最終話 宝ものに結ばれて
花をすべて落として、若く浅い緑色におおわれた桜の木の下。
「なにその濃いのか薄いのかよくわかんないなれそめ。微妙に背中がムズムズするんだけど」
レジャーシートの上で体育座りをしている娘の
「そんなこといわれてもねえ。ほんとうのことだもの」
あたしが
なんにせよ、その葵である。つい先日、高校時代の友人から『もうすぐ結婚する』という連絡をもらって、なかなかの衝撃を受けたのだという。それで『そういえばお母さんたちのなれそめって聞いたことなかった』と、気がついたらしい。
なにが『そういえば』なのかはよくわからないけれど、これまで結婚というものを考えたことがなかったという葵にとっては、いちばん身近な夫婦ということで興味がわいたのかもしれない。
「それにしても、お母さん物持ちよすぎ。葉桜チャームって、いつもバッグにつけてるやつでしょ?」
「そうよ」
ジュエリーショップで何度か修理をしてもらいながら、今も現役でつかっている。さすがにもう色あいが若すぎるような気もするけれど、それはそれである。
「告白は? どっちから?」
「告白……好きですつきあってくださいというような告白はどちらもしなかったわね」
あの日、夕飯に誘われたのをきっかけに、ときどきふたりで会うようになった。ただ、カルチャーセンターの規約で、講師と生徒が個人的なつきあいをすることは禁じられていたため、おおっぴらに遊びに出かけたりするようなことはなく、たとえば誰かに見られても『偶然会った』といいはれるくらいの関係にとどまっていた。
それは約半年、計十二回の講座が終了するまでつづいて、おたがいの呼びかたが『桜さん』と『葉太さん』になったのも、講座最終日の夜、食事に行ったときからだ。それまでは、苗字呼び、先生呼びだった。たぶんあれが、ふたりの区切りで、恋人としてのはじまりになった。
「じゃあ、プロポーズは?」
「……ふつうよ。結婚してくださいって」
「今なんか変な『ま』があった!」
「ないわよ」
「あった!」
「気のせいね」
「なになに、まさかひざまずいて指輪ケースパッカーンとかやったの。あのお腹で」
葵が指さした先には、生徒さんのひとりと談笑している葉太さんがいた。たしかに、だいぶ立派なお腹になっているけども。
「そのころはまだひらべったかったわよ」
「あはは。そりゃそうか」
現在彼は、絵手紙教室のほかデッサンや水彩画の講師もしていて、月に一度ほどは野外スケッチの教室をひらいている。あたしは助手としてほぼ毎回、葵も都合があえば今日のように同行することがあった。
「で、やったの? パッカーン」
想像して、つい吹きだしてしまった。
「残念ながら。それもちょっと見てみたかったわね」
プロポーズ自体はほんとうにシンプルでストレートなものだった。ウソはいっていない。
「じゃあなにしたの、お父さん」
「それは内緒」
「ええー、なんで」
「人に見せびらかしたい宝ものと、誰にも見せないでしまいこんでおきたい宝ものとあるでしょ。それとおなじよ」
「けちー」
「ほんとうに好きな人ができたら、あなたにもきっとわかるわ」
「うわあ、ノロケた! お母さんがノロケた……!」
ぎゃーぎゃー騒ぎながら、色鉛筆を持つ手は止まらない。器用な子である。うらやましい。でも、あたしに似なくてよかった。
心地いい風とやわらかな木漏れ日。見あげた緑は直視できないくらいにまぶしい。
夫婦になるまえも、なってからも、葉太さんとはたくさんの絵手紙を送りあってきた。
バレンタインデー、ホワイトデー、クリスマス、お正月、誕生日――それからケンカをしたときも絵手紙で仲なおりしたり、結婚してからはちょっとした交換日記のように、絵手紙ノートを交互につけたりしている。
数えきれないほどの絵手紙。一枚一枚、大切な思い出があるけれど、なかでもあの日――プロポーズされたときに指輪と一緒に渡された一枚は、ほんとうに特別で、あの瞬間の気持ちも心の特別な場所に保管されている。
葉桜の君に
出会って
恋して
ふたり
いつまでも
【葉】
そっけないほど飾り気のない文章に、桜花と若葉の絵。そして、最後に押されていた
あれから夫婦になって、娘ができて、親になって、家族になった。
「桜さーん、ちょっとこっちの彩色見てあげてー」
「はーい」
レジャーシートから勢いよく立ちあがる。
「よし。今度はお父さんに聞いてみよう」
葵の作戦ともいえない作戦を背中に聞きながら、あたしは葉桜の木陰から飛びだした。
(了)
葉桜の君に 〜結〜 野森ちえこ @nono_chie
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