飛行機雲ショートクロス

阿礼 泣素

青い空に一筋の雲

――夏、青い空に白い雲が一筋にのびている。飛行機雲だ。


 その飛行機雲は、自由なように見えているが、どこか縛られているように感じた。


 まっすぐ、決まった場所に、きっちりと行きつく雲。


 まるで、この結果に辿り着くことが最初から決まっていたみたいだ。


 その雲は途中でうっすらと消え失せている。


 一体どこに続いていたのだろうか……



 中学三年の夏、最後の試合は王路南おうじみなみ中学との試合だった。王路南は小学生からテニスを習っているジュニアと呼ばれる連中ばかりがレギュラーになっている、良く言う強豪校と言うやつだ。


 俺は旗塩はたしお中学ソフトテニス部の三番手だ。中学生のソフトテニスの団体試合はダブルスの三本勝負、一番手から始めて、先に二勝した方が勝者となる。こうして三番手である俺の出番があると言うことは、一対一で勝ち負けが拮抗していると言うことに他ならない。


 最後の試合で出番があると言うことは傍から見れば大変名誉なことだ。3年生が30人いるこの旗塩中ソフトテニス部では、なおさら、試合メンバーに選ばれるだけでもすごいことだ。結果はどうであれ、誇れることなのかもしれない。


――だが、俺は今、この場から一刻も早く逃げ出したかった。


 俺は今まではBチームで所謂いわゆる、二軍と言われるメンバーだった。最後の試合だけ、先生のお情けでレギュラーに選ばれた(と思っている)。だから、こんなプレッシャーのかかる舞台で勝負するなんて、胃がキリキリと痛んだし、心臓がバクバクと大きく鼓動した。実際、試合前には腹痛でトイレにこもっていたし、昨日の夜から緊張しっぱなしだ。


 ダブルスのペアである山上やまがみは、いつものように飄々ひょうひょうとしている。こいつはいつもこう言うやつだ、きっとO型だから大雑把で気にしないんだろう。俺はそう思っている。


「お願いします」


 コートの真ん中に立って挨拶を交わす。シューズ越しに地面の熱さが伝わってくる感じがする。


「ファイブゲームマッチ、プレイ」


 主審の合図とともに試合が始まった。


「先行!」


 後ろから部員たちの大きな声援が聞こえる。俺はこの補欠部員たちの思いをも背負っているんだ。そんなことを感じながらコートの左側に立つ。


 一球目、相手からの鋭いサーブが飛んでくる。山上がタイミングバッチリで返球した。相手はそのボールに素早く反応し、さらに速い球を返してくる。その速球も、山上は平然と打ち返す。


 その次、さらに速い球を打ちこもうとした相手がネットにかかるかかからないかのギリギリの球を打ち、その球が儚くネットの中へと吸いこまれた。


――最初にポイントを取ったのは俺たちだった。


「よっしゃー!」


 俺は思わずガッツポーズをする。最初のポイントを獲得できたことは大きい。中学校のテニスは所詮しょせん、メンタル勝負なところが大きい。技量があったとしても、負けの流れが強くなると、そのまま勢いでされてしまうこともある。先行して点を取ることで、精神的にも優位に立つことができる。


 だからこそ、開幕一ポイント目は、一ポイントであり一ポイントではないのだ。


「もう一本先行!」


 後ろからまた応援が聞こえる。試合に集中しなければならないと思えば思うほど、他のことに気が取られてしまう。雑念を振り払おうと、ラケットをくるくるとまわしてコートの向こうの長谷はせと書かれたユニフォームだけを見つめた。


 次は、俺のレシーブの番だ。前衛の俺はサーブもレシーブも、2番目に回ってくる。このまま点差をつける場面でもあり、ミスして振り出しに戻る場面でもある。俺の得意なのはショートクロスのコースを狙うこと。


 ショートクロスとは相手のコートの手前端のことで、虚を突くことができれば、一発で点を取ることができる魅力的なコースである。今まで何度も成功してきたし、きっと確率を見れば、一番得点率が高い攻撃だろう。


 だから俺は迷わずショートクロスを狙った。


――ファサ。


 手前を狙いすぎて、ボールが手前のネットで引っ掛かる。あっという間に相手に点を取られてしまった。


「ドンマイ」


 山上が俺に向けて声を掛けてきた。ダブルスではミスしたペアにドンマイと声かけするのが普通だ。だから山上も俺のことを気遣ったわけではなく、習慣的にその言葉を発しただけにすぎない。こういうときはとても申し訳ない思いになる。レシーブミスはあってはならない所業の一つだ。とりあえず相手のコートに入れさえすれば、勝負はできる、試合は始まる。


――だからこそこの失点は痛かった。


「せんこーう!」


 自分を奮い立たせるように、過ちを犯した自分を叱責するように、俺は言い放った。次はミスしない。


 相手のサーブがサービスラインすれすれで入った。山上は少し態勢を崩しながら返球する。その隙を突いて容赦ない一撃がコートを越えてきた。山上は相変わらずどんな速い球も球速を緩めて相手のコートにしっかりと返している。


 山上は後衛、俺の後ろでボールを打つ役割だ。長所はその粘り強さで、相手がどんなに強い球を打ってきても、それをいつもと同じペースで返球することができる。そのスタミナと、ぶれないフォームが認められ、入部当初から一軍入りしている。


 山上のラケットが少し振り遅れたのが分かった。ボールはコートの真ん中に落ちる。そのチャンスを逃さなかった相手長谷は、思い切り、俺の方目掛けてスイングした。


――バチン!


