6章 花の里
第53話 終幕 秋の風
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山の秋は里よりも早い。色づき始めた広葉樹を遠くに眺めると、遠い昔から少しも変わらぬ風景が時を止めたように目に映った。
仙里は傍らに咲く一輪の花を摘んで秋の青空に浮かべた。
腰掛ける小岩を取り囲むようにして紅色のヒナゲシが咲き誇る。そこにはかつて見られた朱に黒斑をもつ花の姿はなかった。ただの花が揚々と天を向いて咲き誇っていた。
黒髪の少女が、野に一面の花畑の中からこちらに向かって手を振る。
――これで黒の物語も終いか。
仙里は眉をそっと持ち上げ黒鬼の娘の笑顔を見つめた。
「仙里様、あなた様はこれからどうなさるおつもりですか?」
鬼屋敷笛が短髪を踊らせながら近付いて来て尋ねた。
「さあな」
仙里は昔見た幼子の破顔する顔と笛の笑顔を重ねて見ていた。
それは化け物である自分にはそぐわない心持ちであったが、何故だか今は嫌な気持ちにはならなかった。母の心というものは、もしかしたらこういうものかもしれないとさえ思えた。
「何故に笑っておられるのですか?」
「なんでもない。ただ、色々あったな、と思ってな」
笑顔を取り繕うとその時、悲しげな琵琶の音色がどこからともなく聞こえてきた。
笛は不思議そうに首を傾げながら音のする方へ振り向いた。
「……あれは?」
「そう言えば、今日は珍しい客が来ていたな」
「物悲しい音色、鎮魂の調べでしょうか」
「ただの感傷だろう」
「黄櫨様に縁ある者ですか? 仙里様はご存じで?」
「面識は無い。だが知っている。あれは酒呑童子の血筋、鬼怒川の頭首だ」
「……鬼怒川、ああ、茜さんのお父上」
野に秋風が吹くと琵琶の調べに花がそよいだ。
「結局、雨音女とは何だったのでしょう」
笛がポツリと呟く。
「ただの契約だよ、あんなものには何の値打ちも無い」
「仙里様にそれを言われると、ちょっとガッカリです」
残念そうに肩を落とす笛を見て呆れる。雨恋の話に夢を見すぎなのだと諭した。確かに気脈を繋げば相手の意図を感じ取ることが出来る。それは便利と言えば便利だが、だからといって良いことかどうかは分からない。
「相手の気持ちが分かるというのは、悪いことではないのでは?」
「時と場合による」
「そうなのでしょうか? 愛する人の心の内を知りたいと思うのが恋心なのでは?」
笛は眉をちょこんと上げて悪戯な笑みを浮かべた。
「お前は、知りたいのか?」
質問に質問を返した。気脈を通じる仙里である。既に蒼樹ハルの気持ちには気付いていた。彼は煩いほどに恋心を語る。そのことを嫌だとは思わないが……。
「うーん、どうでしょう。知りたいけど、怖い気もしますね」
「好いているのだろう? あの馬鹿の事を」
ふと思いついて尋ねてみた。
「そうですね。私は多分、彼のことが好きなのだと思います。でも彼の心の向きはもう知っているし、無理に自分の気持ちを押しつけることもしたくない。それでは同じになってしまう」
暗に偲化や雨の女達のことを言っているのだろう、そこには同意が出来た。
「笛よ、太刀もあの馬鹿と契約を結んでいるが、さりとてあの者らも無碍に主の心を読んではおらぬのだよ」
「そうなのですか? ハルは愚痴っていましたよ。綺羅は僕の心を読みすぎるって」
「それは汲み取っているに過ぎない」
「汲み取る?」
「知りすぎるのも味気ないことなのだよ。知らないからこそ、分からないからこそ、相手を気遣い、思いやれるというものだよ」
「そういうものですか」笛は空を見上げた。その後、思いを馳せるようにして青空に尋ねる。「黄櫨さま、あなたはどのように思っていたのでしょうか」
