葉桜の君に 〜結〜
野森ちえこ
第1話 不器用女とフラれ男
とても、月の明るい夜だった。
きっとあの夜が、あたしたちのはじまりだった。
✿
にじむ視界のなか、はらほろと落ちてきた白い花片。無意識に伸ばした指先にはかすりもせず、コンクリートに吸い寄せられるようにへたりと着地する。人の足に踏みにじられ、黒く汚れた花片がそこかしこにへばりついているなか、落ちたばかりのそれは白く発光しているみたいだった。
宙に浮いたままの手をすごすごとひっこめる。なんの意味もない行動に、なぜだかひどくがっかりした。ショルダーバッグが肩からずり落ちそうになって、肩ひもをぎゅっと握りしめる。ため息と一緒にこぼれそうになった声をのどの奥に押し戻そうと、あたしはぐいっと顎をあげた。
月がまるい。どうりで明るいと思った。視界の隅にはいりこんだ桜花がさわさわと揺れている。見るともなしに視線を動かすと、公園の入り口に植えられたソメイヨシノがこちらを見おろしていた。
「できそこない……か」
ソメイヨシノは全個体が栽培品種の単一クローンであるため、自力で繁殖することができない。人の手によって、接ぎ木や挿し木で増やすしかない。たまたまつけたテレビでそんな話をしていた。
――自分じゃなにもできない桜のできそこない。なるほど。だからおまえは
彼――いや、元彼はそういってゲラゲラと笑った。
今にはじまったことじゃない。生まれて二十六年。なにをやっても不器用で、ボタンひとつまともにつけられない。たまご焼きひとつまともにつくれない。いくらがんばっても、いくら努力しても失敗ばかり。幼いころからグズだのダメだのいわれてきて、笑われるのもバカにされるのもいつものことだった。でも、だからって、傷つかないわけじゃない。
つきあって三年。あたしから別れ話をされるなんて思ってもみなかったのだろう。彼は目と口をぽっかりとあけて絶句していた。
あたしたちのあいだには、恋も愛もすでになかった。彼にとってのあたしは、暴言を吐いて笑ってウサを晴らして、ついでに性処理もできる道具でしかない。いつからそうなったのか、最初からそうだったのか。もうそんなことすらわからない。たしかに好きだったはずなのに、心のなかはスカスカで、今となってはその欠片すらみつけることができなかった。
まっすぐ家に帰る気になれなくて、最寄り駅のひとつ手まえで電車をおりた。フラフラとどれくらい歩いたのだろう。
夜の闇を照らす街灯と月光の白。そのなかに浮かびあがって見える紫がかった薄紅。夜桜というのは、なぜこうも妖しげなのか。じっと見つめていると、どこかべつの場所に吸いこまれていくような錯覚におちいる。
だから――
「
通りすがりの男性にいきなり名前を呼ばれて、比喩ではなくほんとうに飛びあがってしまった。たぶん、二センチくらい地面から足が離れた。その勢いのまま振りかえる。
「やっぱり、春川さんだ」
にこっと人あたりのいい笑顔を見せたその人は、先月から習いはじめた絵手紙教室の講師、
✿
二か月ほどまえ、買いものにでかけたデパートであたしの足を止めさせたのは『ヘタでいい、ヘタがいい』というキャッチコピーだった。
文房具売り場の一角で、テーブルをかこんで数名の人間が絵筆を握っていた。どうやら、買いもの客を対象に絵手紙の無料体験をやっているようだった。
なんの気なしに見ていたら、三十歳前後だろうか、講師らしき若い男性とふいに目があった。瞬間、なぜだかひどく驚いた顔をされて、その驚きかたにこちらも驚いてしまう。
ハトが豆鉄砲をくらった顔なんて見たことないけれど、きっとこういう表情なんだろうなと納得してしまうような顔で、その人は五秒ほどフリーズしていた。
やがて我にかえったのか、どこかごまかすような笑みを浮かべてこちらへやってきた。
――ご興味おありでしたら、体験していかれませんか?
