家督の禅譲を深読む

 前回を振り返ります。


 天文17年(1548)3月、弾正忠家の当主、織田備後守信秀を、突然、脳梗塞の発作が襲い、戦さ場に出る事は勿論、評定を開き、弾正忠家としての意思決定が出来ないような、後遺症が残りました。


 見て来ましたように、天文17年から18年というのは、織田弾正忠家にとって、三河に於いては今川家との戦局が非常に厳しく、北に於いては、長年争ってきた斎藤家と同盟を結ぶ機会を得ていました。

しかも信貞、信康が相次いで亡くなることで、上尾張の支配も緩んできています。

このような状況では、信秀が病に冒された事を、表沙汰には出来るものではありません。


織田家所縁の寺社で、密やかに加持祈祷を行い、加療に務めました。おそらく。


当時、那古野城南側に広大な土地を持って建っていた、弾正忠家の菩提寺萬松寺は、天文9年(1540)、瀬戸の曹洞宗雲興寺の住持をしていた、信秀の父の信貞の弟、大雲永瑞大和尚を招き、開かれたものです。

天文4年(1535)雲興寺が全焼した折、信秀が多額な布施をし、寺を再興をしたという経緯があり、大和尚も恩を感じておられたのでしょう。

大和尚は、大雲禅師とも呼ばれ、信秀の葬儀の話の時に出てこられた方です。

勿論、知らせを受けて直ぐに、甥である信秀の快癒を祈られたでしょうし、度々見舞いをされ、様子をご存知だったことでしょう。

しかし、祈祷の甲斐はなさげで、対今川の戦線の沈黙が、弾正忠家の直面した、前代未聞の異常な事態を示しています。


 信長公が、ワンマンであまり部下に相談をせず、自らの中だけで考えて、物事の決定をするタイプだったと言われていますが、信秀も同じタイプだったのではないでしょうか。

信秀は、器用の仁という二つ名を持つほど、武編だけではなく、調略に於いても、非常に優れていただけに、家臣は皆、彼の決定に唯々諾々として従う習慣が身についていたのかも知れません。

その人が突然機能しなくなった時に、弾正忠家は動きを停止してしまったと見ることができます。


沈黙を続ける弾正忠家は、側から見ても、非常に異常です。


その結果、犬山織田氏や守護代織田氏達は、訝しみ、天文18年1月、守山城近くの野に付け火をします。引越しをしたばかりの末盛城から、兵は出てきましたが、信秀の姿はありませんでした。


その後、将軍家からの今川家との仲裁を応じたと推測される動きがあったり、天文18年(49)9月に至り、突如兵を動かし、信廣が籠城している三河安祥城に手合を送り、政務に復帰しましたように見えます。


横道に入りますが、信長公が家督相続後、斎藤家との関係上、直ちに今川家との和平を破棄しようとした、或いはしたという説がありますが、刈谷城主の件、村木砦合戦の実情、斯波氏と吉良氏の会見等を見ると、ゆるい和平は1559年まで維持されていたことが分かります。

また、今川家との和平は、信長公にとって、内政の為に必須のことですし、同盟を結んでいる家が、敵対している家とまた同盟を結んでるというのは、無い話では有りませんね。勿論、水面下では調略合戦が続いていますが。


またこの頃、平手政秀が尽力を尽くして、主家である清須織田氏と、和解したという伝承もあります。


そうなるとやはり、信秀は、回復したのでしょうか。

勿論、信秀は天文21年(1552)3月亡くなるまで、その姿を戦さ場に見いだす事は出来ません。

しかし、評定に出て指示をするくらいには、回復したのでしょうか。


『信長公記』には「備後守殿疫癘に御悩みなされ 様々の祈祷 御療治候といえども 御平癒なく」と書かれています。

疫癘えきれいとは悪性の流行病、古くはおこりのことを指します。瘧とは疫病えやみとも言い、マラリアの一種で、日を置いて発熱、悪寒、震えが起こる病のことです。

多くの場合、流行病と訳されて、インフルエンザのような話になっていますが、病は脳梗塞だった考えると、瘧の方で、何度となく発作が繰り返されたと読めます。

脳梗塞は、生活習慣を変えなければ、繰り返すと警告されています。


この頃、「信長公記」の著者、太田牛一は、尾張守護職斯波氏の家臣ですから、この辺りはリアルタイムでも、織田家の家臣になった後でも、この病状を耳にしたのは伝聞で、信秀が何度か発作を起こし、病状が悪化した事をニュアンスとして聞き、疫癘と解釈したと思われます。

