9.

「ギターを弾いていると、だんだん左手が右手よりも大きくなってくるんだよ」

 身振り手振りを交えて蜂谷先輩に語られると、酒で火照った身体の背筋に冷水が垂れたような感触がした。

 大学内にいくつもある軽音楽サークルのひとつに所属していた。僕はまだ入るとは決めていない。音楽のことはわからないけどギターだけは持っているという話をして、面白いと言ってくれたのが蜂谷先輩だった。大学のすぐそばにある飲み屋街の、一品300円で注文できる中華料理屋の二階席で、僕らは向かい合っていた。

「ギターはこう、左手でネックを持つだろ? 弦を抑えるのに力を込めているうちに、左の手が緊張して発達するらしいんだ。右手は逆に力は抜いておかないと狙いが定まらない。左利きのギターはまた違うらしいけど、左利きの人でも右利きのギターで弾き始める人が多いよ。ほとんどのギターが右利き用に作られているから。喬也くんは?」

「右利きです」

 右手でアルミの箸を持ち、開いて閉じてを繰り返す。蜂谷先輩は頷いてくれた。気が付いたら僕も頷き返していた。

「でも、僕は右手が短くなったんです。それに、まだギターを手に入れる前でした」

「ふうん、そんなこともあるのか」

 すでにエビのいなくなったエビチリのソースを蜂谷先輩はつついていた。この人はお酒に弱いのかもしれない。僕の頼んだジンジャーエールもすでに何度か口をつけられていた。辛口のジンジャーエールをのむたびに、先輩はおいしそうに溜息をもらしていた。

「まあ、ギターを弾けってことなんだよ。きっと」

 店を出るころには、蜂谷先輩に肩を貸していた。ふらついてはいるけれど、ギターのことは教えてくれると確約してもらえた。これであのギターが無駄にならなくてすむ。蜂谷先輩の介抱役になるくらいの代償なら、よろこんで受け入れようと思った。

 六畳間の片隅に、ギターは長らく横たわっていた。背負っておけるバッグタイプのケースなのに、まるで意味をなしていなかった。生活をしているうちにほこりが舞い落ちていたらしく、開く前に全体的に払っておく必要があった。取り出して、教本をで開きながら持ち方を確認する。左手がネックを持ち、ポジションを抑えていく。力が入る。蜂谷先輩の言ったとおりだったけれど、これで左手と右手に明確な差が出るとはまだ思えなかった。よほど練習しないといけないのかもしれない。兄がこのギターを使って練習していたということは、その右手はもしかしたら僕と変わらない大きさだったのだろうか。

 他大との交流もあるというから、そのうちどこかで兄の大学と鉢合わせするかもしれない。そうなると、兄よりも先に梓川さんと会う可能性がある。だいぶ日数は経ったけれど、気まずいことには変わらない。兄のギターはここにある。あの人はもう新しいギターを買ったのだろうか。もうやめてしまったりしていないだろうか。

 コード表を見ているはずの視線に、気が付いたら梓川さんの影がちらついてきて、一旦ギターを置いて深呼吸をした。お腹の奥に空気を送るイメージをして、口をすぼめて少しずつ吐き出していく。僕の部屋にはテレビはないから、ギターの弦はよく響いた。最初こそ、隣の部屋から怒られはしないかと心配だったけれど、今のところ何もされていなかった。

 コードを見て、左手で抑え、右手で弦を弾く。振幅した音が部屋に広がる。それをいくらか繰り返した。指を動かすと音が変わっていく。ぎこちないと自分で思いながら、少しずつ進んでいく。

 兄は何かを学ぶことがとても苦手な人だった。苦手な自分を他人に見せることさえも厭わしいようだった。綿と向かって指摘すると、絶対に不貞腐れて心閉ざされる。だから、搦め手で近づく必要があった。こっそりコツを教えたり、無理な姿勢を治してあげたり。口下手な兄を相手に、僕はうまくやっていた。兄弟仲が平穏であるように保ってきた。今まで、そのように信じていた。



   〇



 ある日、ゴミ袋を持って外に出たら、隣の部屋で暮らしている女性が部屋に戻ってくるところだった。眠たげな眼が、赤い縁の大きな眼鏡の中でまどろんでいた。

「ギター、また始めたんですね」

 軽く頭を下げたところで、女性から言われた。一瞬言葉に詰まった。

「うるさかったですか? すいません」

「ううん、全然。小さいよ。私がギターの音を好きなだけ」

 そういって、女性は部屋に入っていった。閉じ際に振られた手に、僕も小さく振り返していた。僕を兄だと思っているのだろう。それを改めれば、余計な詮索をされそうだったので、そのままゴミ袋を指定の場所に置いた。だんだん穏やかさを失いつつある夏の朝日がまぶしかった。

 その日の夜、いつもの練習の前に、ひとつの想像をした。

 自分の部屋の中で、兄はあの教本を使っていたのだろう。コード表を見て、指先を確認しながら音を紡いでいく。そこには誰もいない。兄のことをそしる者もいなかったし、コツを教えてくれる人もいなかった。その環境で練習を続けた。気のすむまでやりたいことをして、のめり込んで、ギターを貸せるほどの友人を作ることができた。その想像は喜ばしかった。そして同時に寂しくもあった。いくら考えても、喜びと寂しさはひとつにならずにせめぎ合っていて、日付が変わる前にようやくギターの弦を弾いた。いつもよりも力が入って、左腕についた弦のあとはしばらく消えてくれなかった。



