最終話 幸福の日 そのに


 ――夕空の朱を溶かした田子の浦港。


 そこから目をもう少し上げれば。

 オレンジネオンとなって幾何学的な模様を描く工場の光。


 さらに富士市の夜景がその先に続き。


 そして、最後にもう少し視線をあげると。

 そこには。



「……私の、夢……」



 霊峰、富士の高嶺が。

 青の色濃い空の中に、未だに残る雪で白い線を引いて。

 雄大な姿を淡く浮かび上がらせていた。



「うわ……。綺麗、ね」

「やべえ! おにい、すげえよこれ!」

「な? すげえだろ。これが日本有数の絶景だ」


 ふじのくに田子の浦みなと公園からの工場夜景。

 日が暮れる直前には。

 海と富士山とに挟まれた輝きを拝むことができるんだ。



 ……繋いでいた手が。

 痛いほどに俺の指を握りしめる。


 どうだ。

 嬉しくなっただろ?


 でも、お前。

 自分がどうして嬉しいか。

 その理由には。

 まだ気づいてねえようだけどな。


「お前のすぐ後ろで、お前と同じ思いでこの景色眺めてるの、誰だと思う?」


 春姫ちゃんがゆっくり少しだけ首を傾けると。

 彼女の肩へ、優しく添わせた指が視界に入ったんだろう。

 そのまま振り返るでもなく。

 優しい笑みを浮かべて、再び美しい景色へ目を向けた。


「今、お前はようやく久しぶりに。大好きな人と同じ気持ちで笑ってるんだ」

「……そうか。笑っているのか。……私は今まで、笑っていなかったのか」

「ああ、まずはそのことを知らねえと始まらねえ。……今までお前らは、二人でずっと泣いてたわけだからな」

「……どう、すれば。泣かずに済む」

「お前の一番悔しい気持ちを伝えりゃあいいんじゃねえの? どうしようもねえほど優しくて、どうしようもねえほどバカな姉ちゃんに、な」

「わ、私!?」


 バカと呼ばれて。

 いや。

 自分のせいで、最愛の妹が何かを悔しがっていると聞かされて、眉根を寄せた舞浜に。

 春姫ちゃんは、スカートをぎゅっと握り締めながら。


 訥々と語りだす。


「……お、お姉様。私の気持ちを考えて笑わないでいるのは分かります」

「う、うん」

「……でも、それが私。……辛かった、悔しかった」

「春姫が笑えないのに、私、笑えない……、よ?」


 そうだよな。

 お前さんは優しいから。

 そう考えるのも当然だ。


 でも、優しさって。

 相手も優しい場合には。

 猛毒になることもあるんだぜ?


