首巻の深読み

天王坊の深読み

(これは、「戦国徒然」の「父と子の絆、天王坊の考察」の内容とほぼ同じです)


 天王坊は那古野時代、信長公が通ったとされる学問所で、小説では「津島」の天王通りあたりに設定されていることもあります。


今回は、天王坊は何処にあったのか、天王坊は信長公の学問所だったのかを深読みしていきます。


まず、「天王坊は何処にあったのか」を読み解いていきましょう。


「信長公記」ではありませんが、「 織田大和守達勝書状」に、信秀宛、天文7年(1538)10月9日付の書状で、那古野城普請工事の許可を与えているものが残っています。

その同じ年に信秀が、元の今川領、那古野城の天王坊宛の所領安堵の書状を発給しています。

これによって、天王坊は津島では無く、那古野城下にあったのではないかと考えられます。


では、那古野城下の何処に建っていたのでしょう。


当時、那古野城にあった「若宮社」の伝承で「那古野荘中市場の天王坊の南に建ち」とあることから、天王坊は那古野城下、中市場にあったことが推定できます。


 田中善一氏の論考によると、若宮社自体は、元は今市場(名古屋城三の丸の場所)に建っていましたが、信秀が城攻めをした時に、灰盡に帰し、天文8年に社頭は復興されたとあります。その後、江戸期に入り名古屋城築城のために、若宮社と天王坊の二社は移転を申しつけられたとあります。甚だ古い論文で旧字体の為に、印字が潰れて読めないのですが、天王坊は「?」が無く、若宮社は「?」があった為に遷移したと書いてあります。


そこで、三の丸近辺にある寺社仏閣を探すと、那古野神社の由来に「当時は天王社と称し、神仏習合により別当として真言宗亀尾山安養寺十二坊(首班を天王坊)があった」とあります。


徳川美術館収蔵の慶長時代以前の尾州名護屋古地図(特別展のみ)、または名古屋市博物館、那古野村古図(ネット閲覧可能)というものがあります。

ここに当時の本城である那古野城を出て、南東に2~300米歩いた現在の名古屋城の三の丸あたりに、「氏神天王様、天永寺」という建物が並んで建っていることがわかります。

その東隣には「八王寺」という寺があります。その下に探していた「安養寺」があります。

つまり「安養寺十二坊」がこのあたりであり、これを称して「天王坊」と言っていたということになります。

関係はないですが、そこから通りを隔てて、南に「現在の中区丸の内2丁目、3丁目と錦にまたがる」五万五千坪の萬松寺が広がっていることになります。


寺社仏閣町ですね。

その中に家臣団の居城が、堀を巻いて威容を誇って、建っていたのでしょう。


では次に、天王坊とは、どんなところだったのか、というのを読んでいきます。


「信長公記」に天王坊が出てくる箇所が、「天王坊、学問所説」を推しているのとは別にあります。


「武衛様御生害のこと」の段の一文になります。

「若武衛様は川狩より ゆかたびらのしたてにて 信長を御憑み候て 那古野に御出 すなはち弐百人扶持仰せ付けられ 天王坊に置き申され候」


天文23年(1554)のことですから、すでに信秀は亡く、信勝と信長公が相争っている頃のことです。

武衛様とは、古来より斯波家当主のことで、当時は斯波義統のことを指します。尾張守護斯波氏と、下尾張守護代織田大和守家は仲が悪く、斯波氏は弾正忠家(信秀、信長)を頼りとしていました。ま、仲の悪い時期もありますが。


若武衛様(嫡男岩龍丸)は、7月12日(8月10日)、大掛かりな川狩をします。

「内には 老者の仁体僅かに少々相残る」

(清須城内の守護屋敷の中には、老人が少々残っているだけだった)

と云うくらい手薄な状況で、その隙をついて同じ清須城の守護代屋敷に住む守護代織田氏の家臣に、斯波義統は襲われて殺されてしまいます。


他の若君が残っていたので、その側近はいたでしょうが、嫡男ですら元服が終わっていませんから、彼らにはまだ家臣団はなく、御伽小姓や僅かな馬廻衆、そして傅役程度が一緒にいたのでしょう。そうなると、彼らは、自分たちの主君である若君を守るのが精一杯で、当主を助けることは叶わなかったことでしょう。


