備後守病死のことを深読みする。
今回の項で、面白いのは、太田牛一が、他の処ではつけたり、つけなかったりの「公」という敬称を、信長公に対し、9割方つけている処です。
そこを抑えながら、見ていきましょう。
「信長御焼香に御出で 其の時の信長公の御仕立 長つかの大刀 わきざしを三五なわにてまかせられ 髪はちゃせんに巻き立て 袴もめし候はて 仏前に御出てありて 抹香をくはつと御つかみ候て 仏前に投げ懸け 御帰り
御舎弟勘十郎は折目高なる肩衣 袴めし候て あるべき如きの御沙汰なり
三郎信長公を 例のうつけよと
其の中に筑紫の客僧一人 あれこそ国は持つ人よと 申したる由なり」
「信長公が焼香にお出かけされた。その時の信長公のお支度は、長い柄のついた大太刀と、もう一振りの刀を七五三縄で巻かれ、髪は茶筅にされて、長袴も履かれず、仏前にお出ましになり、抹香をクァッとお掴みになられ、仏前に投げかけ お帰りになられた。
弟であられる勘十郎(信勝)は 格式の高い肩衣、長袴をお履きになっていて、まるで作法通りのようなお支度だった。
三郎信長公を『あの馬鹿者よ』と様々に批評をした。
その中に福岡の客僧が一人、『あれこそ一国の主人である人だ』とおっしゃられたそうだ」
しめ縄というと、なんだか神社にぶら下がっている綱や、横綱を思い出してしまいますが、ああいう太いのではなく、細いものも有りますので、信長公土俵入りを想像された皆様、ご安心ください。(そんな人はいないか)
注連縄、〆縄、七五三縄、標縄など色々な漢字はありますが、額田王の「あかねさす紫野行き標野行き」でお馴染みの「標野」と同じように、「神聖につき立ち入り禁止」を示す「しめ」に「なわ」で、立ち入りを禁ずる縄ですね。
立ち入りを禁止する対象は、故人の霊が取り付かないように巻いた縄の
なかなか意味深です。
誰かの取り憑くことが危ぶまれる状況だったので、刀を抜くはめにならないように、魔除けをしたのでしょうか。
長い柄の太刀は、もしかすると、長巻と呼ばれる全長二メートルくらいの刀のことかもしれません。
信長公は、自分の親衛隊に、この長巻衆を設けていました。薙刀と混同されますが、刀の作りが違うそうです。
袴を履いていないというのは、肩衣、長袴の正装をしていないということですね、多分。
それでカッと抹香投げをした。それからとっとと帰った。
と書かれています。
すると、「あれこそは」と高僧が言った。
前回の「世間公道の折節」ですね。
ところでこれ、2回目になりますが、「葬儀、法要」じゃなくって、「備後守病死のこと」なんですよ。「病死」に関わる記事を、太田牛一感覚でまとめたことになります。
ですから、Aパートである、真面目な方の法要と、このBパートのうつけは同じ日だとは限らないんです。
というのも「あるべき如きの御沙汰なり」と書いてあります。これがちょっと……
あるべき「如き」の御沙汰なんですね。「如き」。
あるべき御沙汰ですね、本来。なのに「如き」
「あたかも、正式であるかのような御支度だった」
つまり正式なものではない、ということです。
Aパートの法要は、大雲禅師の執り行っている、銭施ですから、「如き」がかかるとは思えません。
ということで、これは別のことではないかと思うのです。
皆様は、「桃厳寺」が二つ存在する事を、ご存知でしょうか。
一つは、織田弾正忠家菩提寺、萬松寺の寺内にある、大雲禅師が追善法要を営まれた、元東殿の桃厳寺です。
もう一つは、信勝が建立した、末森城の「桃厳寺」です。
もしこの法要が、信勝が建立した桃厳寺で、行われたものだったとしたら、どうでしょうか。
当時の葬儀、法要は、基本的に、喪主が「跡継ぎ」であることの披露目の場でもありました。
正式な当主である信長公が、法要を行う直前に、大々的に「織田弾正忠家 為桃厳周忌法要」として執り行った時に、当主である信長公の面目は潰れます。
しかし、信勝主催の法要に行かなければ、それが正式なものであると認めたことになるかもしれません。また、その法要が行われていることに気が付かなかった、間抜けさを嗤われ、当主の資質を疑われるかもしれません。
しかし、正式な形で行けば、それを公式であると認めたことになる。
しかし、糾弾すれば、法要されている父の為にならないでしょう。
