死に場所を深読む
通説では、天文17年(1548)頃より、信秀は病がちになり、4年間の療養の甲斐なく、天文21年に末盛城で亡くなり、その後家督を継いだ信長公と、それを良しとしない信勝派との間で、家督争いが起きたとなっています。
それを前回までで、天文17年(1548)頃、脳梗塞で倒れた信秀は、予後不良で、天文18年3月末、数えで16歳の信長公に家督を譲ったと深読み致しました。
ところで、信秀は本当に末盛城で亡くなったのでしょうか。
因みに、牛一は疫癘で亡くなった事を嘆いた後、ほぼ美辞麗句を連ねて哀しみを表し、どこで死んだのかは書いていません。
さて、信秀が、熱田に近い古渡から、末盛に城を移したのは、天文18年(1549)正月初頭のことです。
一般に三河、知多への出入り口を押さえたと言われています。
しかし、当時の家臣団の本城の分布図を見ますと、末盛城近辺には、柴田や佐久間などの有力な家臣団の城が、そこそこあったりします。
なんだか別段、押さえに行かなくても、良いように見えます。
この時期にわざわざ、病人の信秀が築城をし、三河への道を押さえるために、移城する意味が分りません。
てか、そもそも、なんで城を変わろうと思ったのでしょう。
古渡の位置を見ますと、那古野城と熱田の間、やや熱田寄りに立っています。
熱田と言えば、大宮司家一家なんて納税額約2億円の織田家の金庫です。更に豪商東西加藤家が有名ですね。しかし、これ以外に豪商と呼ばれる商人はおり、橋本家、大宮司李忠の正室のたあさんのご実家、浅井家などが挙げられ、ここからも税金がたんまり入ってきています。
おまけに武力を持っていますから、凄いもんです。
織田家にとって重要な拠点であることは、間違いありません。
ところで、この熱田商人達と、通説ではよく、竹千代くんを尾張に連れてきたとされてて気の毒な、戸田氏が代表を務める、渥美の田原商人というのは、伊勢湾西岸・渥美半島協同組合みたいな、商人同士の同盟国というのか、そういう一群でした。
戸田氏は知多半島の常滑の方にも勢力を伸ばしていた事、また尾張の海部にも「戸田」という拠点を持っていた事で、熱田とも関わりができていたようです。
戸田氏は軍記だと、今川家の家臣のように書かれていますが、大名家と武家の国衆との関わりとは違う側面が、商人国衆にはありました。
これは江戸期の主従関係の感覚で見ると分かりにくいのですが、戦国期は主従関係が非常に緩いので、武力に於いては従属はしているけど、独自の運営権はあるのですね。
同じ商業都市堺が、独立国のような立場だったのを、レベマと考えると、スルッと腑に落ちるかも知れません。熱田と田原商人グループは、独立国堺へ進化中という感じです。
それで、この共同体と今川氏は、織田家とは別に、今川家の方針の問題で対立しているんです。
戸田氏のところは、勉強中なので、まだうまく書けないんで、また今度ということで、熱田に話を戻します。
この少し前に、今川軍は遂に、大高、鳴海城までやって来ています。
この時、おそらく鳴海城主山口教継は、今川方に降ったのでしょう。
この鳴海城は、熱田に海岸伝いに行けます。桶狭間で出てくる、水没する「上の道」ですね。全く危険極まりないです。
更に今川家は、水軍を持っていますから、水軍を率いて、熱田を襲うというのも考えられますよね。
そうした時に、信秀が健康であれば、すぐに出陣をし、熱田衆の手合をする事は可能です。しかし、信秀が今川戦で手合を出すことができない程、判断力、あるいは発語に問題を抱えていたならば、反対に古渡城の存在が、今川軍の標的になり、「お荷物」になる可能性もあります。
それに対して、末盛城は、護りに堅い山城ですし、四方を家臣の本城に囲まれているので安全な位置です。
それを考えると末森城は、信秀の隠居城だったのではないかという所に、落ち着きます。
ここから亡くなった場所は、本当に末盛城だったのかという疑問に入ります。
前々回、男児も女児も天文16年(1547)以降、暫く出産が無く、それがいきなり、天文20年(1551)に至ると、弾けたように小田井の方から、長利まで、9人の子供を儲けたことを覚えて頂いていますでしょうか。
この頃の元服までの生存率は50%だと書きましたが、これは記録されたものだけであり、実際の生存率は、もっと下がります。
時期は江戸期になりますが、将軍家の死産を含む、1歳までの死亡率は70%と言います。流産を含めれば、もっと増えるでしょうし、手をつけた女性が全て妊娠したとは限りません。
どう考えても、信秀が約1年間で手をつけた女性は、相当数いそうです。
これは天文20年前後に、何か変化が有ったとしか思えません。
ヒントがあります。
