うつけを深読む

道三との会見時の、うつけな部分を読みます。


「其の時 信長の御仕立て 髪はちやせんに遊ばし もゑぎの平打にて ちやせんの髪を巻き立て ゆかたびらの袖をはづし のし付きの大刀 わきさし 二つながら 長つかに みごなわにてまかせ ふとき苧なわ うでぬきにさせられ 御腰のまはりには 猿つかひの様に 火燧袋、ひょうたん七ツ、八ツ付けさせられ 虎革 豹革四ツがわりの半袴をめし」


「その時の信長公の御支度は、髪は茶筅に遊ばし、萌黄色のこよりを平たくした元結で、茶筅髷の髪の毛を巻き立て、夏用の単衣の着物の袖を外し、金や銀を薄くのばしたものを貼り付けた大刀、脇差、二振り共に 柄を実子縄で巻かれ、太い芋縄を手首から肘にかけて巻かれ、腰の周りには猿使いのように、火打袋、瓢箪を7、8つ付けられて、虎革、豹革の四布袴を履かれ」


この後、早替わりをします。


四月下旬というので、現在の6月前後の頃で、天気の良い日は暑そうな時期です。最初の項では「明衣」でしたが、ここでは単衣の着物の袖を取っています。

最初の明衣の説明で、次に明衣の話が出てくるのは、石山合戦の後詰に向かう時だと申し上げました。

石山合戦というのは、石山本願寺、当時でいう大坂本願寺の顕如との戦です。戦国期最強の宗教的武装集団との戦は、当時の感覚でいうと、法力や宗教的エネルギーとの戦でもありましたから、そのような仏教的念力を跳ね返す為に、羽織ったのでしょう。


道三は出家をしていますが、そうした宗教的パワーを駆使して、攻撃してくる関係では無いと認識されていたことが分かります。



熨斗付きの刀というのは、婚礼の時やめでたい時に帯刀している、金箔を付けた鞘に収めた刀のことです。


「長つかに みご縄」の長つかは、大太刀かもしれませんし、もしかすると、長巻の太刀の事かもしれません。これは、信勝が開催し、信長公が抹香投げを行なった例の法要でも持参したものだった可能性もあります。全長2メートル程の長柄に普通の刀を取り付けたもので、薙刀とはまた違う武器だったそうです。刀に比べて、重く、扱うには力が必要ですが、少し離れた状態で敵と戦えるので、信長公は、親衛隊に長巻を持たせた備を作っていたという話も残っています。

ここのあたりは勉強不足で何とも言えません。


どちらにしても、馬の上から敵を斬ることを考えたチョイスではないでしょうか。



みご縄というのは、藁の芯の「みご」を抜いて、なって作った縄のことで、縄の中でも細くて綺麗で丈夫なものだったそうです。


大太刀の腰に括りつけ方は、平安、鎌倉時代あたりの衣装などの保存会や、映画やドラマの撮影に協力されておられる方々のブログやツイッターで見ることができます。

一本の長い紐で腰を巻き、吊るす様子を見ると、非常に洗練され美しいです。また、みごなわで結ぶというのは、そんなに特殊なことではない気もします。

しかし、丁度、大名家ほどの家格を持ち始めていた弾正忠家の当主が、美しく織られた、あるいは組まれた紐ではなく、縄としては高級なものとは言え、「縄」というのは、普通のことでしょうか。そう考えると、やはりその縄というのは、〆縄の結界という意味があったのかもしれませんね。


 芋縄とは、芋がら縄で、戦記を読むとよく出てくる陣中飯です。それを忍者みたいにクルクル腕に巻きつけていたんですね。


四布袴というのは、膝丈の短めの袴で、「山袴」の一種です。前後それぞれ二枚の合計四枚で仕立てられたことから、こう呼ばれています。なめし革で作られたりすることもあり、どちらかというと、下級武士が履く袴ですが、虎や豹というのは、流石にセレブといった感じです。

馬に乗る時には、基本的に内股が革の袴を履きますから、それのセレブ用簡易バージョンという感じですね。

と同時に、騎乗の状態は案外無防備ですから、革の袴は布の袴に比べて、防備力は高いです。

となると、ゆかたびらの下にも、防御の為に、縄が巻かれていた可能性も無きにしも非ずです。


もしかしたら、体に巻かれた縄は、信長派の家臣たちが、思いを込めて必死でなった縄かもしれません。


全体的に、道中、気をつけていっています。


更にそうして、食べ物を腕に巻きつけ、腰には水の入った瓢箪をぶら下げていることから、食べ物にも気をつけています。


ということは、当時、遠出をする時には、城の台所で作られたお弁当というのか陣中飯みたいなものを持参する風習があったことがわかります。

これを書いた牛一は、それ以外の常識を知りませんから、こうした食糧を信長公が人任せにせず、自分で運んでいることから、台所関係だけではなく、かなり身近な所まで林秀貞の黒い手が及んでいたことを示唆していると読めます。




 さて、この一連のうつけの話の最初と最後に出てくるのは、「斉藤道三」と「三間半槍」です。


天文18年(1549)2月24日(3/23)斎藤家と織田弾正忠家の婚姻がなされ、信秀は隠居し、4月に信長公が家督を相続しました。

この頃には、織田氏に於いては、信秀の病の話は公然のものだったらしく、それに言及している文書も残っています。


縁戚である斎藤道三も、信秀が病に倒れていることは、知っていた可能性があります。


これまで見たきたように、信長公が家督を継いだ前後から、信長派と信勝を担いだ林秀貞派が争い、信長公の毒殺、暗殺計画が何度も練られてきました。


その神輿の乗っている信勝は、天文20年(1551)に9月熱田座主坊に安堵状を出していますが、これは添え状で、まだ一取次の立場に留まっているように見えます。内容が「備後守并三郎任先判之旨 不可有相違者也」。「備後守、ならびに三郎」です。

