8.

 暦は人間が勝手に決めたものなのに、五月になると陽射しが途端に強くなった。湿度もあって、歩いているだけでもうっすら汗ばんでくる。目の前で日傘をさしていた人が脇に逸れて視界が開け、橋の袂で佇んでいる梓川さんが見えた。

「遅くなりました」

「まだ十分前だよ」

 オーバーオールの裾がひるがえる。そういえば僕の部屋に来るときも、梓川さんは時間ぴったりにやってきていた。少し早めにたどり着いていて、定刻になったらインターフォンを押していたのかもしれない。

「今日は一日よろしくね」

 梓川さんが手を差し出してくれる。僕が差し出したのは当然右腕だった。梓川さんが求めているこの右腕が、僕らをつなぎとめている。

 外に出てみようと言ったのは梓川さんからだった。アパートのそばに出るだけでも目的は果たせるけれど、せっかくならと一日歩き回ることにした。だまし絵の展覧会をしている美術館のチケットだけは予約してあった。橋から歩いてすぐに、ビルの合間に寝そべるドーム状の建物が見えてきて、血色のよい男が看板の中で手招きしていた。近づいてみたら本の集合体だった。展示作品の一部らしかった。

 歩いているうちに、梓川さんの手が僕の右腕に組まれていた。最初は手のひらだけだったのが、少しずつ上腕に食い込んでいった。だまし絵は驚きこそすれど絵であって、動いて驚かせたりはしないのに、梓川さんは絵に出くわすたびに小さく息をのみ、そのたびに腕をひしとつかんだ。驚きやすい人だということはもう知っている。しかし今日初めて疑念を抱いた。この驚き方は癖のようなもので、実際にはそこまででもないのではないだろうか。腕が解かれたのは展覧会が終わったあとだ。最後のあれすごかったよね。呼びかけられる。確か大きな何か、折り紙のようなものだったと思う。うん、あれはすごかった。あれがいったいなんだったのか思い出せない。喉が渇いたので、美術館の中にある小さな美術館で休憩をした。コーヒーはブラックのはずなのに甘い香りを感じた。

 波野さんに写真を見せられたのは先週のことで、まだ頭の中から消えていなかった。今ここで写真を撮ったら、あの右手が映っているのかもしれない。今の僕の右腕は、テーブルの上で梓川さんの人差し指と中指に絡みつかれていた。梓川自身は左手でスマートフォンを操作していた。指先の動きが滑らかで、音もなくすべっていく。

 梓川さんにとって必要なのは、今の僕の右腕だ。関節のふくらみをたどっていく梓川さんの指先は慣れ親しんだ道を歩んでいるかのように迷いがなく気負いもない。梓川さんと兄の間で交わされていた会話も出来事も僕は知らない。それでいいと思っていた。あの画像を見るときまでは。

「兄は被災したと思われます」

 言ってしまってから、しばらく息が吸えなかった。吸おうとしなかったんだと思う。

 お昼時が近づいているカフェはにぎやかに音が飛び交って活気がある。そのにぎわいから僕と梓川さんのテーブルだけが隔離された。音は僕らを通り抜けていく。冷房が涼しすぎると思った。梓川さんの指が初めて僕の指から離れた。

「兄はフィリピンでのボランティア活動に参加していました。冬に地震がありましたよね。あの津波のあとから連絡がつかないんです。領事館の人からの連絡も待っているのですが、望ましい答えは得られていません。被災したのかどうか、はっきりわからない以上は報道もできません。憶測では語れないのだと思います」

「領事館の人が言ったの?」

 梓川さんは自分のカップを手に取って、質問してから口に近づけた。僕から見えない角度で、冷め始めていたカフェオレが少しずつ減っていく。甘さはカフェオレからだったんだ。当たり前の結論は思考をわずかに乱したけれど、僕の口は止まらなかった。

「僕の憶測です。領事館の人は、答えられないとしか言えません」

 生きているか死んでいるか。それが問題で、答えられない限り終わらない。

「そう」

 テーブルに再び置かれたカップはすっかり空になっていて、色を残したしずくが縁にかすかに残っていた。梓川さんの指は行き場をなくして、桜色をした爪の先でカップを叩いていた。

「やっぱりそうだったんだ」

「知っていたんですか」

 思いのほか強い声が出た。

「興味があるって言っていたのは覚えている。本当に行ったのかはわからなかった。それを教えてもらう前に会えなくなったから。いつもそうだよ。近づこうとしても遠ざかってしまう。それは寛也さんの癖なのかな。人のことを信じてくれないのよ。海の向こうの人のことは救いたいと思うのに、手を伸ばしたら触れられる距離の人のことは見てくれない」

 梓川さんは僕を見ないまま落ち葉のような軽やかさでしゃべり続け、一呼吸おいて空のコップを脇にどかした。気づいたときにはその椅子が地面を引き、傷つけるように音を立てた。

「君、やっぱりその服は似合ってないよ」

「喬也です」

 とっさに訂正をした。まるですがっているようだと思ってしまった。梓川さんは笑っていた。今まで見ていたどの笑顔よりも本当の彼女らしかった。

「ごめんね、喬也くん。今日は楽しかった。寛也さんが戻ってくるといいね。私も願っているからね」

 去っていく梓川さんを止めることは僕にはできなかった。机に置かれた右手だけが指を震わせていた。僕をめぐるどの血液よりも、右手に集まるそれに熱がこもっているようだった。しかしどれだけ爪を突き立てても、テーブルには傷一つつかない。会計を呼んで、梓川さんが僕の分まで払ってくれたことを知った。ロビーにも出口にも彼女の姿は見当たらなかった。連絡を取ろうとして、メッセージはエラーで戻ってくる。僕は彼女の住所を知らない。絶たれるときは一方的だ。

「ごめんな」

 僕の意思が通じる左手で、いまだに震えている右手をなだめた。



   〇

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る