また牛一も大雲禅師も、一時的でも回復したという事を示す言葉を使っていません。


しかし、これでは、何となく確証が持てませんね。


では、もし信秀の病状が回復をしていなかったとしたら、弾正忠家はどうしたのでしょうか。

その答えは、信長公が家督を相続しただろうということになります。


実はある文書が、伊勢の神官徽古館農業館に残っています。


伊勢神宮一禰宜、荒木田守武の記した、日記断簡の、天文18年卯月(4月)の項に、尾張の弾正忠に、万度の祓いをした祓い串、熨斗鮑を千本、扇と共に贈った。そして殿に云々というのが書かれています。


出家している当主というのは、結構おられますね。しかし、跡目を相続していない息子を「殿」と呼ぶのは、あり得なく、おかしいことです。

つまりこれは、相続したばかりの若年の当主なので、若殿と書き記したのでしょう。

これによって、信長公は天文18年4月に、弾正忠家の当主だったと推測できます。


天文17年(1548)斎藤氏娘、鷺山殿が無事に輿入れをし、信長公の成年儀式が一段落し、闘病1年という区切りを持って、天文18年3月末、信長公は家督を相続し、信秀は隠居をし、伊勢大社など霊験あらたかな神社へ祈祷を願い、本格的な加療生活に入りました。

この年から、信長公名義の判物が残っています。


天文18年、数えで16歳。奇しくも信秀が、父信貞から禅譲で、家督を相続した年齢と同じです。


そして9月に至り、今川軍が再び安祥城を囲みますと、1年半という沈黙を破って突如、手合を送りました。

この時、大将に立ったのが、御年58歳の平手政秀であったといいます。


しかし何故、当主となった信長公が出陣しなかったのでしょうか。

また何故、平手政秀なんでしょうか。

もうちょいマシな人選がありそうなものです。

勇将佐久間大学とか、猛将柴田勝家とか、まだまだ若くて、優秀な大将格の人材はいそうなものです。

なんなら、信長公の一おとな、林秀貞が行ったら良いんじゃないのか、と思いますよね。


以前、戦国徒然の方で、戦国期の成年は元服、武将としての独り立ちは二十歳であると書きました。

信長公の後見は、祖父の末弟である織田玄蕃充秀敏です。この方は、もうちょっとスポットを浴びて良い、平手の爺と並ぶ、信長公の素敵な爺や(年代は信秀と同じ位で、まだ若い筈)です。


さて、当時の信秀の息子達は、長男信廣が安祥城で包囲され、次男秀俊は犬山城へ養子に出ています。四男の信勝は、この時数えで13歳、おそらく、元服はこの後になります。

三男の信長公、長男信廣を同時に失った場合、弾正忠家はどうなるでしょうか。

玄蕃充秀敏爺やとしては、この時、若殿である信長公を、出陣させる訳にはいかなかったでしょう。


それで、大将に立ったのが、信長公の傅役である、平手政秀だったのです。


傅役というのは、男性の家臣の中でも格別な存在で、主君が亡くなった時、彼のご内室様たち、乳母と共に傅役は、主人の後を追う形で、出家をすることになっていました。


若殿の相続直後の戦さですから、本来であれば出陣すべきところを、傅役を名代として出すことで、家臣達を納得させたということになります。


この頃は天道思想が常識で、なんだか小難しいんですね。こーゆー時には、こーすべしみたいな。じゃないと天道に背いたから、悪いことが起こるぞよ的な。

で、吉凶がどーの、なんですね。


何しろ家臣の大半は、契約社員の国衆で、気に入らないとなると、すぐ出て行っちゃったり、謀叛を起こしたりしますから、常に家臣団を納得させるというのを、殿は考えなければならないんですね。大変な商売です。


ま、このことは後ほど出てきます。


そして、このことで信秀は、やはり回復をしていなかったのだということも分かります。


そうでなければ、この局面での大将を、高齢で、弾正忠家きっての平手の爺やが務めるはずがなく、ここから平手政秀の悲劇が始まると見られます。


次回は、前回、今回と積み残した謎を、解明しつつ、信秀の死に場所は何処だったのかという点をお話したいと思います。

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