その一つ目は、小田井の方の母親が、信長公の乳母の大乳ちの方だということです。
乳母と養君との紐帯は強く、影響力は甚大です。他家からも、わざわざ乳母宛に、贈り物がされるように、当主の乳母は、宿老並み、或いはそれ以上の、格別の存在感がありました。
その乳母殿が、末盛城のご隠居に会うとなると、これは当主の名代として、お見舞いということになるでしょう。
それでは、皆様、想像してください。
末盛城に見舞いに行かれた、宿老級の乳母殿が、療養中のご隠居と、事を致す羽目になるシュチュエーションを。
勿論、周囲には信秀の近習と侍女たちもおられ、乳母殿にも護衛の者と侍女たちが侍っています。
そういう見舞いの席で、信秀が手を出そうとすれば、普通に考えれば、周りが身を以て止めるでしょう。
更に末っ子の長利の母親は、信秀最後の側室、岩室殿と名前がわざわざ残っています。
わざわざ「最後の側室」と、残ってるのも意味深です。
珍しいことですね。
尾張に地元の岩室氏はおられず、信長公の家臣として名前が残っているのが、ある一家です。
拙作『戦国徒然「小姓、岩室長門守重休」』の項で、幕臣岩室氏が那古野今川氏の元へ身を寄せ、娘の婿に、熱田の豪商、加藤家本家の次男次盛を迎え、その間に出来たのが、岩室兄妹では無いかと推察しました。
そして天文7年(1538)頃、那古野今川氏が、那古野城を追い出されると、弾正忠家に所属を変える時に、重休を
他に岩室氏の記録がないことから、岩室家はそのまま、信長公付きとして、那古野城に住んでいたと考えられます。
大名家の奥女中は、中堅クラス以上の家臣の娘であり、立場としては男性の近習にあたります。彼女達は多くの場合、その城に住む家臣の娘が、証人のような立場で出されます。小姓同様、近くに侍る事で、主人の考えがわかり、またさりげなく実家の利益を誘導することが可能です。
これを利用し、出世したのが、明智光秀ですね。
つまり、那古野城に身を寄せた幕臣岩室氏は、信秀の時代に、信長公へ重休を小姓に、その後、信長公の奥女中に岩室殿をあげました。
恐らく、幕臣岩室氏は老年であり、婿は武編者でもなかったので、重休兄妹を信長公の身近に仕えさせることにより、一家の安泰を図ったと結論づけました。
岩室重休は、信長公の若衆(男色の相手)だったと『信長公記』に書かれています。
殿と若衆の関係は格別のものです。
戦国大名家は、守護職大名に比べ、権力基盤が弱いので、後ろ盾が弱く、家臣団が納得しないだろう近習、或いは近習の実家の利用価値が高く、更に緊密に連携したい近習を取り立てたい場合、若衆にして、周囲を納得させるという手段をとりました。
勿論、好みの問題もあるでしょうが……
それ以外にも、自分の親戚、家族である娘を嫁がせる、相手の姉妹、娘を側室に入れるなどし、連枝(親戚)格にするという手段がありました。
しかし、適当な相手がいなくて、殿の若衆枠が空いてる、是非とも若衆にしてもいいと思うなどすると、若衆に取り立てます。
ということで、殿の若衆に選ばれるというのは、特別な付加価値がありました。
晩年の信秀に、若衆の妹を、わざわざ末盛城へ侍女として差し出した、とは考えにくいです。
すると、殿の名代で、見舞いに出かけたことになります。
しかし、当主と格別の間柄である小姓の妹であり、父親が熱田の豪商加藤家の出である奥女中に、手をかけようとした場合、乳母同様、周囲が止めない筈がありません。
ですが、信長公にとって、格別の間柄である二人の女性が、弟妹を産んだ事実があります。
となると、考えられるのは、那古野城に信秀を引き取ったというパターン位ではないでしょうか。
のちに信長公も、嫡男信忠の乳母に手をつけ、秀吉の側室になる三ノ丸殿を儲けています。これも、信忠を正室鷺山殿の養子とする為、清須に引き取った根拠に挙げられています。
それでは、何故、那古野城に信秀を引き取ったのか、それまで子供が生まれていなかったのに、突如子沢山になったのかを推察していきます。
一旦、末盛城で療養生活を送っていた信秀ですが、1,2年程経つ間に、何度か発作が起き、認知症的な症状が段階的に現れていたのかも知れません。そのため、諸事情によりこれ以上末盛城に居て頂くと不味い状況になったのでしょう。
その状況というのは、推測するのは、なかなか難しいものがありますが……
例えば、末盛城の意思決定は、基本的に当主である信長の意を受けつつ、信勝と信秀の宿老たちによってなされる形になっていた筈です。
しかし信秀が、城主である以上、了解を取らねばならないことがあったりするでしょう。
認知症のような症状が出ていると難しいですし、認知症は出てないけど、うまく喋れない、筆を持てないだけというのもお互い辛そうですね。
