上総介殿御形儀、表

 天文21年3月3日、尾張の虎と呼ばれた、織田備後守信秀が、亡くなりました。

那古野城下にある、織田弾正忠家菩提寺、萬松寺にて執り行われた葬儀で、茶筅髷の信長公が、仏前に抹香を投げつけた、というのは非常に有名な話です。現在、観客にダイブするアーティスト並みの、人気を博しています。


それでは、みんな大好き、尾張の大うつけ、茶筅髷の信長公の話を追いかけてまいりましょう。


『信長公記』に、信長公のうつけぶりが書かれている部分、3章を抜き出していきます。

それぞれ、1回目は真面目なパート、2回目はうつけパート、最後にまとめを書きます。


 まず「上総介殿形儀の事」と題された項目で、太田牛一は語ります。


「さて、平手中務(平手政秀)才覚にて 織田三郎信長を斎藤山城道三のむこに取結び 道三が息女尾州に呼び取り候ひき 然る間 何方も静謐なり 

信長十六 七 八までは 別の御遊びは御座なし 馬を朝夕御稽古 又 三月より九月までは川に入り 水練の御達者なり 折節おりふし 竹鑓たけやりにて叩き合ひを御覧じ 兎角 鑓はみじかく候ては悪しく候はんと仰せられ候て 三間柄 三間々中柄などにさせられ 」

ここで突然

の頃の形儀ぎょうぎ」と切り出します。

曰く

明衣あかはとりの袖を外し 半袴 ひうち袋 色々 余多あまた付けさせられ 御髪はちゃせんに くれない糸 もえぎにて巻き立て ゆわせされ 」

また、いきなり真面目な信長公のご様子を、思い出されたのか、

「大刀 朱ざやをささせられ ことごく朱武者に仰せ付けられ 市川大介召しよせられ 御弓御稽古 橋本一巴を師匠として鉄炮御稽古 平田三位 不断ふだん召し寄せられ 兵法御稽古 御鷹野等なり」

と続き、そこからまた、また、いきなり「ハッ!」と

ここ見悪みにくき事あり」

と言い始め

「町を御通りの時 人目をも御憚おはばかりなく くり 柿は申すに及ばず うりをかぶりくひになされ 町中にて立ちながら餅をほおばり 人により懸かり 人の肩につらさがりてより外は 御ありきなく候

其の比は 世間公道なる折節にて候間 大うつ気とより外に申さず候」

と、書き連ねています。


これね、面白いんですよ。

うつけではない所を切り取って、くっつけてみます。


「さて、平手中務(平手政秀)才覚にて 織田三郎信長を斎藤山城道三のむこに取結び 道三が息女尾州に呼び取り候ひき 然る間 何方も静謐なり

信長十六 七 八までは 別に御遊びは御座なし 馬を朝夕御稽古 又 三月より九月までは川に入り 水練の御達者なり 其の折節 竹鑓たけやりにて叩き合ひを御覧じ 兎角 鑓はみじかく候ては悪しく候はんと仰せられ候て 三間柄 三間々中柄などにさせられ 」

「大刀 朱ざやをささせられ 悉く朱武者に仰せ付けられ 市川大介飯よせられ 御弓御稽古 橋本一巴を師匠として鉄炮御稽古 平田三位不断召し寄せられ 兵法御稽古 御鷹野等なり」


違和感がありません。

これを続けて訳してみましょう。


「さて、傅役である平手政秀の工面によって、織田三郎信長公を、斎藤山城道三の婿にする縁を結んで、道三の娘を尾張に迎えることになった。それ故、いずれも穏やかに治っていた。

信長公は16〜8歳までは、特に趣味は無く、朝夕に馬責めをされ、3月から9月(大体4〜10月あたり)の間は川で巧みに水泳をされ、その時々に 家臣たちが竹槍で模擬戦をしているのをご覧になって、『槍が短いのは良くないな』と申されて、三間槍、三間半槍などにさせて」

「太刀も朱鞘にさせて、(家臣団を)朱揃えにした。

弓は市川大介を招き、鉄砲は橋本一巴に習われ、剣術は日頃から平田三位を召抱えて習っておられた。その他には鷹狩りをされていた」


さて、どうでしょうか。うつけパートを切り取って、くっつけて読むと、文章が非常にスムーズに繋がります。


「三間々中柄などにさせられ」

「大刀 朱ざやをささせられ」

この部分が揃いすぎていると思いませんか?

なんだかわざわざ元の文章を分けて、うつけの部分を間にコピペしたみたいじゃないですか?


でも、反対に文末の「弓は市川大介を招き」のところが、なんだか唐突な感じがします。


両者ともに、何か意図があるかもしれませんね。


「弓は市川大介を招き、鉄砲は橋本一巴に習われ、剣術は日頃から平田三位を召抱えて習っておられた。その他には鷹狩りをされていた」


この文はもう一箇所、『信長公記』に出てきます。

今回は話が広がる為、触れませんが、参考に載せておきます。全文(2章)希望の方がおられれば、打ち込みます。



「天沢長老物がたりの事」

天沢長老とは、味鋺の天永寺の和尚さんなんですが、このお寺は、那古野城下、安養寺十二坊のあたりにも建っていました。

今川氏が、味鋺の天永寺から和尚さんをお呼びして、開山したのかも知れませんね。そう考えると、昔から信長公を、よく知っているお坊さんかも知れません。


この天沢和尚が関東の方へ行った折、甲斐に入りました。高僧から話を聞くというのは、一つの楽しみでした。

天沢和尚は、奉行人から、武田信玄に御礼(ご挨拶)申し上げなさいと言われて、信玄公の元へ向かいました。

そこで尾張から来たと聞いた信玄は、信長公の『形儀』について知っている事を全て教えるように言います。当時は清須城へ移っている頃ですから、もううつけはしていませんでした。

後数年早ければ、うつけの話が、甲陽軍鑑に残っていたかも知れません。


その「天沢長老物かたりの事」の該当部分を抜き出します。


「朝毎に馬にのられ候 又 鉄炮御稽古 師匠は橋本一巴にて候 市川大介をめしよせ御弓御稽古 平田三位と申すもの近付けをかせられ 是れも兵法にて候 しげしげ御鷹野に成られ候」


これと今回の

『「馬を朝夕御稽古」「市川大介飯よせられ 御弓御稽古 橋本一巴を師匠として鉄炮御稽古 平田三位不断召し寄せられ 兵法御稽古 御鷹野等」』


です。

以上、参考までで御座いました。







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