笛の独り言を聞きながら黄櫨の思惑について考えた。仙里は黄櫨の行いを見ていた。いや、教訓として見せられていたと言うべきか……。
一時、逡巡する。抱く不気味な予感と黄櫨の真意をこの娘に伝えるべきか否か迷った。
「笛よ、此度のことをどう思う」
結局、仙里は話し出した。
「黄櫨様の思惑は満願成就した。雨様の遺言については分からずじまいでしたが、それでも、思い残すことは無いといって彼女はこの世を去りました。それで良かったのだと思います」
「本当に、雨の遺言は履行されたと思うのか?」
「――え?」
「私はそうは思わぬのだがな」
視線を送ると笛は苦々しく笑う。
「一連の出来事において何か違和感はなかったか?」
仙里は琵琶の音色の方に視線を向けて話し始めた。
「……どういうことですか?」
「何もかもが、都合が良すぎやしないかと思ってな」
直ぐに意を汲んだのだろう笛が表情を曇らせた。そんな彼女に、これで終わりではないかもしれないと告げる。それはこれまで思いも寄らなかった考えであった。仙里は不穏当な思いを胸に抱いていた。
まず、あの日、あのグラウンドに全ての役者が集まったことが出来過ぎである。果たしてこれは黄櫨一人で成し得たことなのだろうか。勿論、驟雨が手助けしていたことも知っているが、それでもあそこに瀧落や笛、揚羽までもが居合わせる道理がわからない。
「田原藤十郎殿は天の配剤と……」
「だとすれば、それはとても都合の良い配剤だな」
皮肉交じりに話して仙里は思う。笛よ、お前を導いたのは父であるが、その父親はいったい誰に何を聞いていたのだろうか。
「お前の父親は、朱の花畑を見つめながら憂えていた。一心に我が子のことを案じていた。そんな父親が、果たして事の発端に娘を差し向けるだろうか? しかも、身体を喪失させてなお、異界へ導くなどという危険な路へ誘うだろうか」
揚羽を舞台に誘導する手段とするならば分かりやすいのだがな、と仙里は付け加えた。その後、仙里は次々と思いつくまま疑問を言葉に変えた。藤十郎の動きも、偲化が異界に姿を現したのも、茜や破笠までもが都合良く異界に旅立ったのにも疑問を感じる。そもそも、冨夜がご丁寧に茜と破笠を連れて動いていたことが気に入らない。それは妖魚の暴走から二人を守ったと言えなくもない。
「笛よ、此度、緋花が歴々の娘達の遺恨を晴らした。それは如何なる者の差し金と思うか?」
言うなり考え込んでいた笛がハッと目を見開いた。どこか思い当たる節があるのだろう。
「茜さんは、鬼面に心を宿らせていた。……その茜さんは、緋花により心と身体を分けてもらったと話していた」
「そうだ。ならば鬼怒川茜になっていた緋花は、どこでなにをしていた? そもそも、あの緋花は誰によって式となっていたのか。尚仁では無いぞ、無論、黄櫨でも無い」
「――あの場にいたのは、雨一族の頭首と、蒼樹ハル、黄櫨様、揚羽に雨声に私。確かに、彼女はどのようにしてあそこに? そういえば、黄櫨様は揚羽の最後に驚かなかった……」
まるで全てを承知していたようだった。笛は思い出すようにしながら語った。
「全てを、あの馬鹿ハルに委ねていたようでそうでは無い、かもしれない」
「誰かがということですか? でも……果たしてこのようなことを仕組むなど出来るのでしょうか? このような偶然と偶然を掛け合わせるようなことを」
笛が唸るように考え込む。仙里は、今は敵でなくて良かったと心底思いながら琵琶の音色に視線を向けた。この時、仙里の心には漣が立っていた。取り越し苦労であれば、それに越したことはない。だが……。
よもや、蒼樹ハルの家族が死んだ事件に絡んでいるということもあるまいが。――万が一にも朱の一族が裏で糸を引いていたとしたら……闇は更に深い。