こうなると、意思疎通は難しいでしょうし、隠して物事を進めていても、同居していれば、耳に挟むことなどがあるでしょう。
そうなると、信勝や家臣としても、信秀としても、名君だった分、余計に辛いものがあります。
戦国徒然の信勝の項に公開しますが、彼は情緒的で繊細な印象があります。弱者に同情的な一面があり、そうした父を抱えての運営というのは、信勝には難しいでしょう。
また、後の事を考えると、色欲の制御がつかなくなっていたのかも知れません。
そうなると、信勝の婚儀の準備が始まると、これがまた厳しくなります。
当時の天道思想では、親孝行というのは、大切なものでしょうし、妻として、父親の城主に挨拶をしないわけにはいきません。
もし、認知面で問題があり、自分の側室と勘違いなされたら怖いですね。
末盛城に比べれば、那古野城は大きいですし、信秀の那古野時代の記憶が鮮明だったので、何か期待するものがあったのかもしれません。
そこで引越しをなされることになった、というのは、あり得る話ではないでしょうか。
城主信秀は、那古野へ転地療養をし、この時点で、末森城は一時的に、当主である信長公のお預かりになり、留守居の城将にもしかしたら信勝を立て、信秀の家臣団は与力とする形になったと思われます。
恐らく信勝には、家臣団は形成されていません。家臣というのは有限ですから、信秀の近習、重臣の多くは、末盛城に残すことになります。
まぁ信秀は病人ですから、そう人数は必要ないでしょう。
環境を変えすぎるのも良くありませんので、元々の信秀の小姓と奥女中の志願者を中心として、手が足りない分は、信長公の奥女中を配する形になったのではないかと思われます。
信長公は、自分の近習の育成には非常に力を入れる方ですし、これから存分に働いて貰わないといけない彼らを、父親の介護に出すか……というのは、ちょっと何とも。それに、親の国衆の皆様が何と言われるか……
奥女中の皆様も、親の多くは国衆で、それなりの力を持っている人たちですから、当主の侍女とご隠居のでは、利用価値が違いすぎるので、暴れて謀反を起こすかもしれません。
それで、ご実家があまり難しくない方々や連枝衆の娘を差し向けたのではないかと思われます。
さて、色欲関係に話が移ります。
殿の細々とした身の回りのことをするのは、小姓ですから、末盛城にいた頃、信秀の色欲の対象というのは、彼らだったのでしょう。(もしかして、そちらに熱心なご隠居を、思春期を迎える子供達の為に問題視されたのかも)
ところが、那古野城に移り、小姓の数が減り、目新しい侍女たちが、身近に侍るようになると、そちらに手を出すようになっていった結果が、大量の子宝ということが真相では?
具体的にどのような流れがあったのかは、窺い知れませんが、少なくとも、見舞い客として訪れた場合に比べ、事がいたし易いのではないでしょうか。
これは、実は信長公も想定外だったのでは、と思われます。
というのも、やはり乳母とか自分の若衆の妹とかねぇ……
もしかして、ホウレンソウが上手くいってなかったとか、小姓たちに手を出すという話で、男色オンリーと思われたのか……
やたらと信秀の娘さん、織田一族や連枝格の方に嫁がれているんです。
先の岩室殿ですが、岩室家に信秀の娘が嫁したという伝承があります。
年代的に、嫁ぎ先は重休になると思いますが、主君の妹を正室に頂くことは、家格が上がるので名誉な事です。
もしかしたら、隠居の信秀が、重休の妹に手を付けたことの埋め合わせ、という意味があるかもしれません。
そりゃ、江戸期や禁裏では、お手つきも名誉という考え方もあるかもしれませんが、万事がドライな戦国期で、しかも、ご隠居ではどうでしょうねぇ。
まぁ、この件に関しては、調べたいと思いますので、また興味があれば、戦国徒然の方をみてください。
話が飛びましたが、同じことが、子供を産んだ侍女のお家にあったのかもしれませんね、という話です。
最初に乳母に手を付けられ、終いには岩室重休の妹にまで手を付けられた信長公も、ウンザリして手を打ったのか、これを最後に子供は生まれていません。或いは、また発作が起きて、残念なことに、亡くなったのかも知れません。
さて、こうして信秀を信長公が引き取り、そして1年ほどで亡くなるというのは、壮健な頃名君であったが故に、末盛城側からすると、天道思想的な絡みもあり、罪悪感が出てきたり、また信長公を責める思いが過剰に出たりしたかもしれませんね。
次回は、これらを内包しつつ、抹香投げつけって?!の方向へ、匍匐前進して行きたいと思います。
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