第2話 落とした女と拾った男
翌日の会社帰り、あたしはまた昨夜の公園にきていた。駅方面と住宅街方面、二か所ある出入り口の駅側に立つ桜。その根もとを懐中電灯で照らして、すみずみまで目をこらす。
やっぱりない。地面を飾っているのは薄汚れた無数の花片と小石ばかりだ。ため息をのどもとに押しとどめ、右に左に視線と懐中電灯を動かしながら公園のなかに移動する。
通りがかった人たちから、ときおり怪訝な顔を向けられたけれど、そんなこといちいち気にしていられない。
大丈夫。ここにある。きっとみつかる。自分にいい聞かせるように心のなかで繰り返しながら、ベンチの下をのぞきこんだ。
懐中電灯の光をたよりに縦横ななめ、二度三度と視線を往復させ、四度目までかろうじて残っていた期待が五度目で砕け散った。
落ちているなら、ここがもっとも可能性が高いと思っていた。けれど昨夜、このベンチでペットボトルをしまったとき、はたしてバッグについていたのかいなかったのか。いくら記憶をたどっても確信が持てない。
元彼の部屋を出たときにはたしかについて……いや、どうだろう。そう思いたいだけなのかもしれない。もし、彼の部屋に落としていたとしたら――あまり、考えたくない。
今度こそため息をついて、しゃがみこんだままの膝に顔をうずめる。
「大丈夫で……あれ、
きのうといい今日といい、なぜこんなタイミングで会ってしまうのだろう。振りかえるまでもない。背後からかけられたやわらかな声は
こういうのもデジャヴというのだろうか――と、ぼんやり考える。なんかちがうような気がするけれど、なんにせよ、驚くにも気力がいるのだということをはじめて知った。
「どうしました?」
さすがにすこし気まずい。きのうのあれは、百パーセントやつあたりだった。
あまり好きではなさそうだった甘い飲みものを買ってきてくれたのも、苦い過去を話してくれたのも、きっとぜんぶ先生なりの気づかいだったのに。それを人たらしとか、捨てゼリフのように投げつけて逃げだすなんて、大人がすることじゃない。
そして、心配して声をかけてくれた人を無視するのも大人のすることじゃない。そうは思うのだけど、行動がともなわない。
背中をまるめてうずくまっているあたしにならぶように先生もしゃがみこんだ。
「体調悪いんですか?」
「いえ……きのう、落しものをしてしまって」
「あ、もしかして、ネックレスみたいなやつですか? ピンクと緑の飾りがついてる」
まさかの問いかけに、がばっと顔をあげた。
「そうです!」
たしかにあれは、知らない人が見ればネックレスだと思うかもしれない。実際は、アクセサリーづくりが趣味だった祖母からもらった、葉桜をモチーフにしたバッグチャームなのだけど、そこはたいした問題じゃない。
こちらの勢いに驚いたのか、先生も目をまるくしている。
落ちついて考えればすぐ思いあたっただろうに。今朝、チャームを落としたことに気づいたときから、もう『なくした』という事実だけに心がとらわれてしまって、先生に拾われている可能性などちらりとも考えなかった。というか、頭からすっぽ抜けていた。
✿
「よか……った。交番に、届ける、べきか、迷ったん……ですが、とりあえず、あさって、教室で、春川さんに、確認してから、と思って」
ぜえぜえ息を切らしている先生から手渡されたそれは、まちがいなくあたしが落としたものだった。公園を出てすぐのところにあるという自宅からとってきてくれたのだ。
「ありがとう、ございます」
先生はもう一度「よかった」といって、へなへなとベンチに腰を落とした。
そこまで急がなくてもいいのに。この人はなぜ、こんなに一生懸命なんだろう。
やっぱりあたしが元婚約者に似ているからだろうか。いや、別れかたからしてそれはないか。それに、近くで見たらぜんぜん似てなかったといっていたし。まだ、好きなのだろうか。赤の他人を見まちがえてしまうくらいに。
とりとめのない思考が、あっちにこっちにフラフラとさまよう。
ざあっと風が吹いて、夜の藍色に白い花吹雪が乱れ舞う。月光と街灯に反射してキラキラときらめいて見えた。
「座りませんか」
呼吸が落ちついてきたらしい先生が、トントンとベンチの座面を叩いた。
おずおずと腰をおろしながら、はたと気がつく。どうしてあたしは、待っているあいだに飲みもののひとつでも買っておかなかったのだろう。
不器用な上に気がきかない。だから、できそこないなんていわれるのだ。
「そのネックレス? 大切なものなんですね」
「はい。就職がきまったとき、祖母がつくってくれたんです。バッグにつけるアクセサリーなんですよ」
