信秀の病気を深読む

信長公記の首巻の謎は、まずは「うつけってマジかよ?」「抹香事件ってどんだけ?」「平手の爺やは何で死んだんだ?」といったあたりです。

この辺りを読み切る為に、虱潰しに掘り返していきたいと思います。


さて、「深読み信長公記」。

今回は「織田備後守信秀の病はなんだ?」という事でお届けします。


通説では、天文17年(1548)頃より、信秀はになり、4年間の療養の甲斐なく、天文21年3月に末盛城で亡くなったとされています。


この天文17年頃、牛一は弾正忠家にはいませんが、この事件は、尾張でも大きな話題になっていた筈です。


「備後守病死の事」と、牛一は『信長公記』に書いています。

「備後守殿疫癘に御悩みなされ 様々の祈祷 御療治候といえども 御平癒なく、終に三月三日 御年四十二と申すに 御遷化ごせんげ


備後守とは信秀。

疫癘えきれいとは、悪性の流行病、古くはおこり

御遷化なので、出家をしてから亡くなったことが示されています。

この文章に関しては、後で解説をします。


最初に、天文17年(1548)を起点として、弾正忠家の置かれた状況を記します。


 まず、今川の動きを見て行きます。


3月、小豆坂の戦いが今川、織田間で起き、織田軍は敗走します。

この時、安祥城(安城城)の城将として、信廣を残し、信秀は末盛城へ帰城します。


4月、味方の三河山崎城主松平信定が、岡崎城攻めをしますが、知らせを受けているにも関わらず、手合(援軍)を出していません。三河の強力な支援者、信定は討ち死します。


同じ頃、梅坪城を攻められます。

梅坪城は、天文15年(46)城攻めをし、城主三宅氏を従えた城でした。手合を出すことはなく、この城も取られます。


天文18年3月、岡崎城内で当主松平広忠が急死します。当時、松平家には今川派と織田派がおり、次期当主になる松平竹千代は、織田家にいました。しかし、何ら手も打ちません。

対して今川義元は、すぐさま兵を動かし、岡崎城を接収、更に前線を織田領、大高城まで伸ばし、尾張からの道を閉鎖、山崎城を攻略、安祥城を孤立させ、攻めました。

信秀が兵を動かした記録はありません。

この時は、旗頭が討ち取られた為、先鋒の岡崎衆が戦意を喪失し、今川軍は撤収します。


8月、今川義元は、将軍足利義輝に三河、尾張国境紛争の調停を求めた文を出します。


9月になると、今川軍は、再度、安祥城を攻略します。

この時に至って、ようやく弾正忠家は、平手政秀を大将に据えて、軍を三河へ送ります。善戦虚しく、11月に信廣は今川に捕らえられ、松平竹千代と交換がなされました。


翌19年(50)今川軍は、刈谷城を摂取します。この少し前に、将軍義輝の仲裁により、織田、今川両家の間に、緩い和平が結ばれ、織田家の要請で、織田側の水野信元の実弟が、刈谷城主になりました。

この経過を義元が、山口教継をあたかも、自分の家臣であるような書状を出し、遺っています。(戦国徒然「桶狭間」シリーズに詳細有)


この年の12月に信長公が笠寺に対し、権益の保証をしています。


20年(51)〔推定〕6月28日、将軍義輝は、今川家に対し、織田備後守(信秀)との間の和平を継続するように、仲介役として近衛稙家を起用します。


このように、小豆坂の戦いを機に、戦さ場にその姿は無く、天文18年9月まで、尾張の虎、器用の仁と二つ名を持つ、織田信秀とは思えない失策が、続いているように見えます。


 さて、目を北へ転じます。


天文17年(48)美濃の斎藤道三と同盟を結んだ織田家では、斎藤氏娘が嫡男信長公に輿入れをしています。


敵対していた大名家同士の婚姻ですので、念入りに、何度も起請文の案文をやり取りし、その上で正式な起請文を交わし、結納の品を贈り合い、那古野城の主郭、常御殿が改築され、この間、おおよそ一年は必要だったと思います。また、同時に信秀の三女が、道三の側室として嫁ぎ、重縁にしています。こちらの用意も同時になされたことでしょう。


天文17年、信秀は末盛城を築城、18年初頭、居城を移します。


移城して間もない1月17日、突如、犬山織田氏と楽田衆が庄内川を越えて、守山城近くの野のあちこちに付け火をします。

弟である守山城主織田信光から、手合を求められた信秀は、末盛城から援軍を出します。『信長公記』曰く「備後殿御人数かけつけ」ですから、誰か大将を立て、出陣したのでしょう。


その後「やりなはを 引きずりながら ひろき野を 遠吠えしてぞ にぐる犬山」という落首が、所々に立てられたと書かれています。

やりなはとは、遣縄と書き、犬などの家畜につける縄のことで、今でいうリードです。


楽田衆とは、上尾張守護代、岩倉織田氏所属の楽田城に住む家臣たちです。犬山は信秀の甥の信清でしょう。

犬山織田氏は、初代が信秀の父、信貞です。信秀に家督を禅譲後、岩倉織田氏の後見になった為、岩倉織田氏の家臣になっています。

当時の犬山織田氏の当主は、信秀の弟信康の養子に入った信秀の次男、秀俊だった筈です。

少し前に上尾張を押さえていた信貞、弟の信康が相次いで亡くなり、信康の実子信清が、守護代信安と手を組み、弾正忠家の支配を嫌い、秀俊排斥を試みているのでしょう。

(戦国徒然「信長公の兄弟、喜藏秀俊」参照)