「逆だよ舞浜」

「え?」

「よく考えてみろ。春姫ちゃんが笑わねえ特訓するんだったら、お前だけがおもしれえことやってりゃ済む話だ。こいつは何でおもしれえことやってたと思う?」

「…………私を、笑わせる……、ため?」


 ようやくわかったか。


 もう、ここまで来たら後に引けなくなったからな。

 春姫ちゃんは俺を頼るように寄り添って。

 繋いだ手を、これでもかってほど強く握りしめてくる。


 ……お前が学校に来た時。

 俺に託したメッセージ。


 『たすけて』


 あれが無けりゃ、気付かなかったと思う。


 自分の不遇を。

 それなり飄々と受け入れて過ごしてる春姫ちゃんが。

 なんで『たすけて』なのか。


 ……あれは。

 自分を『たすけて』じゃなかったんだ。


 大好きな人を。

 『たすけて』欲しかったんだ。



「あのね、保坂君。私が笑ったりしたら、春姫も笑うから……。春姫、笑うのをこらえるのに腿をつねるの。それが可哀そうで……」

「それもちげえ」

「え? ……ち、違くない……、よ?」


 春姫ちゃんの真っすぐな瞳が俺を見つめる。

 ああ、任せとけよ。


「スカート、な。俺も最初はそう思ってたんだけど」

「ち、違う、の?」

「半分は正解。凜々花と同じなんだろ。実際、笑いこらえる時はスカート握ってた。でもな、もう半分は。…………お前が笑わなくて、悔しい時に握ってたんだ」


 なにも返事をしないって形の決定的な証言と共に。

 春姫ちゃんが、目を背けると。


 感極まっちまったんだろう。

 舞浜は、あふれ出す涙を拭きもせずに。


 春姫ちゃんを、その手で強く抱きしめた。


「ごめん……。ごめんね? 気づいてあげられなくて……」

「お、お姉様が私を気遣ってくれたせい。謝ることなんか、ない」


 舞浜が、笑えない春姫ちゃんに気をつかって笑わなくなったこと。


 そのことが、春姫ちゃんを苦しめてたんだ。


「……だから今日だって、俺がてめえを爆笑させようとしてたってのに。こんのバカ姉はよう……」

「そ、それだけは違うから弁明させて?」

「は?」

「ほ、保坂君のネタ、いまいち面白くない」

「ぐはあっ!」


 俺がばっさり切り捨てられると。

 凜々花はけたけた笑ったんだが。


「……こら舞浜。学習したばっかだろうが、なんだそのしょぼくれた顔」

「え?」

「笑うんだよ、今みてえなときは」

「で、でも……」


 舞浜が見つめる春姫ちゃんの手。

 その手がスカートをぎゅっと握る理由は。

 多分、悔しい方じゃねえ。


 ……そう。

 そうなんだよ。


 この、最後のピースが埋まってねえんだ。


 春姫ちゃんが笑えねえと。

 いくらそのことで春姫ちゃんが辛い思いしてるって分かっても。



 舞浜は笑わねえ。



「春姫ちゃん。あの笑い方、試してみろよ」

「……今、あれをしたところで。心から笑っているようには見えまい」


 そうだな。

 今やったら、まるで愛想笑いだ。

 舞浜が余計悲しくなっちまう。


 だったらどうすりゃいい?

 急いで考えろ、俺。


 ええと……。


「邪魔だてめえら! この絶景楽しめる時間みじけえってのに、なに青春ごっこしてんだ!」

「お前の方が思考の邪魔だこのやろう!」


 前にもこんなことあったな。

 邪魔すんじゃねえっての、殺人未遂女。


「ヤレヤレ、気になって仕方ない。四人まとめてどこかへ行……、そうか。メノマエは海」

「落とす気かよ!? あそこで動画撮ってる兄ちゃんに悪いわ! ネットにアップした瞬間大炎上だ!」

「アップアップするのはお前達ダガ?」

「ダガ? じゃねえ。上は炎上、下は洪水な~んだってタイトルにされるわ」

「……魚焼きグリル」

「答えは水遊びしてびっしょびしょんなった俺と凜々花を正座させて超怒鳴りつけてるお袋だ」

「うはは! 兄貴の方やっぱおもしれえな! 叱られて漏らしたんじゃねえか?」

「凜々花がな。生あったけえのに逃げられねえとか泣きそうだったぜ」

「うはははは! こいつ最高だぜ、なあダリア!」


 店員女が、おかしな事ばっかり言いやがるロシア女の肩に寄り掛かって笑ってやがるが。


 ほんと邪魔だからあっちに行ってくれ。


「ベツダン、面白くもなんともナイ」

「なに言ってんだ、おめえだって爆笑してんじゃねえかよ!」


 …………は?


「してない。マッタクの気のせい。事実無根。証言捏造ねつぞう。鰻重食過たべすぎ

「わはは! 二杯も食うからだろうが!」


 え?

 さっき、何て言ったんだ?


 この無表情で。


 笑ってるだと!?


「そのウナギ屋でもよう、おまえ舞浜姉の付箋見た時抱腹絶倒だったもんな!」

「さっぱりワカラナイ。三人成虎さんにんせいこ。清廉潔白。証拠隠滅」

「うはは! 消すんじゃねえよ証拠!」

「さあ。なんのハナシか」

「ニヤニヤ笑うな! 言い間違えたくせに仕込んだ風なこと言ってんじゃねえ!」


 今度は、ニヤニヤ笑うなって。

 どういうことだ?


 いや。


 そう言われれば。

 確かに感じる。


 この人、今。


 楽しそうに笑ってる!