 大きな音と共に、ボールをしっかりとラケットの正面で捕えた俺は、相手が反応できないコースにボレーを決めていた。


「ナイボレー!」


 これは偶然だ。決して俺が意図したようにプレイして、点数に結びついたわけではない。咄嗟に顔の前に構えたラケットにボールが当たっただけだ。手がジリジリと先ほどの感覚を伝えている。もう次はないぞと訴えかけてきているようにも思えた。


「取ってラスト!」


 あと二点で一ゲーム獲得できる。落ち着いて、落ち着いて、落ち着いて……


 相手のサーブがネットにかかる。二回目のセカンドサーブがコートに入る。さきほどのファーストサーブよりも球威が落ちていたこともあり、俺は難なくショートクロスを決めることができた。


 しかし、一度手前に落とす姿勢を見せていたこともあってか、相手の長谷・宮本コンビは悠々と俺のレシーブに対応する。


 俺はただネット前で好機を逃さないように努めた。ボレーやスマッシュできるタイミングを虎視眈々とうかがう俺だったが、先に仕掛けてきたのは相手の宮本だった。


「んなっ!」


 山上の甘めのロブを少し下がって宮本が飛翔した。宮本のラケットが太陽と重なって、随分と神々しい。


――もちろん、スマッシュを返球できるはずもなく、ここでまたポイントが並んだ。


 照り付ける太陽の熱さが肌に直接染みわたるような感覚になる。連日の練習ですっかり小麦色になった肌に、太陽はさらに紫外線を容赦なく押し付けてくる。


 俺の皮膚は触るだけで皮が剥けてきそうな状態だった。空は、もっと盛り上がれと言わんばかりの快晴で、この熱いゲームをより一層燃え上がらせていた。


 カウントはツーオール。ここで先制できれば、俺の負担は少ない。そう思っていた。


――しかし、現実は理想とは異なるのが常である。山上が返球しそこなったボールをあっさり相手の宮本が強打して終わった。


 カウント、スリーツー。俺がここでミスをすれば、相手にゲームを取られてしまう。


――前衛と言うポジションはいつもそうだ。


 ミスすれば致命傷に繋がる場面でいつも出番が回ってくる。前衛ってのは、全ての決定権を持っている役回りポジションなんだ。ここぞと言うときに、何か持っている勝負強さが求められる。


 土壇場で踏ん張れるか、その逆に、あと一押しの時に押し切れるか、大きな運命転換力を発揮する場のように思われる。


 そもそもボレーと言う行為自体が、全てを断ち切るプレーなんだ。延々と続くラリーを制止して、自分の流れを作る。強引に、強情に、強欲に割り込んで、点を取る。勇気をもって踏み込んで、失敗すれば失点する。諸刃の剣、乾坤一擲けんこんいってきの一撃だ。


 手に汗がべっとりとついていて、それがそのままラケットに付着する。このまますっぽ抜けてしまわないか心配になるくらい、俺の緊張が最高潮を迎えていた。


「これをミスるわけには、これをミスるわけには……」


 脳内でいつものショートクロスでいくか、他の方法でいくかの選択肢が生まれた。俺はその判断を即座に行わねばならなかった。


――俺は……


 目の前にボールが飛んできた。俺は思い切り、エンドライン上に向けて球を打ち返した。


「アウトー」


 審判が手を挙げている。どうやら打球は外に出てしまったらしい。自分の信じたショートクロスを信じなかった結果だ。今まで自分が信じていたものを捨ててまで、狙うべきコースだったのか。


――一瞬の迷いが、逃げを生んだ。


――一度の失敗から、退け目感じた。


 きっと人生もそうやって積み重なっていくのかもしれない。自分の信じたものを最後まで貫くべきだったのかもしれないし、それを捨てて新たな挑戦へと舵を切った方が良いのかもしれない。


 俺はたしかにボールを打つその瞬間まで、しっかりと悩んでいたんだ。だからきっとこれは間違ってなんかいなかった。


 俺はそう信じたい……


 そこからの展開は呆気ないもので、一度流れを持って行かれた俺たちは、ずるずるとその流れで一ゲームも取れないまま試合が終わった。


「ありがとうございました」


 2020年、夏。空にあったはずの飛行機雲は消えてなくなっていた。


 まっすぐのびていたあの雲、あの道標のように思えたあの飛行機雲だって、いつかは消えてなくなる。


 道は一つじゃない。


 今年の夏はもう終わったけれど、また来年、夏は来る。高校生になって、どんな自分になるのだろう。雲のなくなった真っ青な空を見上げながら思う。


「ああ、終わったんだ、だけど……」


 俺の心の中に、一筋の雲を見たような気がした。その雲は掴めそうで掴めない。


 だけど、その雲はどこにだって行ける自由な雲に違いない。

 

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