つまり、弾正忠家の様子を訝しく思った、信清と守護代信安が共謀し、信秀の様子を探る為に、末盛城近くでは無く、わざわざ守山城近くの野の方々に火を付け、兵を末盛から誘い出し、動きを伺っている様を表しているようにも読めます。


 以上の状況により、天文17年3月、信秀は発病し、一時期、政務が滞っていた事がわかります。

では、なんの病だったかというと、現在、癩病、脳梗塞、心筋梗塞があげれています。


ヒントになる事柄が、三つあります。


一つは、僧侶の言葉です。

信秀の葬儀で導師を務めた大雲禅師の下火語あこのご(火葬の折に、導師が故人の功績を讃えた法語を話し、引導を渡す儀式のうちの一つ)に、「俄然として一朝災厄に罹り、たちまちに壮年の勇姿を損す」(大雲禅師語録、雲興寺文書)とあります。


つまり、信秀は「突然発病して、別人のようになった」ということでしょう。

「忽ちに壮年の勇姿を損す」というのは、穏やかでは有りませんね。この時、信秀は数えで38歳、「人間50年」の時代でも、まだまだ働き盛りです。

周囲の驚愕は如何ほどだったでしょう。


二つ目は、先ほどの戦さの状況です。小豆坂合戦以前に不調の様子はなく、翌4月から、突然、姿を見せなくなり、無策が続きました。


癩病の症状は様々ですが、「俄然として一朝災厄に罹り、たちまちに壮年の勇姿を損す」というような、急性の病ではないようです。


ということで、まず、心筋梗塞か脳梗塞になるでしょう。


しかし、心筋梗塞なら、一旦快癒すれば、当時の状況を考えると、無理を押しても、戦さ場に姿を現すのではないかと思います。


また、戦況に対し、何ら手を打っていないというのも、おかしく感じます。家の存続に関わる事態を、家臣たちが、信秀に心配をかけまいと黙っていたとは、考えられません。

ですから、信秀の病は、脳梗塞である可能性が高くなりますが、心臓系の病気にも様々な物があり、中には、一気に重篤な状態になる場合もあるかも知れません。


そこで出てくるのが、三つめのヒントです。


 信秀の生年わかっている最後の子供は、小田井の方で、天文20年(1551)或いは、亡くなる天文21年に生まれています。

小田井の方は一般に六女とされ、五女は、かの於市の方で、天文16年(1547)生まれになります。


小田井の方の妹に、七女小幡殿(信光嫡男室)、八女於犬の方(佐治氏嫡男、管領細川氏室)、九女、十女飯尾尚清室、十一女野夫殿(津田氏室)、十二女於とくの方(牧長清室)がいます。

12歳でおくらの方を儲けてから、病に倒れる38歳までの26年間と同数の娘を、最晩年の1年間に仕込んだことになります。


男児の方は、十一男、長益で天文16年(1547)に生まれています。於市の方と一緒ですね。十二男は長利で、彼が信秀の末子であると言われています。


まとめると、男児も女児も天文16年(1547)以降、暫く出産が無く、それがいきなり、天文20年(1551)に至ると、弾けたように小田井の方から、長利まで9人の子供を儲けたことになります。

信秀の子供は現在、分かっているのが24人です。そのうち、最晩年の年に9人は凄くないですか。

しかも、この頃の成人率は50%ですから、少なくともこの2倍の出産があり、しかも手をつけた女性が全て妊娠したとは限りません。

異常なお盛んさです。


この謎の解明は次回に回して、今回はここから病気を推測します。


戦さ場に出られず、政務もまともに取れない状態の心臓系の病人が、果たしてこのように子作りに邁進するものでしょうか。

それとも、命が消える寸前に、いきなり体調が良くなり、1年間子作りに励んだのでしょうか?

いや、それなら戦局をなんとかしろよという気がします。


脳梗塞の場合は、医療系のサイトを見ただけですが、機能がなくなることも少なく、性的要求がなくなることはないそうです。

ということは、人にはよりますが、脳梗塞を患われた場合でも、子を成すことは可能のようです。


ということは、

天文17年(1548)3月、信秀を突然、脳梗塞の発作が襲い、体に麻痺が残り、馬に乗れない、発語しにくい、武器を使えない、稀に判断が付かなくなるなどの症状が残りました。もしかすると、戦さ場で最初の発作が起こったのかもしれませんね。

この頃、今川家との戦局は厳しく、また斎藤家との同盟を締結するまでは、病に冒された事を表沙汰には出来ません。

そこで、密やかに加持祈祷をし、加療に努めた。

そのお陰か、天文18年(1549)9月には、家臣達に指示を出来る程度の回復があった。しかし、犬山に支配を回復する手を打つ、また残念なことに戦さ場に出られる程は、回復はしなかった。


サラッと読むとこのような形になると思います。

では、次回は信長公の家督について話をします。



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