集っている家臣や、来客たちにどう示すか……
まさに「世間公道の折節なれば」で、高僧が「あれこそは」です。
しかしこれでは、弾正忠家の分裂で、ご先祖の誰かが、乗り憑ってもおかしくないかもしれませんね。
では、これを行なったのは、いつのことでしょうか。
信秀の亡くなったのは、天文21年3月3日(1552年3月27日)です。
信長公が進めていた正式な法要を仕切るのは、平手政秀の他ないでしょう。
そして、政秀が自刃したのは、天文22年閏1月13日(1553年2月25日)です。
中途半端ですが、少し話を進めます。
この後、「表」で見た、末盛の人事とかのことが書かれて、その次には、平手政秀と信長公が不仲になり、政秀が自刃の理由が二つに分けて書かれています。
平手の話に入ります。
「平手中務丞(政秀)が子息、一男五郎右衛門、二男監物、三男甚左衛門とて兄弟三人これあり。
総領の平手五郎右衛門、能き駿馬を所持候 三郎信長公御所望候ところ にくぶりを申し 某は武者を仕り候間 御免候へと申し候て 進上申さず候 信長公遺恨浅からず 度々おぼしめしあたらせられ 主従不和となるなり 三郎信長公は上総介信長と自官に任ぜられ候なり」
一回、そのままを訳してみましょう。
「平手中務丞の嫡男は、一男五郎右衛門、二男監物、三男甚左衛門という三人兄弟であった。
跡取の平手五郎右衛門は、良い駿馬を持っておられた。信長公が御所望されたが、気に入らない様子を致し、『武士としてお仕えしているうちは、嫌で御座います』と言って、差し上げなかった。信長公の心残りは浅いものではなく、繰り返しお気持ちをぶつけるので、主従関係が悪くなってしまった。信長公は(弾正忠という先祖伝来の官位名を捨てて)上総介を自ら名乗られた」
この文の最後の「主従不和となるなり」ここまでならわかるのですが、「三郎信長公は、上総介信長と自官に任ぜられ候なり」これがくっつく理由がわかりません。
この一文が、非常に不可解です。
この話について、ずっと、漢詩とか論語とか、平家物語とか今昔物語とかね、当てはまるものを探していたんですが、まだ探せていません。
探せてないんですけども、仮定で書きます。
「三兄弟、主人が馬を欲しがり、断る、主従関係上手くいかなくなる、からの官位の変更」ですね。
まず、この平手三兄弟、ここに堂々と名前を書かれています。しかし、確かに跡を取った「二男、監物久秀」は確認できますが、それ以外は判然としません。
ということで、年齢順の大将格の三人を探すと、いましたね。
傅役平手政秀は1492年生まれ、筆頭家老林秀貞は1513年生まれ、そして後見の信定の末弟、織田玄蕃秀敏は、彼らより年下であったのかもしれません。二男が平手家を継いだように、林だけは信長公末期まで、生き延びました。
そして、平手政秀の通称は五郎左衛門です。
当時は、平手政秀の息子たちの名前は、皆知っていたでしょうから、もし長男の通称が五郎右衛門でなければ、示唆したことが分かったでしょうね。
ある時、三郎信長公は、「この度の戦、予が大将を務める」と言いました。
しかし、政秀は譲らず、出陣し、大敗を期しました。
勝負は時の運です。それなのに、何故「遺恨浅からず」なのか。
信長公が大将を務める可能性がある戦で、政秀が大将として出陣したのは、「跡目を継いで直後の戦」です。
跡目を継ぐ予定の大名家の嫡男の初陣は、必ず勝てるものが用意されます。何故かというと、当時の常識では「勝つ=神が認めている」ということになります。ですから、本末転倒な話になりますが、跡取の嫡男が勝って初陣を飾ることで、「御家の安泰」を、広くアピールできるということになります。
そして、跡目を継いで一戦目の戦で、名代である政秀は、大敗を期した。しかも、連枝として有望な信廣を敵に取られ、竹千代を手放さざるを得なくなる、これは、わざわざ禁裏に多額な金品を贈り、公式な三河の支配権を手に入れた「三河守」の地位を失う、という大事業の挫折を意味します。
元々、あい続く敗戦の連続、当主の恐ろしい病の発病で、「神のご加護のない」弾正忠家の前途を危ぶむ声も上がっていた筈です。
