上総介御形儀を深読みする
前回は、状況を見ていきました。
それでは今回はうつけを見ていきます。
最初の「信長公の御形儀」です。
「其の頃の形儀、
「町を御通りの時 人目をも御憚りなく くり 柿は申すに及ばず うりをかぶりくひになされ 町中にて立ちながら餅をほおばり 人により懸かり 人の肩につらさがりてより外は 御ありきなく候
其の比は 世間公道なる折節にて候間 大うつ気とより外に申さず候」
こちらもうつけパートを切り取って、くっつけて、訳していきます。
「その頃のご様子は 上は白絹の神事用の着物の袖を外して、下は平袴を履かれ 腰には皮や高級な織物で作られる携帯用の巾着を沢山付け、髪の毛は
「町を通られる時には、人目を憚ることなく 栗や柿は言うまでもなく 瓜にかぶり付いて食べられ、餅なども立ち喰いされ、」
「人に寄りかかって、肩にぶら下がるようにしてしか外出されない。
その頃は 『世間公道』の折(折節)の間であれば 『大うつけよ』とより他は言いようがない」
(訳の最後の一文は、とりあえず気にせず読んでおいてください。後から訳します。)
うつけの部分を、更に読んでいきます。
まず「明衣」というのは、「ゆかたびら」と読まれ、漢字で「湯帷子」と書き直され、訳されています。その為、袖を切った、前合わせの
しかし当時、明衣は「あかは、あかはとり、あけのころも」と読みました。
確かに元は、帝の入浴の世話をする、蔵人の着用する「湯帷子」を指していましたが、時代が下ると、
色は、清めの色である白地で、ゆったりとしているのが特徴です。
イメージ的に光源氏さんとかお公家さんが着ている、着物を重ねた上に着ている襟元がスクエアのやつですね。それの脇のところを縫った動きやすい上着です。
素直に読めば、その四角い袖を取った上着を、着物の上に着てた、ということが書かれています。
この明衣というのは、石山本願寺戦でも出てきます。
「五月五日 後詰として御馬を出され 明衣の仕立て 僅か百騎ばかりにて云々」
太田牛一も「ゆかたびら」「湯帷子」と「明衣」を書き分けているので、いわゆる白地の湯上りにバスタオル代わりに引っ掛けたり、寝間着に着るものではないのではないかと。
もちろん、湯帷子の可能性もありますが、これはまた本願寺戦のところで、見ていきたいと思います。
次に「半袴」ですが、これは普段ばきの袴のことで、決して膝丈の袴のことを指しているわけでは、ありません。
普通、明衣の下には、馬に乗りやすい短めの
普段用の袴と対比して、正装の時の袴を「長袴」と言います。
長袴という単語は、斎藤道三の会見の所で、出てきます。
ひうち袋というのは、元々、全てを革で作っているか、底だけ革で後を布で作っている袋で、後には全て高級な織物でも作られるようになる巾着袋です。この中に、元々は火打石、火打金、火口などを入れたそうですが、それだけではなく、ちょっとした小物も入れるようになったそうです。
火打袋の歴史は古く、古事記に日本武尊が「
この事より、厄災除けの
当時の男性のヘアスタイルは、ポニテ、それをペタンと折る一つ折り髷、それから折らずに上へのばす茶筅髷で、茶筅髷自体、珍しいものではありませんでした。
茶筅髷は、結んでも髪の毛は下に垂れますから、
昔はそれに烏帽子などを被せるようにして乗せて、紐でくくったり、
元結は最初は麻紐や糸でしたが、室町時代から何枚も重ねた紙をこよりにして、少量の油を染み込ませたものになっていたと言います。
糸のような元結のほか、平ひものような形状の平元結も出来ており、髪飾りとして使用されていました。
色のついた元結は、まだ麻紐だった平安期に、贈り物をする時の水引きとして染色されるようになり、それが元結に及び、色々と礼式が整ってきた室町時代に、公家は紫、武家は赤色、庶民は白となり(実際はもっと細かく決まっていたかも)、髷に巻く数も決まっていたそうです。
萌黄というのは、若武者の色とされ、元結ではありませんが、平敦盛や那須与一、「酒呑童子」の渡辺綱が、
こうした茶筅髷用に、染色した元結を納めてくれる商人がいた、ということですね。
なかなか華やかで、目立ちますから、誰かと間違えて射かけられる、ということはなさそうですね。
次に、食べ物が書いてあります。
栗ですが、これは日本の種である柴栗は、渋皮がしっかりとしている為、焼くよりも茹でることが多かったのではないかと思われます。
