないなんてあったのか?」

 秋太がいきなり紙から顔を上げて言った。

「俺、ずっとこれには懐疑的だったんだ。タイムカプセルはいいけど、そんなよくわからないことしてどうするんだって。……ていうか、思い出せないんだけど」

「何を」拓が訊いた。「何を、思い出せないの?」

「あの、学校生活で一番楽しかったはずの、最後の一年間だ。なんにも、覚えてない」

「……わたしも」

「私もだよ」

「僕もだ。つまり全員、あの学年での記憶を失ってる」

 秋太は紙に視線を落とした。文章には、続きがあるらしい。

「『みんなの一年ぶんの思い出を、文字通り封じ込めました。正しく切り分けて食べれば、また思い出せるよ! でもこんなことして、オレはバチ当たるかもなぁ』……サイコパスか、こいつは」

「罰当たり、か」波佳は顔を覆った。「おまじまいの提唱者、亡くなってるの。そんなこと書いてあったら、このせいだって、思ってしまう」

「なんでわたしたち、これに賛同したんだろ」

 そくりの問いに拓が答えた。

「それだけ僕たちは楽しかったんだよ、きっと。あのクラスは誰もにとって完璧な居場所だった」

「『ケーキが何らかの方法で消滅すると、あの一年の記憶と記録は完全に失われます。来られなかった人は残念ですが』」秋太は足元の石を蹴飛ばした。「……ふざけんな」

 四人とも黙った。ケーキをどうすべきか話し合わないといけないということを全員が感じ取っていた。

「食べよう」拓は静かに言った。「あの一年を永遠に無に帰すことだけは避けたい」

「でも! そんなことしたら覚えてるのはわたしたち四人だけになっちゃうよ」そくりは悲痛な叫びを絞り出した。「他の誰とも、もう思い出話出来ないんだよ」

「……切り分けるね」波佳がそっと、ケーキにナイフを滑り込ませた。

「波佳ちゃん!」

「そくりも、あのクラス、楽しかったでしょ。なら、こうするしかないよ」

 何が、とは聞けなかった。波佳は今にも泣き出しそうだった。彼女自身、ナンセンスなロジックをかざしたことを情けなく思っているだろう。

「『最後に、みなさんの幸せを願って』……よし、食べようぜ。拓の言う通り」

「アパラチア、四等分でいい?」

 拓はしっかりと頷いた。

 ふんわりと柔らかいスポンジ生地は、するすると四分割された。

 波佳は「お先にどうぞ」と三人に向けて差し出した。

 初めに一切れをそくりが食べた。もそもそと口を動かしながら、そくりは波佳を見上げた。

「……おいしいよ、このケーキ。シロップ、クリーム、フルーツ、なんのトッピングでも合いそう」

 一切れを秋太が頬張った。

「懐かしい味がするな、これ。有り体に言うと、誕生日ケーキの美味しさ、かな?」

 一切れを波佳が口にした。

「五月に、九月に、二月に、こんなことがあったんだ。何で忘れてたんだろ……こんな、こんな楽しいこと……」

 最後の一切れを拓が食べきった。

「責任の味わい、とでも言いたくなるね」

「責任?」

 秋太が口を拭いながら言った。

「僕らはもう、何も忘れちゃいけないんだ」

「私は、忘れる気がしないよ」

「わたしも。……でも、怖いね。思い出を話せる相手が居なくなったとき、わたしはどうなるんだろう」

「約束をしようぜ。俺たちは、この記憶を守るっていう約束を」

 秋太が月光を背に言った。真夜中になり、満月は穏やかに膨張しながら、絶え間なく遥か遠くの太陽の光線を弾いていた。


 無言で四人は別れた。

 噛み締めた思い出を、これから消化するところだ。

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タイムカップケーキ 書矩 @Midori_KAKIKU

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