 ――舞浜との二か月間。

 春姫ちゃんとの一月間。


 一緒に過ごして。

 俺は、二人の仮面の内側を。

 垣間見ることができるようになってる。


 その経験が無けりゃ。

 何をバカらしいって一笑に付してたかもしんねえが。


「見つけた……、最後のピース……」


 俺がつぶやくと。

 殺人未遂女がにやりと笑って。

 俺の首に腕を回してきた。


「だーからよ、最初っから言ってんじゃねえかバカ兄貴。気にすることねえって。……喘息持ちだって、運動するし楽けりゃ笑う」

「ってことは……」

「ああ、そうだ」


 そして全員の目が。

 無表情のまま超然とした姿で立つ。

 銀色の女性へ向くと。


「……ダリアは、喘息持ちだ」

「ソンナ餅、持ってな……、おや、ポケットに入ってた」

「うはははははははははははは!!! なんできな粉餅出てきた!?」

「きゃははははははははははは!!!」

「ぷぷっ!」

「く、くくっ……!」


 ああ、そうか。


 逆だったんだ。

 春姫ちゃんが笑うんじゃなくて。


「こらてめえ! 自分で仕込んどいて泣きそうになってんじゃねえ!」

「ダッテ、ポケットが餅でベットベト」

「うるせえ黙れ! 自分が悪ふざけしたせいだろうが!」


 俺たちが。

 いつも楽しいって言ってる春姫ちゃんの。

 心の中の笑顔を感じてあげれば。

 それでよかったんだ。


「……凜々花」

「ん?」

「ハンバーガー屋のお姉ちゃんになれるか?」

「え? なれるよ簡単! このあほんだらー!」

「そうじゃねえよ。春姫ちゃんが笑ってるって、分かってあげられっかって話だ」

「あ! それな! でも、だいたい凜々花が笑ってっ時は楽しそうって思う!」


 ……そうだな。

 さすが凜々花。


 春姫ちゃんのこと。

 友達だって言ってたもんな。


「そう考えりゃ、昨日お前らが言ってたこと、正解だった訳だ」

「なにが?」


 春姫ちゃん、確かに言ってた。

 凜々花といると楽しいって。

 いつもお前には笑っていて欲しいって。


 そんでお前も答えたわけだ。

 だったら問題解決って。


「いいか凜々花。春姫ちゃんは、これからはお前と一緒に笑ってくれるってさ」

「ほんと?」

「ああ。……なんならこれから、俺が証明してやるぜ」


 さあて、ここから。

 クライマックスだ。


 いよいよお前らを。



 無様に笑わせてやるぜ!



「春姫ちゃん、昨日練習したやつだ。気合入れてダラーっとしろ」

「……いや、お前のネタごときでは笑わない」

「今日の事で、俺の推理力も相当なもんだって思ったろ?」

「…………まさか、気付いて……? や、やめろ」

「いや、やめねえ。……ここには薬もねえ。家も遠い。気合入れて惚けた笑い方しねえと大ごとになるぜ?」


 途端に青ざめた春姫ちゃん。

 そしておろおろする舞浜。


 お前らのツボは。

 分析できてるんだよ!


 さあ!


 食らえ!!!




「布団がふっとんだ」




 ……誰もが眉根を寄せたおやじギャグ。

 でも、そんな皆が。

 春姫ちゃんの様子を見て。

 途端に表情を変える。



「くっ……! ふ、ふふっ……!」


 おお、良い反応。

 でも戦いは。

 これからだぜ?


「俺、さっきやけどしたんやけど」

「くふっ……!」

「パンダのパンだ」

「ふふっ! あは、ふふふっ!」

「ほれ。必死におっおっおって笑い方しねえと大ごとだぜ?」

「ほ、ほふっ! ほっほっほ……」

「北から来たから?」

「ほほっ! んくっ……、ほ、ほふっ。おっおっおっお」


 怪訝な顔してたみんなの顔色が。

 確信に変わる。


 そうさ、こいつはテクニカルな笑いに耐性は付いてるが。

 逆に古典的なやつに弱いんだ!


 昨日、明らかにつねり方が違った瞬間。

 凜々花がネタの前に言った、あっしの足。

 そして、タオル持ってたせいでつねることもできずに笑ったのは。

 殺人未遂女がおまるのネタふりの前に言った、トイレにいっといれ。


 俺の鋭い観察眼は。

 それを捉えてたのさ!


「凜々花も! ホットケーキはほっとけー!」

「くふっ! ……おっおっおっお」

「ふぉっふぉっふぉっふぉ! このダジャレ言ったの誰じゃ!?」

「おっおっおっお!」

「ふぉっふぉっふぉっふぉ!」


 バカな顔して笑う二人。

 でもそれが。

 満々の笑みにとって代わる。


「おっおっおっお!」

「ふぉっふぉっふぉっふぉ!」


 他の方法でもいい。

 負担のかからねえ笑い方を身につけるか。

 ダリアさんみたいになれるまで。


 凜々花と二人。

 毎日、楽しく特訓すればいい。


 そうすれば……。


「うははははは! ダリアもこうやって笑えよ!」

「冗談。……ダガ、ジツニ楽しい」


 そうすればこうして。

 みんなで心の底から笑うことができ…………、あれ?


「……舞浜。なんでおまえは笑ってねえ」

「だ、だって……、何が面白い、の? 春姫、なんで笑ってるの?」


 あれれれれ?


「お前ら凝りまくったネタばっかりやってっからこういうのに耐性ついてねえんじゃねえの!?」

「春姫が笑ってるの、不思議……。こんなくっだらない冗談で」

「ぐはあっ!」


 し、辛辣!