そして柿は甘い品種が、当時からあったこともわかっています。また信長公と干し柿は有名ですね。
米をついて作る餅は、古事記などにも見られますが、日常的に食べるものというより、儀式や祭事に口にするもののようです。
そのほか、団子系の餅も既に存在をしていました。
この栗、柿(干柿を含む)、餅、それから瓜というのは、室町期に発達した茶菓子として位置づけられる食べ物です。
当時の信長公が、どこから食べ物を調達していたのか、分かります。
これを読んで浮かぶのが、信長公は殺されることを恐れていたのでは?ということです。
つまり……
明衣は特別の祭事の時に、着る衣です。それの袖をとり、着物の上に被っています。
当時は、信心深い時代ですから、呪い除け、厄災除けという意味合いがあるかもしれません。
例えば、当時、信秀は病に苦しんでいましたが、病は何かの障りであるとされていました。それが、自分の身に及ぶことを、恐れていたのかもしれません。
火打ちセットは、これは明らかに、厄災除けの
そして列挙されている食べ物を見ると、毒殺を恐れて、自分たちで調達したり、寺社の
このような安全な食べ物を、燧袋に入れて携帯し、瓢箪に入れた水を飲み、毒殺から身を守っていたのでは無いでしょうか。
また腰につけた火打ち石で火を起こし、川狩、鷹狩で得た獲物を捌いて食べていたのかもしれません。
後年、信長公が手作りのお菓子で家康を接待したり、自分で取ってきた獲物で、勅使たちをもてなしていたりしますが、この時の経験からのものだったかも知れませんね。
次に書かれているのは、肩に連なってしか歩かない、という所です。
これは射殺を恐れての行動に思えます。
例えば、騎乗中というのは、そばに小姓がいたとしても、矢を射かけられれば、如何ともし難いものがあります。
普通に歩いていても、隙ができるでしょう。
お互い、肩を抱き合い、身を寄せて歩けば、信長公に射かけようとしても、小姓や馬廻を傷つけることになりかねません。
国衆の息子を射殺せば、お父さんも怒りますが、お母さんの実家だったり、関係者一同が怒ります。滅多なことでは狙うことができません。
また、こうして異相で練り歩いていれば、人目をそばだて、あからさまに暗殺をはかることが難しくなります。
実際に信長公の暗殺計画が立てられていたことは、「信長公記」に何箇所か書いてあります。
しかし、この章の最初には
「織田三郎信長を斎藤山城道三の
斎藤道三娘を貰ったことによって、「どこも穏やかに治まっている」と書かれています。
この「何方」というのは、何処のことでしょうか。
斎藤家と織田弾正忠家が婚姻関係を結んだのは、天文18年(1549)頃で、その前年より取次が往復し、起請文をまじわせ、同盟が結ばれていたはずです。
敵対していた大名家同士の婚姻は、念入りに話し合いが行われますので、婚姻まで1年近くかかるようです。
現在、加納口の戦いが、天文13年9月22日か天文16年9月22日か定まっていませんが、天文16年だとしても、十分な時間があります。
確かに、ここは静かに、治まっています。
また、天文19年(1550)今川家とは禁裏の仲裁で、和平が結ばれています。
とは、いうものの、勿論、今川家が調略の手を休めていなかったのは、拙作「戦国徒然」の「水野家の桶狭間」に記載した書簡でも分かります。
しかし、まぁ、表立った大きな争いはなく、静かに治まっているの範囲かもしれません。
しかし、目を転ずれば、天文17年正月に、犬山織田氏が反乱を起こし、岩倉、犬山といった辺りとは、雲行きが怪しくなっています。
犬山織田氏は、父の弟信康の家で、岩倉織田氏の後見職に就いた為、主家を替えています。当時、信康は亡く、歴史上では息子の信清が跡目を継いだとされています。
「戦国徒然」の「信長公の兄弟、織田秀俊」の項では、「秀俊は信康の養子になった」という説を取り、この時期の当主は信長公の兄、秀俊であり、信清に謀反を起こされ、弾正忠家に返されたとしました。
信清の謀反と書きましたが、どちらかというと、犬山織田氏の独立戦といった感じです。
清須の守護代織田氏とも、小競り合いが続いています。
犬山、岩倉、清須の織田氏とは、「静謐」とは言えませんが、この辺りは当時の感覚では、静謐なんでしょうか。
「何方も静謐」……非常に不思議な言葉です。
では、もう一度、当時の信長公の動きに、目を戻してみましょう。
台所で作られた食べ物を口にしない。