そもそも弾正忠家が、強引にのし上がってきた過程で生まれた怨念、死霊、生霊に、当主がやられてしまったのではないか。神のご加護どころか、見捨てられ、怨霊に飲み込まれ、さながら平氏の如き末路を辿るのではないか。
そうした処への、起死回生を掛けた一戦だったのでしょう。
ところが、最悪に近い形で、その戦に負けてしまった。
信長公には神のご加護がないのではないか、という疑念が、家中に生まれた。
その為に、離反するものや、家中に信長公暗殺計画が、立てられるようになった。
「あの時、予が出ておれば」
その度重なる信長公の言葉に、主従関係がおかしくなっていった。
信長公は、験を担いだのか、弾正忠という先祖伝来の官位名を捨てて、上総介を自ら名乗られた。
これは、政秀にとって衝撃ではないでしょうか。
次に自刃の件が書かれていますので、続けます。
「さる程に 平手中務丞 上総介実目に御座なき様体をくやみ 守り立て験なく候へば 存命候ても詮なき事と申し候て 腹を切り 相果て候」
「そうこうしているうちに、平手政秀は、信長公の普通ではない状況を悔やみ、自分が盛り立てる効果もないのであれば、生きていても無益であると言われて、腹を切って死んでしまった」
ポイントは「くやみ」ですね。
信長公がこのような状況にある、責任の一端は、自分にあると「悔や」んでいるのではないでしょうか。
信長公の普通ではない状況を示す、「上総介実目に御座なき様体」は、通常、本人のうつけな状態と訳されています。
では、何故、当主であるにも関わらず、そんなうつけ姿をしていたのか。物事には必ず、原因があり結果があります。
信長公はのちの行動様式を見ても、非常に理性的でクレバーな方です。つまり、当時的に論理の立った思考が、うつけという結果の前にあったはずで、その原因が「信長公排斥運動」だったのではないか。
では次に、その「信長公排斥運動」は、何故起こったのか。
この結果にも、原因があります。
こうした大きな動きには、必ず、参加者の個人的な嫉妬や劣等感、出世欲などの欲望が絡んでいますから、全てを知ることは不可能ですが、当時的な思考の「敗戦」の意味するものが、大きな一因として、あったのではないか。
と考えるのです。
禁裏からも覚えめでたく、道三との縁を結び、岩倉織田氏とも和平を結んで、弾正忠家に貢献している自分が、必死で盛り立てているにも関わらず、信長公を取り巻く状況に効果はない。
その上、もし、信勝側が当主である信長公の営む法要に先んじて、あたかも自分たちが、正式なものであるかのような顔をして、信秀の一周忌を執り行ったとしたら、あるいは執り行なおうとしている情報が耳に入ったとしたら、これはどうでしょうか。
私は、何度も窮地をくぐり抜け、天下人へ至った信長公の、精神面での育ての親の平手政秀が、ただ悔やんで、自刃したとは思えません。
これは死ぬことで訴えるしかない。
自分が死ぬことで、何か変わるかもしれない、と考えたのではないかと思うのです。一命をして、訴えるという賭けですね。
信長公が、平手政秀を死後も大事にしたのは、有名です。
信長公は、天文22年(1553)、政秀が招き、信長公の教育係を務めた沢彦宗恩に「政秀寺」を開山させ、政秀の菩提を弔いました。
場所はのちに小牧城を築城する、小牧の近くの春日井の小木村だったと言います。
後年、信長公は自分がここまでになったのは、政秀のお陰だと感謝を忘れず、鷹狩で小牧あたりを通りかかると、必ず立ち寄り、獲物を捧げたと言う伝承が残っています。
更には、お気に入りの家臣、丹羽長秀の通称は、常に側にあり、命をかけて忠義を尽くした、この平手政秀から付けたのかも知れません。
木像として残る政秀と、死後供養の掛け軸として残る長秀、二人とも柔和な丸顔は、その名前さながらに、何処か似ているような気がします。
さて、このように、政秀を犠牲にし、信秀の供養が行われたということでした。
おそらく、首謀者である林以外の、表立って信勝側にたった者と自分側に立った者を分けて、信勝の家臣につけたのでしょう。
もちろん、お味方もあちらにつけたでしょうけど。
そうなると、筑紫の高僧じゃなくっても「なかなか肝の太いことだ。あれこそは、国を持つ人よ」と言いたくもなりますね。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます