山城道三と信長御参会の事・表
「信秀の病死」の次の項にも、うつけぶりが書かれていますので、読んでいきましょう。これが最後です。ここは更に長いですが、お付き合いください。
「山城道三と信長御参会の事」
「四月下旬の事に候。 斎藤山城道三 富田の寺内正徳寺まで罷り出づべく候間 織田上総介殿も是まで御出で候はば 祝着たるべく候。対面ありたきの趣 申し越し候。
此の詳細は 此の比 上総介を偏執候て 聟殿は大だわけにて候と 道三前にて口々に申し候ひき。左様に人々申し候時は たわけにてはなく候よと 山城連々申し候ひき 見参候て 善悪を見候はん為と聞こへ候。上野介公 御用捨なく御請けなされ 木曽川、飛騨川 大河の舟渡し打ち越し 御出候。
富田と申す所は 在家七百間もこれある富貴の所なり。大坂より代坊主を入れ置き 美濃、尾張の判形を取り候て 免許の地なり。
斎藤山城道三存分には 実目なき人の由 取沙汰候間 仰天させ候て 笑はせ候はんとの巧にて 古老の者 七 八百 折目高なる肩衣 袴 衣装 公道なる仕立てにて 正徳寺の縁に並び居させ 其のまへを上総介御通り候様に構へて 先ず 山城道三は町末の小家に忍び居りて 信長公の御出の様体を見申し候。
其の時 信長の御仕立て 髪はちやせんに遊ばし もゑぎの平打にて ちやせんの髪を巻き立て ゆかたびらの袖をはづし のし付きの大刀 わきさし 二つながら 長つかに みごなわにてまかせ ふとき苧なわ うでぬきにさせられ 御腰のまはりには 猿つかひの様に 火燧袋、ひょうたん七ツ、八ツ付けさせられ 虎革 豹革四ツがわりの半袴をめし」「御判衆七、八百 甍(*苛処)を並べ
一、御ぐし折り曲に 一世の始めにて結わされ
一、何染め置かれ候知人なきかちんの長袴めし
一、ちいさ刀 是れも人に知らせず拵へをかせられ候を ささせられ 御出立を 御家中の衆 見申し候て さては此の比たわけを態と御作り候よと 肝を消し 各次第次第に斟酌し仕り候なり。
御堂するすると御出でありて 縁を御上りのところに 春日丹後 堀田道空さし向ひ はやく御出でなされ候へと 申し候へども 知らぬ顔にて 諸侍居ながれたる前を するする御通り候て 縁の柱にもたれて御座候
暫く候て 屏風を推しのけて道三出でられ候 又 是も知らぬかほにて御座候を 堀田道空さしより 是れぞ山城殿にて御座候と申す時 であるかと 仰せられ候て 敷居より内にお入り候て 道三に御礼ありて 其のまま御座敷にお直り候しなり さて 道空御湯付けを上げ申し候 御互いに盃参り 道三に御対面 残る所なき幸せなり
附子を噛みたる風情にて 又 やがて参会すべしと申し 罷り立ち候なり
廿町許り御見送り候 其の時美濃衆の鑓は短く こなたの鑓は長く
途中 あかなべと申す所にて 猪子兵介 山城道三に申す様は なんと見申し候ても 上総介はたわけにて候 と申し候時 道三申す様に されば無念なる事に候 山城が子供 たわけが門外に馬を繋べき事 案の内にて候よ計り申し候
今より已後 道三が前にて たわけ人と云う事 申す人これなし」
うつけを飛ばして、一気に訳していきます。
「4月下旬のこと。
斎藤山城道三が『富田の寺内にある正徳寺まで参るので、その時に、織田上総介殿もここまで出てきてくだされば 有り難いものだ。会って話をしたい』という意向を伝えてきた。
このことの次第は、このころ、上総介(信長公)を偏見で悪く思い、「婿殿は大馬鹿で御座いますな」と、道三の前で大勢の人が異口同音に言っていた。
そのように人々が言う時には「たわけではないよ」と、道三は割り切れない
(そこで)顔をあわせて(実際に)人となりを見てみよう、ということになったのだろうとの噂だった。
上野介(信長公)は御躊躇なく申し出を受けられ、木曽川、飛騨川の大川を、舟で御渡りになりおいでになられた。
富田という場所は、700軒も在家(荘園制の収益単位)のある、非常に豊かな土地である。大阪(石山本願寺か?)から目代の僧(本社から派遣されている支店長的な存在)が寄越され、美濃、尾張の守護大名から、特権の承認を得ている独自権力の土地である。
斎藤山城道三の考えでは(信長公は)真面目ではない人のようだと世間では噂していているので、大いに驚かせて、笑わせてやろうという企みをたてた。
老人達を7〜800人、地味な
「(信長公は)お伴の人々7〜800人 物々しく並べさせ、剛健な者を先に走らせ、三間半の朱槍を五百本ばかり 弓、鉄砲五百挺持たせさせ、最寄りの寺へ着かれると、(お部屋にお入りになり)屏風を引き回されて
髪の毛を、折り髷に初めてお結いになられ、
いつお染めになっておられたのか、濃い紺色の長袴を履かれ(正装をなされ) 腰の刀も人に知らせず拵えておいたものを差されて、いらっしゃられた。
その出で立ちを見て、家臣たちは、これはこの頃のうつけは、わざとであったかと驚いて、それぞれ、段々と事情を汲み取った。
(信長公は)寺院の本堂の方へ、滑るようにいらっしゃられ、本堂の外縁の板敷の階のところに、控えていた(道三の家臣の)春日丹後守と(津島に屋敷を持ち信長公とも親しい)堀田道空が「先にいらっしゃられてください(先に上がられてください)」と申したが、知らぬ顔で、近習たちが左右に分かれて座っている前を、するするとお通りなされて、外縁の板敷の柱にもたれておられた。
しばらくして、(対面をする部屋の奥に引き回して立てていた)屏風を押しのけて、道三がいらっしゃった。それでも知らぬ顔でおられるのを、堀田道空がまず「こちらが、山城殿にて御座います」と申し上げると、「そうか」とおっしゃられ、敷居より中に入られて、道三にご挨拶されて、そのまま用意された席につかれた。
さて、道空が湯漬膳を差し上げ、お互いに盃を交わし、道三との顔合わせは、申し分のない幸先のよいものだった。
附子を召し上がったご様子で、「また直ぐにでもお会いしよう」と申して、立ち上がり、2㎞ほどお見送りなされた。
その時、美濃軍の槍は短く、私たちの槍は長く控え立っているのを 道三が見られて、興醒めしたご様子で何も言わず帰られていった。
途中、
それより以後、道三の前で 信長公の事をたわけだという人はいなくなった。」
この会見の場になった「富田」は現在、愛知県一宮市の木曽川のほとりにあります。当時は木曽川の流れている位置が現在と違い、富田は美濃側にあった為、信長公は川を渡って行ったのですね。
もしかして、私並みに地理に疎い方が居られるかもしれないので、蛇足ながら付け加えますと、「飛騨川」は、下流で「木曽川」に合流する河川で、二つの川を渡った訳ではありません。古地図を見たんですが、二つには分かれていなそうでした〜(照
さて、当時の一般的な荘園都市としての寺社の姿は、城郭都市の武家の城ともよく似ており、つらつらと歩いていきますと、畑や田んぼみたいなものがありまして、在家と呼ばれる、農家の人々が暮らす家や、商売をしている町屋があり、市場、それから寺院では塔頭寺って言うのでしょうか、そういった建物や、敷地内にある小寺院、別坊、僧坊、堂宇伽藍などが物々しく建っています。
それらの奥に一番偉い仏神の在します社殿、本堂があるみたいな感じの作りです。
その在家の家に滑り込んで、道三氏は隠れて見たという話です。
もちろん一人ではなく、そばに近習がついていて、彼らもどれどれという感じで、あっちこっちの隙間から覗いていたでしょう。
