備後守病死のこと・表


前回の「お形儀」の後に、「犬山謀叛を企てる」があり、次にこの「備後守病死のこと」が来ます。

では、今回は病気のところを見ていきます。


 最初は、信秀の病気の深読みで、出てきた部分です。


「備後守殿 疫癘えやみに御悩みなされ 様々の祈祷 御療治候といえども 御平癒なく、ついに三月三日 御年四十二と申すに 御遷化ごせんげ 生死無常の世の習ひ 悲しきかな 颯々そうそうたる風来たりては 万草の露を散らし 漫々まんまんたる雲色は満月の光を隠す さて一院御建立 萬松寺と号す。当寺の東堂桃厳と名付けて 銭施行をひかされ 国中の僧衆集まりて 生便敷御弔おびただしくおとむらいなり

折節おりふし 関東上下の会下僧達数多えげそうたちあまたこれあり 僧衆三百人ばかりこれあり

三郎信長公 林 平手 青山 内藤 家老衆 御伴なり

御舎弟勘十郎公 家臣柴田権六 佐久間大学 佐久間次右衛門 長谷川 山田以下 御供なり 

信長御焼香に御出で 其の時の信長公の御仕立 長つかの大刀 わきざしを三五なわにてまかせられ 髪はちゃせんに巻き立て 袴もめし候はて 仏前に御出てありて 抹香をくはつと御つかみ候て 仏前に投げ懸け 御帰り

御舎弟勘十郎は折目高なる肩衣 袴めし候て あるべき如きの御沙汰なり

三郎信長公を 例のうつけよと 執々とりどり評判候ひしなり

其の中に筑紫の客僧一人 あれこそ国は持つ人よと 申したる由なり」


「高僧だけが、主人公の資質を見抜く」という定説を推してきます。


この後、末盛城の人事、平手政秀の死について書かれていますが、今は、置いておきます。

さて、ここもうつけとそうでない部分を分けて「さて一院御建立」から訳して行きます。


「さて、信秀は那古野城、本城の南側に萬松寺という菩提寺を建立されていた。

その寺の東堂を、萬松寺の住職で、信秀の伯父に当たる大雲禅師が、信秀の戒名『桃厳道見大禅定門』から取って「桃厳」と名付けて、僧侶に銭を施す追善供養をされた。その時、尾張の国中の僧たちが集まり、非常に盛大な追福になった。

その頃、大雲禅師の下で修行をしていた門下の修行僧が、関東上下(伊勢、美濃、尾張、越前とそれよりも東の地域)より沢山おられた。僧衆は300人ほどおられた。


三郎信長公に、筆頭宿老の林新五郎秀貞、二番宿老の平手五郎左衛門政秀、青山余三左衛門秀勝、内藤勝介泰正が家老衆として付き添った。


御舎弟勘十郎信勝は、柴田権六勝家、佐久間大学 佐久間次右衛門 長谷川与次 山田弥太郎などという家臣たちを伴って参列された。」


 銭施行というのは、故人の善行を、施主が代行して追加し、成仏しあの世でも幸福になるように行う布施行の一つです。他に施浴や盂蘭盆会の施餓鬼供養などが有名ですね。この頃はこうした供養は、現実的な効果があることが信じられていました。


東堂を戒名から「桃厳」と名付けていること、追善法要を行った話であることから、少なくともここの部分は、葬儀ではなく、その後の回忌法要の話であることが分かります。


「会下僧」とは、禅宗の僧侶のうち、師について修行をしている僧のことです。普通、その師の僧堂で修行をしている僧侶のことを言いますが、稀にすでに師のいる寺から離れている人も含む場合もあります。

次にも「僧衆」という言葉が出てきています。これは、文脈的に大雲禅師の会下僧以外の僧侶のことになります。

つまり、追善供養の場には、「会下僧が数多おり、それとは別に集まった僧が300人いた」という意味になるでしょう。

仏や僧に対する喜捨の功徳は、尊く、来世まで通じるとされていましたから、これあり、これありと、「あり」を強調し、繰り返して、供養の功徳は大変なものだったので、「信秀は成仏しただろう」ということを表しています。


何故、ここにこのような事が、わざわざ書かれているのでしょう。


まず、ここで忘れてはいけないのが、この項は「葬儀のこと」「法要のこと」ではなく、「病死のこと」という題がつけられていることです。


現代では、病気は心身の問題であり、悪霊の仕業だったり、悪業が巡ったものだったりしませんが、当時はまだ、そういう考え方が一般的にされていました。

壮年の勇壮な姿を僅かな間に失い、亡くなった信秀の死に様は、非常に残酷なものであり、当時の人たちに畏れを抱かせたことに、間違いないでしょう。

そして、その信秀に取り憑いた悪霊や生き霊、物の怪、そして無念のうちに亡くなった信秀自身が、悪影響を与えないか、それは心配したのではないかと思います。


つまり、畏れを持って、細心の注意を払い、盛大な追善供養がなされたということが分かります。


当時の死の穢れに対する感覚は、私たちが想像する以上のものがあります。

中世の「穢れ」感について理解する上で、良い一例に「大乗院寺社雑記」の「寄宿の咎」という話が挙げられます。


峠に茶屋がありました。そこへ怪我をして血だらけの男が転がり込んで来、主人が手当をする間もなく、男は亡くなってします。

すると、役人がやって来て、「寄宿の咎」で主人を連行し、茶屋は破却され、焼かれてしまいました。


主人が罰せられたのは、手当てをしなかったからではなく、茶屋で死人を出して「穢れ」させてしまったからです。

そして穢れてしまった茶屋は、壊して焼くしかなかったという事です。

道端で亡くなってしまえば、そこは「無縁の場」なので、刑罰の対象にはなりませんでした。


日本において、死刑より追放刑が多いのは、実は、死による穢れを防ぐためでした。一種のウイルスみたいな感じですね。

 

では、家族が亡くなった場合は、どうしたのかというと、そこを作法に則り清め、故人の物を破却し、亡くなった場所を、一定期間使用禁止にする事で折り合いをつけていたようです。

更に、今回の信秀のように、追善供養をしました。



また、弾正忠家では当時、「◯厳」と法名をつけている方が多いようですが、その法名に、当時「悪を滅する力がある」とされていた「桃」が入っているのが、曰くがありそうな気もします。これは穿ちすぎかもしれませんが。


次に、信長公、信勝が出てきて、家臣団の名前が載っています。信長公は家老衆ですが、信勝は「家臣」であって「家老」ではありません。

ここをよく、家老として出してきていますので、注意ポイントです。


この続きに「末盛城の人事」が書かれています。


「末盛の城 勘十郎公に参り 柴田権六 佐久間次右衛門 この外 歴々相添へお譲りなり」

信秀が亡くなる前から、彼らは末盛城に住んでいましたが、信勝は城代であり、正式な城主ではありませんでした。家臣も信秀の家臣団でしたので、家臣団を整えて、当主である信長公から譲られたということです。

「末盛の城、勘十郎に差し上げ、柴田権六、佐久間次右衛門、この他、家柄が良い者たちを添えて、お譲りになった」


法要の後、家臣だった柴田たちが、改めて譲られていることが分かります。


この法要の話は、平手政秀が出て来ますので、信秀の亡くなった天文21年3月3日(1552年3月27日)から天文22年閏1月13日(1553年2月25日)の間の時期になります。


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