訳していきます。


「すなはち」は、名詞、副詞、接続詞があり、現代の「つまりは」という以外に「当座」「そういうわけで」という意味がありました。


「若武衛様は、川狩の召物である麻の単衣の姿で、報を受けるとそのまま、信長公を頼られて、那古野城へ逃げ込まれ、さしあたり200人扶持をお受けになられて、天王坊へ入られることになった」


尾張守護斯波氏嫡男岩龍丸主従、そしてその後、助け出した弟達を入れさせているところから、相応の格式があり、分散はしますが、収容人数的に一家が家臣共々お邪魔しても、不自由は無かったということが分かりました。


では、この天王坊は信長公の学問所だったのか、というところを見ていきます。



「信長公記」に於ける「学問所、天王坊」の該当箇所は、首巻の最初の項に出てきます。


実は天王坊の下りは、そもそも「天王坊は信長公の学問所だった」とは書いてありませんし、その形で読もうとすると、非常に分かりにくい文章になります。

以下、新人物往来社の桑田忠親 校注版の公記の一部を掲載させて頂きます。


「備後殿(信秀)は 取り分け器用の仁にて 諸家中の能き者と御知音なされ 御手に付けられ 或る時 備後守 国中 那古野にこさせられ 丈夫に御要害仰せ付けられ 嫡男織田吉法師殿に、一おとな 林新五郎(林秀貞) 二長におとな 平手中務丞(平手政秀) 三長 青山与三右衛門 四長 内藤勝介 是らを相添へ 御台所賄の事 平手中務。

御不弁限り無く 天王坊と申す寺へ御登山なされ 那古野の城を吉法師殿へ御譲り候て、熱田の並び古渡と云う所に新城を拵へ 備後守御居城なり。御台所 賄 山田弥右衛門なり」


 この文章の前には、織田家の状況について書かれ、弾正忠家が下尾張守護代の三奉行の一家で、代々武篇の家(武名高い家)であることが書いてあります。その続きで、訳していきます。


「器用の仁」とは、知略家で立ち回りが上手い人ということ。

「能き者」は「よき」と読んで、訳されていますが、古くは「はかばかしき」と読んで、「際立って有能」「非常に能力が高い、才能がある」という意味になります。

「知音」とは、肝胆相照らす仲の親友。信頼ができるお仲間ですね。


「信秀公はとても心遣いの良い社交的な人物(辣腕家)で、様々な家の有能な人たちと親しく交わり、味方に付けていき、ある時、国中のものを呼び寄せて、手に入れた那古野城を堅固な城塞都市にして、嫡男吉法師殿にコレコレの人たちを付けた。」

ここら辺はまぁこんな感じですね。

台所賄いとは、城の経理のことを言います。


そこから、突然主語が二つに分かれ

「吉法師は何かと不自由なことが多かったが、そんな中で天王坊と云う寺に通って学問をし、信秀は那古野の城を吉法師殿へ譲って、熱田の近くの〜(以下略)」

であると、現在、訳されています。

この訳文から「天王坊と云う学問所」が出てきたわけです。


まず、古語に於いては「不弁」は「ふべん」ですが、現在、不自由を意味する「不便」は「ふびん」と読む別の言葉であり、当て文字になりません。

「不弁」は「わきまえが出来ていない状況」のことを指し、きちんと分けられない、区別がつかない状況のことになります。

元々「弁」が「命令を伝達する」という意味がありますから、ここでは命令の系統が混乱しているということになります。


「命令系統が混乱すること限りなく、吉法師殿は天王坊に学業の為に入門されて、信秀殿は那古野の城を吉法師殿に譲られて、云々」


悪くはありませんが、どうでしょうか。


では、これを踏まえて、「信秀」を最初から主語にして読むと、どうなるでしょうか。

「信秀公はとても心遣いの良い社交的な人物(辣腕家)で、様々な家の有能な人たちと親しく交わり、味方に付けていき、ある時、国中のものを呼び寄せて、手に入れた那古野城を堅固な城塞都市にして、嫡男吉法師殿にコレコレの人たちを付けた。