金具がゆるんでいる可能性があるので、ハンカチに包んで、そっとバッグのなかにしまう。
「え、すごい。手づくりなんですか」
シンプルな称賛の声にうれしくなる。
薄いピンクと緑色、そしてアクセントに深紅の石が飾られている、ホワイトゴールドのチェーン。飾りはそれぞれ、桜の花びらと若葉、それからシベの色をあらわしている。世界にひとつしかない、あたしのお守りだ。
✿
あたしは葉桜の季節――桜の薄紅が散り、新しい緑に木が包まれる四月のおわりに生まれた。
もともと桜が好きだった両親は、子どもの名前には『桜』の字をつかいたいと思っていたらしい。ただ、桜はすぐに散ってしまう儚いイメージがある。どうしたものかと考えて、最終的に『子』をつけた。
翌年また美しい花を咲かすために、
もっとも、成長したあたしがあまりにも不器用だったものだから、両親はすっかり落胆してしまったみたいだけど。
でも、近所に住んでいた祖母だけは、あたしの不器用を怒らなかった。いつでも、できなかったことではなく、できたところ、やろうとした気持ちをほめてくれた。結果ではなく、経過を見てくれた。
数年まえに目を悪くしてしまって、もうこまかい作業はできなくなってしまったけれど、ヘアピン、キーホルダー、ネックレス――誕生日やクリスマスなど、お祝いごとがあるたび、そのときどきのあたしに似合うものをつくってくれた。祖母のアクセサリーは大人になった今も、すべて大切な宝もので、お守りだった。
✿
「素敵なおばあさまですね」
「あ、す、すいません」
ほほ笑ましそうに目を細めている先生の表情を見て、ハッと我にかえる。葉桜チャームが戻ってきて、それをほめられて、つい浮かれてしまった。恥ずかしい。
なんとか話をそらそうとして、昨夜のことを思いだした。謝るなら今しかない。
「あの、きのうはすみませんでした」
「え、あ、いや、ぼくのほうこそ、変な話を聞かせてしまって」
あたふたと頭をさげる先生に、いえこちらこそと頭をさげかえせば、いやぼくこそと先生もまた謝る。そうして往復すること何度目か。どちらからともなく笑いだしてしまった。
「ひとつ、こりずによけいなこといっていいですか」
「なんですか」
笑いまじりの確認に笑いまじりでかえす。
「春川さんができそこないなら、ぼくもできそこないだと思うんです」
「……はい?」
「そもそも、人間なんてみんなできそこないです」
「えええ?」
「そう考えると、人にも自分にもやさしくなれるような気がしませんか」
いたずらっ子のような、それでいて痛みをこらえているような、なんともいえない不思議な笑顔に目を奪われる。
「春川さんは色彩センスがとてもいいです。色をつかいこなすって、じつはすごいことなんですよ?」
デッサンはうまいのに色をいれるとだいなしにしてしまうとか、色をつかえないで苦労する絵描きは案外多いのだという。先生自身もその口だったらしい。だから、色相、彩度、明度という理屈から身につけていったのだとか。
「色彩センスないし、花嫁には逃げられるし、ぼくの人生も失敗だらけです。でも、だからですかね。絵手紙の理念に惹かれたんです」
絵手紙に失敗はない。いびつでも、はみだしても、それが味になって、魅力になる。もしかしたら人間もおなじなのかもしれないと、そう思うようになったのだという。
「……すいません。また自分の話になっちゃいました」
ぼくの悪い癖です。と、先生は苦笑しながら頭をかいて顔を正面に向けた。
なんとなしにその視線を追って、あたしもまえを見る。ちょうど、駅側の入り口に立つ桜の上に月が浮かんでいた。
人間なんてみんなできそこない。けっこうな暴論のような気もするけれど、その通りかもしれない。完璧な人間なんて、きっとこの世にはいないから。かといって、あたしが不器用であることの免罪符にはならないと思うけれど。それでも、なんだかすこし気持ちが軽くなった。
夜空に月。流れる雲。ときおり風に舞い踊る無数の花びら。いくら見ていても飽きない。どれくらいそうしていたのか。ふいと思い出したように先生がこちらを見た。
「春川さん、夕飯は?」
「まだです」
「なら、一緒にどうです?」
「え」
「もうすこし、お話したいんですが。ダメですかね」
おだやかな表情にかすかな不安がにじんでいる。
「ダメでは、ないです」
「よかった」
やっぱり、この人は人たらしだ。するすると、いつのまにか心にはいりこんでいる。ホッとしたようにほほ笑む先生の顔を見て、あたしはそんなことを思っていた。
(つづく)
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