   〇



『画像は処分しておいたよ』

 夏の終わりのころに、波野さんから電話で連絡を受けた。自分がどのように答えていたのかも忘れていて、まずそのことをわびた。正直だねと波野さんは笑っているようだった。

『でもね、決して悪いものではないって言われたの。本当はそのときに君にもう一度確かめるべきだったんだろうけど、結構遠いところだったから、君との約束を守ることにした。ごめんね』

「いや、それでいいと思う」

 僕の右手が前のものと同じなのかどうか。次第に興味も薄れてきた。僕の身体は少しずつ変わっているのだ。昨日弾けなかったフレーズが、今日は捉えられたりする。

「良かった。それじゃあ、お元気で」

 波野さんとはそれっきりだ。大きな事件も何もなく、今は関わりがなくなった。また適当に、学校の周りを歩いていたら出くわすかもしれない。そのときにまたカメラを向けられてもいいようにしておこう。無理のない笑顔が作れるように。どうやったらいいのかわからないけれど、たぶん必要なのは練習だ。少しずつ、自分を変えていけばいいのだろう。



   〇



 自分の大学での生活が固まってくると、兄の通っていた大学のことは頭から遠ざかっていった。陸上部は相変わらず駅前の坂道を活用していて、それをわざわざ迂回するほどの繊細さも僕は失い始めていた。夏らしい景色や暑さが薄らいで、低気圧とともに木々が色づいてきた。

 梓川さんと再会したのは、遅めの衣替えを終えて、新しいコートでも買おうかと、外に出ようとした直後だった。そうでなければ、インターフォンを押されてすぐに玄関を開くことはできなかったし、梓川さんのあの見開いた目を見て懐かしく思うこともなかった。

「この近くに、友人が引っ越してきたの。一泊して、その帰りなんだ」

 眠たげな眼をこすりながら、梓川さんは笑っていた。

「兄のことを思い出したんですか?」

「するどいね」

 そうして久しぶりに、僕らは二人並んで歩いた。

 駅までの短い道では、イチョウの葉が絶えず舞い落ちていた。

「もう半年も経つんだね」

 梓川さんが呟いた。あのときは冬の終わりの枯葉が転がっていた。季節は廻り、イチョウの葉も、枝から落ちたときから枯れ死に始めている。

「何度も押しかけて、迷惑だった?」

「そんなことはないですよ」

「私は手に触りたかっただけなのに?」

 頷いた僕の姿を梓川さんは流し目で見ていた。瞳どうしを交わし合って、言葉にせずに会話は続いた。

「最近は違和感もなくなりましたよ」

 僕は右手を見下ろした。梓川さんの左手の横で、どこにもすがりつかないまま揺れている。僕の歩きやすいように、右手はただそこにある。

「ギターを弾いているからですかね」

「うん?」

「ギターを弾いていると左手が右手よりも長くなるんです。だから、左右で差があっても気にならない」

「そうなの?」

「ご存じないんですか?」

「初めて聞いた。ギター弾かないからなあ」

 僕が足を止めて、半歩先で梓川さんも止めて、僕を振り返った。合間の風はすっかり冬の顔をしていた。

「あのギターは弾くためだったんじゃないんですか」

「ううん。背負った姿をモデルにされただけだよ」

 絵を描く友人がいて、自分はそのモデルになっていた。ギターを抱えた梓の油絵は、夏に行われた校内の展覧会で展示されて、それなりに評価された。面白かった映画のストーリーをそらんじるように、梓川さんは目を光らせて語った。話し方がうまいので、次第に盛り上がってきて、僕らは自然と往来を避けて、広場の中に入っていった。砂場のそばで子どもたちがスケボーで遊んでいる。ゴロゴロと砂利を弾ませていく音が鳴っている。

「僕はもっと梓川さんに興味を抱くべきでしたね」

 話が終わってから僕は、ため息交じりに口にした。率直な感想だった。梓川さんはひとしきり笑ってから、それはそうだよと真顔で頷いた。

「ここからはもう大丈夫だね」

 梓川さんは大通りの先にそびえたっている駅を指して言った。久しぶりに明るい声を聞けたことに、僕は思いのほか安堵していた。

「お元気で」

 少し迷ってから、僕は右手を差し出した。梓川さんは手と僕を見比べてから、間をおいて握り返した。ふっと、その吐息を感じた。

「君の手だ」

 僕らは交わした手をお互いに振り合った。駅に向かう梓川さんをしばらく見ていて、寒さを感じたので、来た道を帰ることにした。道の途中でスマホが震え、梓川さんのアイコンを久しぶりに表示してくれた。

『寛也さんが戻ってきたら、教えてね』

 はい。短い返事を送り、かじかみ始めた手を見て、コートを買うことを思い出した。駅前の商店街が目的地。梓川さんはもう見えない。けれどこの道の先にまだいるような気がする。そして今度見えたときには、隣に兄がいるような気がした。もう僕の右手には兄はいないのだ。それくらいの嬉しい未来は、想像してもいいだろう。

 それから僕は気の済むまで、自分に似合うコートを探した。

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左手よりも短い右手 泉宮糾一 @yunomiss

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