「ともかく笛よ、これで終わったと気を抜くな」
「……はい」
笛はどこか釈然としない様子だった。仙里はこれ以上は余計な事として話を止めた。
――いずれ正体を見極めるときが来よう。
あれは異界の王さえ動かしてしまう程の男だ。そんな男が娘を蒼樹ハルに近づけて何を企んでいるのか。
「笛よ、先程、私にこれからを聞いたが」
「はい」
「私は、思うままに生きる。だからお前も思うままに生きろ。もう雨音女などいないと思えばいい。秋霖は月桂ただ一人にしか名を与えられなかったが、蒼樹ハルは違う。私ばかりか二刀に名を与え、竜までも従えた。あれはその事の重大さを理解せぬ馬鹿だ。その馬鹿に付き合って生きていく覚悟があるのならば、お前の好きにすればよい。気の向くままにやればよい」
恋心というものは止めようもなく、再び集う者達の思いは交差するだろう。願わくば、誰もが黄櫨のように嫉妬に身を焦がすことがないようにと願う。
――事の発端である秋霖の情。
雨は娘を想った。娘はその心を知ろうとせずに恨んだ。憐れである。
雨の願いは推して知るべし、それは娘の幸せだったのではないか。遺言には雨の後継指名などは書かれておらず、ただただ娘の幸を後世に託した言葉が並べられていたのではないのか。
「仙里様」
「なんだ」
「私、思うのですが」息を詰めたように前置きして笛は話し出した。「黄櫨様が行ったことは、おそらく復讐だったのではないかと」
「ほう」
仙里も同じ事を考えていた。
「潮の子を消し、姉の子を消した。黄櫨様は思い人の願いを最後の最後に潰えさせた。彼女は千三百年も待って思いを成就させた」
黄櫨はまさに翹望を掴んだのだと笛は話す。
「首を長くして復讐の時を待つ。女の執念とは恐ろしいな」
「そうですね。でも、彼女の思いは、復讐と、それだけでは無かったように思えるのです」
「それは?」
「愛する人を穢したくなかった。雨の英雄譚を穢したくなかった。故に自らの手で醜い遺恨を片付けようと考えた」
「なるほどな、分からぬでもないな」
黄櫨の愛情を恨み言のように語るのは容易い。だが、復讐を執念のみで貫き通せるかといえばどうだろう。やはりそこには相手を愛おしく思う心があったと考える方が分かりよいかも知れない。いや、そうあって欲しいものだと思う。
「ところで、蒼樹ハルはどうしている?」
仙里は尋ねた。
「夏休みの宿題を手つかずのまま二学期を迎えて、補習をさせられています」
笛が無邪気な笑顔を見せた。仙里はやれやれと首を振る。そこで、ようやく何事もない日常が戻ってきたことに思い至った。
「仙里様」
「なんだ」
「未来が、過去と同じようになるとは限りませんよ」
「そうだな」
この娘は強い。胸を張る笛を見て仙里はそっと目を伏せ笑んだ。歴史は繰り返すというが、執着の愚かしさを知る彼女ならば同じ轍は踏むまい。それは蒼樹ハルにしても同じ事が言えよう。馬鹿だがあれには心がある。仙里は軽く息をついて再び遠く景色を眺めた。
――今は案じても詮無きことか。
涼やかな秋の風に銀の髪がなびく。遠く空の向こうを見上げる笛の横で、仙里も未来を見つめた。始まったなら付き合うしかあるまい。仙里は笛の微笑みを見て決意を新たにした。
秋の風に物悲しい琵琶の音色が乗る。
秋が来れば次に必ず冬が来る。だが春もまた然り。今はもう、花畑を見ても悲壮はない。面白い、と心を躍らせるだけである。
―― 完 ――
妖怪に恋した僕と英雄譚② ー黒蝶の翹望ー 楠 冬野 @Toya-Kusunoki
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