大名文書(主人)が信長公で、添え状(家臣、取次)が信勝で、信長公の連枝の重臣として、機能していることがわかります。


12月に同じ、熱田座主坊に、信長公が代替わりの文書を発給しています。

この頃、禁裏の介入で、今川家と和平が結ばれています。

熱田は、今川政権下にある戸田氏の田原商人と連合のような立場にありますから、この和平を待って、熱田への代替わりの文書を出されたのかもしれません。


こうした状況下で、 天文21年(1552)3月3日信秀が亡くなります。

その1年後の一周忌の場で、信長公は信勝派によって、大々的に恥をかかされ、傅役平手政秀が自刃します。

これによって、多少なりとも抑えられていたかもしれない、弾正忠家の兄弟間の争いが、世間に知れ渡ったことでしょう。


また、この一周忌を終えたことで、信長公は、正式に信勝に末盛城を譲り、家臣団を整えました。

ここから、信勝は独立勢力として、加藤図書助に国役免除の文書を発給しています。また、岩倉織田氏などとも連帯が取られ、益々信長公は厳しい状況に陥っています。


また、一応、信長公派に属している水野信元は、今川に攻略されはじめています。後の村木砦の戦いを引き起こす、村木砦が今川(岡崎)方の手で築かれ始めます。

しかし、その手合に行く余裕もなく、内外ともに、益々、追い詰められた状態でしょう。


信長公の人生を称して「攻め一任」と言いますが、まさに当主として立った瞬間から、それが始まっていたというわけです。


実際のところ、信長公が現代の私たちが想像するような、「うつけ」姿を、本当にしていたかというのは、定かではありません。

他の家の資料や同時代の人たちの書簡に、うつけの話は一切出ていない以上、わからないとしか言いようがありません。


しかし、少なくとも、『信長公記』で太田牛一が書きたかった、信長公の「うつけ」姿は、「婆娑羅」や「反抗心」ではなく、実弟と筆頭家老から裏切られ、自衛手段として、呪い避けの明衣を羽織ったり、射殺されないように身を守ったり、毒殺されないように、食糧を確保して火打袋に入れ、毒の入っていない水を瓢箪に入れ、持ち歩いていた、そこまで追い込まれつつ、必死で生き延びていた若き日の天下人の姿だったのだと思います。


それ程、信勝派、林秀貞の画策する、内外からの責めは、異常だったということです。


その原因は、定かではありません。

そのため、現代では本末転倒なことに、信長公のうつけぶりが原因とされています。


しかし、当時の常識を鑑みますと、一つの原因が見えてきます。


信長公が天文17年頃に家督を相続し、(病気の父を引き取り、親孝行をしつつ)、当主として真面目に責務を果たしていた場合、ここまで林たちが信勝を押し立て、当主を排斥する行動は、立派な「謀反」です。

これは当時の常識である、天道に則して考えると、林と信勝が滅びるのは間違いのない恐ろしい行為です。

信勝たちの道理として通るのは、当時的には「家督相続直後の敗戦」しかないのです。


当時の戦の勝敗は、自助努力と他力です。自助努力の末に、正義のある方へ、神が勝利をもたらすと考えられていました。

その自助努力のところに、様々な工夫が凝らされるのが、大名家の嫡男の初陣です。

大名家の嫡男の初陣は、必ず勝てるものを用意されます。それは、内外に神が後ろ盾となって付いていること、示す為でした。


ところが、信長公は家督相続直後の、大事な一戦を最悪な形で落としてしまいます。


神に選ばれなかった男。


それがそこまで、まだ十代半ばの当主の命を奪うほどのものだったのか、現代の私たちには理解ができません。


林秀貞は、一体、心の中で誰と戦い、何を求めていたのでしょうか。

首謀者の林の「我こそは」という、強い自己承認欲求が感じられます。林は、もしかすれば、信長公の傅役だったり、頼られる存在になりたかったのかもしれないと考えてしまいます。信長公が大事にしたのは、平手政秀であり、自分の近習であり、佐久間信盛という、弾正忠家きっての大勢力をバックにした若い勢力であり、林の養子先の縁戚、長谷川兄弟だったりしました。


そして、信長公は、防戦の一方で、揚げ足を取られないように、当主として、天道に乗っ取った行動を重ねて行きます。

それが「他にご趣味なく」毎日鍛錬を重ねのところであり、創意工夫した長槍の話です。


以上を以って、尾張の様子を探らせていただろう斎藤道三は、「うつけではないよ」と家臣に言い、会見を持ったのでしょう。

本当にうつけでなければ、娘婿であり、義兄弟である信長公に手を貸す為です。


そして、信長公の「案の内」を見抜けなかった自分の家臣たちは、自分亡き後、信長公の手の内に入るだろうと考えたのでしょう。


斉藤道三との会見は、天文22年(1553)と言われており、ここで信長公は、美濃国主と個人的な同盟を結べたことで、一息つきます。

この会見以降、信長公の「うつけ」姿の記載は消えます。



年次不明ですが、信長公後見、織田玄蕃秀敏が、斎藤道三から貰った、有名な書状があり、まだまだ収まらぬ尾張の情勢が残っています。


翌23年(1554)村木砦の戦いが起こりますが、この道三との会見をターニングポイントに、稲生の戦いに向けて、あからさまな攻勢に移っていきます。


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深読み「信長公記」 麒麟屋絢丸 @ikumalkirinya

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