 思わず片膝付いちまった。


 そしてお前らな。

 俺のこと指差して爆笑してんじゃねえ!


「こら舞浜!」

「は、はい!」

「てめえは小さなことでも爆笑しなきゃいけねえ! それが春姫ちゃんのためって言ってんだろうが!」

「そ、そうでした! じゃあ、あの……、よろしくお願いします!」

「…………シマウマになってしまうまで」

「くっだらない」

「ぐはあっ!」


 舞浜。

 意外と毒舌。


 そんな一面を見れたことだけが。

 唯一の救い。


 ……ああ。


 唯一の、な。


「きゃはははは! おにい、撃沈の巻!」

「うはは! なんだ? こいつじゃなくてあたしら笑わせようとしてんのか?」

「ナニモ、そこまでせずトモ顔だけで充分面白い」

「くふっ……。おっおっおっお」


 なんだこのひでえ扱い。

 さすがに泣きそうだ。


 ……そして、おい、舞浜。

 てめえはその仮面の下で。

 ニヤニヤ笑ってんじゃねえよ。


「お前……。話の流れ分かってっか? 笑えっての……」

「わ、笑いに妥協無しが舞浜家の家訓……」


 いらん家訓作んな、あのバカおやじめ。


 だが、まあ。

 今日の所はこれでいいか。


 なんたって。


「春姫……。楽しい?」

「……もちろん。久し振りに、笑った。お姉様と、一緒に」

「うん。そうだね。これからは、春姫が面白い事したら、大声上げて笑うね」


 そう、なんたって。

 俺が望んだ通り。

 二人の笑顔が見れたんだからな。


「……面白い事したら? なら、面白く無かったら?」

「もちろん、今みたいに厳しい仕打ちが待ってる……、よ?」

「ひでえ姉だ。好きな人を笑わせてえって気持ち、誰でも持ってるもんだろうが」

「好きな人……」

「まあいいや。そんじゃあ、丸く収まった二人にプレゼントだ」


 俺は笑顔の二人の前に。

 ポケットから二つの硬貨を出して一枚ずつ渡した。


「……これは?」

「古い……、外国のお金?」

「昔のドイツで使ってた、マルクだ」


 途端にこいつら怪訝顔になっちまったが。

 今日はほんと、大収穫。


 お前ら。

 ちゃんと表情に出るようになったじゃねえの。


 さて、そんなお前らを。


 無様に笑わせてやるぜ!




「これでマルク、おさまったってね!」




 …………あれ?




「いやいや。だからさ、お前ら……」

「……センス、皆無」

「こら! ダジャレがツボなお前に言われたかねえぞ!」

「どうせ出すなら、こういうのじゃないと……、ね?」

「うははははははははははは!!! どうしてお前までポケットにきな粉餅仕込んでんだよ!」

「…………べっとべと」

「あたりめえだ! うははははははははははは!!!」



 ――結局、最後のオチも不発。


 それどころか。

 いつも通り、舞浜に笑わされて。


 いいとこ無しな俺の肩を。

 みんなして叩いて。


 すっかり夜景に変わった工場の光を見に行っちまった。



 ……残った舞浜は。

 いつもの微笑の仮面で。


 勝ち誇ったように俺を見てやがる。


「……ちきしょう。なんでてめえはそうなんだ?」


 少し涼しく変わった夜風に吹かれた髪を。

 軽く押さえていた舞浜の白い手。


 それが俺の手を優しくつかんで。

 柔らかい笑い声と共におでこに当てる。


「ありがと……、ね」

「礼はいいから。なんでてめえは笑わねえくせに俺を笑わせたがる」

「なんでか、分からない……の?」

「分かんねえから聞いてんじゃねえか」

「さっき、自分で言ってた……、よ?」

「はあ?」


 なんだかさっぱり分からねえこと言い残して。

 舞浜はみんなの元にかけていく。


 その中心には。

 いつもの無表情で立つ春姫ちゃん。


 みんなに、今、笑ってるとか言われて。

 顔色も変えずに否定してるけど。


  三人成虎さんにんせいこ

 そんなウソは。

 ……優しいウソは。

 いつか真実に変わるもんだ。



 初夏の風が、昼の間に火照った丘を冷まして抜けるこの夜景。

 暗闇の中だからこそ、一層眩しく見える工場の明かりのように。


 フランス人形が。

 目尻に皺を寄せて。

 大口を開けて。


 声を上げずに。

 眩しい笑顔で。



 大笑いしていた。




 秋乃は立哉を笑わせたい 第2笑

 =友達の悩みを解決しよう編=



 おしまい



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秋乃は立哉を笑わせたい 第2笑 如月 仁成 @hitomi_aki

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