身を寄せ合って歩く。
それが16歳から始まった。
これは身内から、狙われているような雰囲気です。
つまり、今川家、斎藤家からではなく、天文18年頃、譜代から狙われていたという事を、示唆したかったのではないか。
当時において、料理をするのは、数人の武家の包丁人たちです。基本的に譜代の家臣が、任されることが多かったようです。
また、下働きの男女は、領地から、家臣たちの推薦で出仕します。
奥女中たちは、中堅以上の家臣の娘たちです。
つまり16歳で家督を継ぐや否や、信長公は、譜代の、身近な、家臣団に大きな影響を与える人物から、命を狙われていることを知っていたことになります。
つまり林秀貞を中心とする派閥との確執は、私たちが現在考えているより、早く始まっており、決してそれは「うつけ」に端を発するものでは無かったということになります。
以上で、これどうよと思いますことが一点。
前回のところで、1551年前後に大量に信秀の子供が、産まれていますよね。
乳母とか若衆の姉妹とか、最も信長公が頼りにする女性たちが、次々に妊娠しています。特に、いくら自分で子育てをしないと言っても、三十路の養徳院には、当時の過酷な出産は、大変なことでしょう。
そう考えると、養徳院から岩室殿までの妊娠というのは、ちょっと出来すぎで、怪しさが出てきます。
妊娠すれば、側室という立場に変わりますし、これらは、どういうことになるか、と考えると、普段、信長公の身の回りに気を配る、腹心である彼女たちは、信長公の身を守ることが出来なくなります。
ですから、彼女たちの妊娠が意図的なものであれば、信秀が病に倒れた時期から、秀貞は信長公に対して、何らかの不満を持っており、排斥に至る動きをしていたことになります。
性的なコントロールがつかなくなった信秀を、筆頭家老の秀貞が「親孝行」という点を押して、那古野に引き取るように勧め、乳母達を上手く襲わせたという筋書は、成り立つでしょうか。そうなると、かなりの短期間で「那古野城、妊娠事件」が行われたのではないかと思われます。
どちらにしても、最早、那古野城というのは、信長公にとって、安心できる場所では有りませんね。
この辺りに、後の信長公の特徴となる、近習だけを側に寄せ、作戦会議はあまりしないスタイルの原型を見る気がします。
本能寺の変の、近習だけが側にいて、襲いやすかったという遠因は、ここにあるというのも切ないです。
結局のところ、信秀が病に倒れた前後から、秀貞は信長公に対して、何らかの不満を持っていた事を示唆するために、この項が置かれているのかも知れません。
さて、最後の一文です。
「其の比は 世間公道なる折節にて候間 大うつ気とより外に申さず候」
(その頃は、世間の道理の時のことだったので、大馬鹿者とより他言えないのだ)
この「世間公道」とは、世間の道理という意味ですが、そのまま訳すとちょっとわからない感じになります。
「間」は中世では、「〜候間」で、前を形式名詞化して、原因、理由を表す接続助詞のような使い方をします。
世間公道なる折節に別の意味がある。
例えば「それ、ドルガバ状態やんか」という言葉は、そのまんま「その状況は、ドルチェ&ガッバーナですね」ではなく、「イヤイヤ言いつつ、元カノに振り回されてるカモネギ状態(麒麟屋個人的解釈)wwww」ということです。
ですので、これは、杜牧(或いは許渾)の「送隠者」にある
「無媒逕路草蕭々
自古雲林遠市朝
公道世間惟白髪
貴人頭上不會饒」
が下地になっているのではないか。
「縁を取り持ってくれる人のいない一人行く道は、草が生い茂り、侘しく風に吹かれる。
公平な道理があるとするならば、世の中には白髪くらいしかないのだ。
貴人の頭ですら、一度として見逃されたことがない」
という意味(多分)の漢詩ですね。
こういう漢詩は、掛け軸に書かれていましたから、当時の一定の身分のある方々なら、親しんでいました。
つまり、現在信長公は「隠者」である、或いは「理不尽な目に遭っている」ので、事情を知らない人から見れば、大馬鹿者だと他言いようがないだろうということになります。
意味深ですね。
ここと「天沢長老物かたり」との関係が、益々気になります。話が広がるので、自粛部分ですけども。
それでは今回はここまでで、次の「萬松寺で抹香投げ」に入ります。
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