これは外出中の一国の主人、大名の警備ですから、そんな覗き見をする近習は、100人を下りません。そうなると一軒ではなく、何軒、何十軒と分散されたでしょう。
そうなると、家の方も近隣住民の人々も、なんだ、なんだといった感じで、畑やお店、ご自宅から顔を出して、一緒になって見たでしょう。
そもそもをよく考えると、斎藤道三様御一行というのは、じい様がた800を含む、1500人くらい、いや、2000人、いや、なんなら3000人はいたかも知れません。
足軽、小者を含め、2000人は下らない家臣団を引き連れて、領主氏が来られていて、ザワザワした状態で、相手が「あの!尾張の大うつけですってよ!」という事が、そりゃあ十中八九、漏れ出ているでしょうから、これはもう物見高く、「世界的有名人が来た!」、「推しが町にやってきた!」的な、一大イベントになっているでしょう。
更にです。軽い興奮状態になっているそこへ、領主氏がこうね、隠れて見てるということになる訳ですから、普段は静かな村は、これはもう、異様な雰囲気がムンムン、醸し出されていたことは間違いありません。
そこを大うつけ氏がこちらも、ずらずらと先駆けの足軽、小者を先頭に、高々と三間半と言いますから、6.3mですね、長柄の槍をおったててやってくる訳です。
おおよそ通常のマンションの一階が3mくらいですから、3階の床を打ち抜いて、ニョッキリしている上に槍の切っ先が生えているんで、相当な高さです。
その天に届くような槍の柄は赤く塗られていますから、高層ビルもない周囲の田畑の緑、空の青の中で、目立っていたことでしょう。
てか、絶対ビョンビョン、シナってそう。
濃尾平野の向こうから、穂先をビョン、ビョンさせながら、迫るうつけ様ご一行。姿が見えた時には、「きゃー!」なんて、興奮して叫んだ子供もいそうです。
これは、相当の見ものだったはずです。
それから、一旦、「うつけ様控え室」になっている、敷地内の別の寺に入られたと書かれています。ここで早替わりでお着替え召されて、「あら!貴公子の出来上がり」ということになり、ここの辺りから、胸がすくような水戸黄門になっています。
遊び人の金さんだと思ったら、あらまぁ、遠山左衛門尉であるぞ。「はは〜」
ですね。
この早替わりに貢献したのが、当時の懐刀達です。
人知れずって言ったって、一人になれない方が、スマホも通販もない時代に、一人で用意できるはずもありません。
小姓、馬廻と彼らの小姓、小者、それから公の小者と家臣の染物屋、呉服屋、あとお寺とか、このあたりにうつけ氏の仲間がいることが分かります。
貴公子になった信長公が、控え室の寺から出て、普通に歩いて正徳寺へ向かいますが、中には入りません。もちろん近習達は一緒ですね。
800人のじい様方が
ところで、この頃の「じい様」って何歳くらいなのか、気になります。
黒田日出男氏の研究に、中世の労役は15〜60歳を大人とし、それ以上を老人としたとあります。
と言うことは、人生50年の時代に、61歳以上の老人を800人揃えると言うのは、笑えると言うより、権力の誇示のような気がしますし、槍働の出来なくなった老人を侍らす事で、敵意のない事を表したのかも知れません。
しかし、80人じゃなくって、800人ですから、相当な数ですよ。
武士じゃなくて、商人や百姓のご隠居の皆さまも、駆り出されたかもですね。
しかし、岐阜からこの辺りまで、徒歩で4時間ですよ?じい様たち、お元気です。
一泊したんでしょうか。それなら、慰安旅行って感じで、じい様たちもいい気分転換になったでしょうね。
今で言えば、80、90の高齢者の方々が、1万人くらい紋付袴、或いはタキシードで並んでいる感じでしょうか。
興味深いですが、笑えますか?