(そうすると)命令系統が混乱すること限り無かったので、信秀は、天王坊と云う寺へ入って、那古野の城を吉法師殿に譲って、熱田の近くの〜」

と云うことになります。


こちらの方が、自然な流れになるように感じます。


信秀は、別に城を作り、那古野城を譲るつもりだったので、目が届くうちに、吉法師に家の運営をさせてみることにした。

信秀は、まず信長公付けの家臣団を整え、実践させてみた。

ところが、命令系統が二つに分かれ、賄(経理)も別にしたので、色々問題が起こってきた。


これは同じ会社の同じ社屋に、社長が二人いて……と考えると、確かにという気がしませんか。

大社長が「これはこうするように」と命じても、若社長の方が別に「これはああするように」と命じていたら、それは混乱しますよね。


また家臣の間でも、誰に報告したらいいのか、どっちのいうことを聞いたらいいのか。

当時は、家臣でも近習の取次を通しますから、余計に命が錯綜して、混乱状態になるので、自分は天王坊に移った。

ということでは、ないかなと思います。


元々戦国時代の文書の書き方である「書札礼」は、「言葉、短かく、分かりやすくを善とする」を推奨していることから、当時の文章は端的に短い(わかりやすいかどうかは別として)ものです。

ですから、一文で二つ主語を持ち込むよりも、前文からの流れで、信秀を主語にした方が当時の書き方にかなっているのではないかと思います。


 先程述べましたように、天王坊は、尾張守護斯波氏御一行様が住むのに、不都合のない広さと格式がありましたから、信秀たちの仮住まいにはさほど不自由なことはなかったのではないかと思われます。


実際に天王坊に居を移したのは、信秀の家族と、主郭に住んでいた小姓や侍女、下働きの人々で、主郭の常御殿と主殿を天王坊に移し、多くの家臣達は、自分たちの拝領屋敷から天王坊に通っていたでしょうしね。


 もう一つの傍証として、天正3年(1575)11月のこと、信長公は信忠に家督を譲った折に、居城岐阜城も明け渡し、自らは茶道具を持って、佐久間信盛の私邸へ移り、翌年から安土城の建築をさせている様子が、「信長公記」に書かれています。

ですから、信秀は那古野城を譲った後、主郭に近く格式の高い天王坊に家族を連れて入り、古渡城を築城したと見る方が妥当ではないでしょうか。


 では、天王坊は、信長公の学問所ではなかったのかということになります。

これはどうなのか、最終的な部分においては、正直言って分かりません。


ただ、この天王坊は浄土真宗のお寺なんですね。

当時、武家の子息が学問をつける最高府というのは、禅宗であるとされていました。

禅宗というのは、そういう宗派ではなく、臨済宗と曹洞宗、黄檗宗をまとめて呼ぶ言葉です。このうち黄檗宗は江戸期に出来ていますから、この当時は有りません。


信長公の教育係の僧というのは、沢彦宗恩たくげんそうおんであるというのは有名です。

「信長」という名前を提案したとか、「岐阜」「天下布武」を進言したとされている方です。

この方を顔の広い平手政秀がかき口説いて、那古野城に連れてこられたと言います。

この方は、臨済宗の僧侶です。


また、那古野城本城(信長公が住む主郭)のすぐ側には、天文9年(1540)に開山した織田家菩提寺の曹洞宗寺院の萬松寺が建っています。この萬松寺の住職、大雲禅師は、信貞の弟にあたる方で、萬松寺を開山するにあたって、大雲寺よりわざわざ招いた名僧です。

大雲禅師を慕う人は他国にまで及び、弟子が数多いる優れた方です。

丁度開山した年を考えると、信長公が僧侶について学問をつけ始める頃ですから、それを見越して、信秀が招いた部分もあるかもしれません。


禅宗の特徴として、「禅問答」で有名な「これはいかに」と問いかけ、「これ、誰それ、アレなると申すを以て、なにとす」みたいな、知識を総動員してやりあう問答がありますが、高僧二人が真摯に戦うのを、吉法師少年と近習達が興味深く見守ったかもしれませんね。


まぁ、天王坊は那古野城の主郭と、萬松寺の間にあるので、もしかしたら、時々場所をお借りしたことがあったかもしれない……ということでなんともです。



今回は、天王坊は那古野城下、主郭に近い場所にあり、学問所ではなかったということが結論です。

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