なぜ驚いたのかということにはいっさいふれず――というより、なにごともなかったかのように誘われ、疑問に思っているうちにテーブルにつかされていた。
✿
絵なんて描けないし、字だってうまくない。不器用と書いて『さくらこ』と読むといわれるくらい、手先をつかう作業が苦手だった。だけど、絵手紙はそれでいいという。
形ではなく、心を描くものだから、円がゆがんでも、色がはみだしても、それが『味』になる。なにより、受けとる人のことを思いながら心をこめて描いたのであれば、その気持ちは必ず相手に伝わる。キレイでなくていい。上手でなくていい。絵手紙に『失敗』という考えかたはない。その理念に、なぜだかすこし救われたような気がした。
以来カルチャーセンターで月に二回ひらかれる、秋田先生の絵手紙教室にかようようになった。まんまと営業にのせられたわけだが、後悔はしていない。
「どうしたんです? こんなところで」
「先生こそ」
「ぼくはこの公園をつっきった先に住んでるんです」
「え」
「え?」
「あ、えーと……ここはどこです?」
秋田先生は目をぱちくりまたたかせて、それから「迷子」とつぶやいた。
不本意ではあるけれど、否定もできない。
「ここを道なりに行って、つきあたりを右にまがれば駅に出ます。女性の足だと十分くらいかな」
カルチャーセンターのある駅名を口にした先生は、自分が歩いてきた方向を指さしながらそう説明した。
ひとつ手まえでおりたのに、いつのまにか最寄り駅も通りすぎ、さらにふた駅先まで歩いていたらしい。そう理解したらなぜだか笑いがこみあげてきて、そして、笑いだしたら止まらなくなった。
先生の顔が驚きから困惑、そして心配へと変わっていく。笑いころげながら、どこか冷静に観察している自分がいた。
「春川さん、すこし座ろう」
やんわり背中を押され誘導される。デパートのときも思ったけれど、この人は物腰はやわらかいのにけっこう強引だ。
砂場とブランコがあるだけのちいさな公園の奥、ところどころペンキがはがれたアルミのベンチにあたしを座らせると、先生は「ちょっと待ってて」と駆け足で公園から出ていった。見るともなしにその背中を見送る。ベンチ脇にある、もうひとつの出入り口。そこにも桜が植えられている。
視線を空にうつせば、見あげた月がたぷたぷと揺らめいていた。まるで、水のなかから見ているみたいだ。いや、みたいじゃない。目にたまった水を通して見ているのだから、そのまんまである。
なかなかおさまらない笑いを口からこぼして、目に水をためていく。紫がかった夜の空に白い月。ときおり風に舞った桜の花弁が視界を飾る。
いったいあたしは、なにをやっているんだろう。そう思ったらふいに頭が冷えて、潮がひくように感情が遠のいていった。
ザクザクと足音が近づいてくる。
「どっちがいいですか」
月に向けていた顔をおろす。差しだされた先生の手には小容量のペットボトルが二本。ココアとミルクティーが握られていた。
お礼をいってミルクティーを受けとる。ホットなのがうれしかった。寒いというほどではないけれど、夜の風はまだひんやりしている。
ひとりぶんくらいのすきまをあけて、先生がとなりに腰をおろした。
今、何時くらいだろう。ときおりどこからか車の走行音が聞こえてくるくらいで、周囲は静まりかえっている。
ペットボトルのキャップをあけてココアに口をつけた先生は「甘っ」と顔をしかめた。どこか気の抜けた表情は、教室で見る顔とはすこしちがって見える。
「甘いの、ダメなんですか」
「そういうわけではないんですが、想像以上に甘かったです」
あたたかなペットボトル。あたしもキャップをあけて口にふくんだ。ミルクティーもとろりと甘い。
「あのとき、なんで驚いたんですか?」
「あのとき?」
自分でもとうとつだなと思いながら、つくろうのも面倒でそのままつづけた。ずっと、気になっていたのだ。こんなことでもないと、なかなか聞く機会がない。
「デパートの体験コーナーで」
「ああ……」
先生はもうひと口ココアを飲んで、ゆるりと視線を空に向けた。
「むかしの、恋人に似てたんです」
たずねたことをすこし後悔する。なんというか、思いのほかリアクションしづらい理由だった。しかし今からとり消すわけにもいかない。
「そんなに似てたんですか」
「と思ったんですけど、近くで見たらぜんぜんちがいました。おそらく、服装と髪型、あと背格好が近かったせいだと思います」
先生は空を見あげたままちいさく苦笑する。
「結婚式当日にね、逃げられたんです」
さらりと告げられたその過去に、あたしの口からは「は」とか「え」とか「う」とか、言葉にならない音がもれた。
「ドラマや映画ではよくある展開ですけど、まさか自分の身にふりかかるとは思ってなかったので驚きました」
ほかに好きな男ができた。最後の最後までその事実をいいだせなかった先生の元恋人――いや、元婚約者は、当日になって新しい男と行方をくらませた。四年ほどまえの話だという。
それであのハトが豆鉄砲顔だったのか。
「ぼくも聞いていいですか」
ああ、もしかして――と、思う。
「話したくなければ無理にとはいいませんが」
元恋人に似ていたというだけでよかったのに、わざわざ結婚式のことまで話したのは、あたしが話しやすい空気をつくるためだったのだろうか。人の心をひらかせるには自分から――というような。
「先生は、人たらしですね」
「え」
いったん甘えてしまったら、きっとどこまでも甘えてしまう。この人には、それをゆるしてくれそうな雰囲気がある。今のあたしに、そのやさしさは毒だ。
「大丈夫です」
まだ半分以上残っているペットボトルのキャップをしめて膝に置いていたショルダーバッグにつっこむ。
「モラハラ彼氏にできそこないっていわれて、積もった塵が限界を超えてしまったのでお別れしてきただけです。ミルクティーごちそうさまでした」
ベンチから立ちあがると同時にぺこりと頭をさげてきびすをかえす。先生の呼びとめる声を振りきって、あたしは駅まで走った。
(つづく)
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