富田の皆様にとって、この800人のじい様も、うつけ氏に負けず劣らぬ、本日の見ものだったのは、間違いありません。
さて、貴公子信長公が歩いていった先には、二人の家臣が待っています。
春日さんは道三の家臣ですが、信勝の側室のお父さんと関係があるのかも知れませんね。それから堀田さんは、斎藤道三の家臣と言われていますが、津島コスプレ大会の時に、信長公に屋敷を貸したおじさまです。この二人が会見の立役者でしょう。道空氏は、平手政秀と一緒に、道三と信長公の縁組を結んだとも言われています。
この会見をお膳立てしたのは、今は亡き政秀の思いを汲んでという部分もあったかもしれませんね。
さて、道三氏は在家の小屋から、本会場の方へ戻ってきている最中です。
本来であれば、ホストとして出迎えるはずでしょうが、小屋から走り帰って、汗を拭いたり、水を飲んだりしないといけません。もしかしたら、お着替えをしたかもしれませんね。
「道三氏はまだですが、先に座敷に上がって待っていてください」と申し上げますが、とりあえず、庭から縁側に上がったんですが、じい様方の並んでいる、幅広な縁側をスルスルと歩いて、おそらく書院の間の前まで行くと、そこで柱を背中にして御座候。
完全に警戒しているか、じい様たちを間近で見たかったのか。
それから、本会場の向こうあたりが「ザワザワ」なんてしてたりしますよね。それで、ようよう身なりを整えた道三氏が到着して、書院の間に立てておいた屏風を押しのけて、出てこられました。
現存する寺の書院の間(正式な対面をする部屋)を見ると、部屋の壁を背中にして、向かい合わせに畳を一枚ずつ敷いており、間に板の間が見えていると言う作りです。
その畳の端っこに、屏風がそれぞれ立ててあります。
信長公のいる庭に向けての方ではない、奥側の戸を開けて出てこられたんですね。
それでも、知らぬ顔をしているので、道空がとりあえず「こちらが道三氏ですよ」と紹介すると、「そうなんだ」と部屋の中に入られたようです。
「今日はお招きいただいて
現在、ここの部分が不躾のように描かれがちですが、有名な「であるか」は道空に対する返答で、部屋に入った後は、礼法にそった立ち振る舞いをされています。
コミュ障では、当時大名商売は、なかなか成り立たないんですね。
ここの牛一氏の意図は、警戒せざるを得なかった様子と、遠山の金さん的な信長公像で、本当は凄い人なんだぞ!というところで、これが主旨になっているようですね。
この後、湯漬けを食べて、盃を交わしていますが、これは平安期に成立した公式な場での御膳で、食べ方にも作法があったようです。
「御互いに盃参り」というのは、お酒を注ぎあって飲んだのではなく、金村敦夫氏の研究によると、「作法に則って酒を酌み交わすだけではなく、それを以って契約文書を交わしたのと同等、あるいはそれ以上の固い約束が結ばれたとする程の効力、意味を持つものだった」とされています。
この対面は非公式のものではなく、一家の主人同士の正式な会見だったことが分かります。
ここで、附子を噛む問題が出てきます。往々にしてこの「附子を噛む」を苦々しくと訳されています。
注目点は最後の方の「興醒めをしたご様子」で、この台詞で、それまで道三がご機嫌だったことが分かります。となると、附子を噛むとは、毒薬としてのトリカブトの根っこ(
苦虫をかみ潰した顔で、「またすぐ会おう」と言われても……
とてもじゃないけども、申し分なく幸先が良いとは言えない気がします。
あかなべとは茜部と書きまして、奈良は東大寺の荘園だったところです。この茜部は、信長公最後の近習頭、堀秀政の出生の地です。
富田から2時間ほど岐阜城方面に歩いたところです。
さて、ここで問題になるのが、会見の前に、既に長い槍を見ている筈にも関わらず、見送った後に「興醒め」になっている点です。
信長公が来た時に、見たはずなんですが、うつけな姿に集中してしまってたんでしょうか。
いやいや、相手は美濃の蝮です。そんなはずはないでしょう。
猪子兵介が「やっぱりうつけだった」というと、「信長の計画通りにことが進み、更に我亡き後、美濃を信長公が征するだろう」と予言します。
信長公記が書かれたのは、信長公の死後ですから、これらが実際に有ったことかは不明です。
ですから、ここで示唆されているのが、全てが信長公の「案の内」で、そのポイントが、「長槍」をはじめとする武器、それから「斎藤道三との会見(個人的な同盟)」であることが描かれています。
つまり、この会見中に「してやられたり」となった部分があったのでしょう。
そして、武器を創意工夫をしたと最初の「上総介御形儀」のところに書いてありましたが、そうした頭の使い方ができることに、槍を見、改めて自分を含む美濃勢との差を感じたのではないかと思います。
ではこれを念頭に、うつけを読んでいきます。
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