7.
「少し話がしたいのだけど」
波野さんが声を掛けてきたのは、授業が終わったばかりの、教室にまだざわめきが残っているときだった。手を添えていたからか、小声だったのに僕の耳にはしっかりと聞き取れた。聞き逃したとは言えないほどだった。
次のコマに授業がないことを伝えると、波野さんに誘われて後ろをついていった。同じころに授業の終わった学生たちが銘々教室から歩き出して構内を交錯している。波野さんのパーカーは白く目立っているけれど、人かげに埋もれたら見分けようがない。道行く人を押して歩くくらいの無理はしなければならなかった。
たどりついた部屋は写真部の部室だった。長机とデスクトップの薄型パソコンが整然と並んでいた。壁付けに五段の幅広い本棚が並んでおり、その縁に沿うようにして印刷された写真が貼り付けられていた。年季がいった大型のプリンターや、中央にある長机で幅を取られ、少し体を傾けながら、波野さんが示した椅子に座った。コーヒーと紅茶を進められ、紅茶を選ぶとクーラーボックスからペットボトルがそのまま差し出された。斬新だったけれど、これから何を言われるのか全くわからないのが不安で、笑う余裕がなかった。
「こういうものが撮れたとき、うちではきちんと説明をするんだ」
そういって、波野さんは黒いファイルから一枚のA4用紙を取り出した。カラー印刷された画像の中には僕がいる。入学したばかりの頃に、波野さんと出会ったテラスだ。僕は左手でピースをしている。笑ってはいるけれど、ぎこちない顔であることがはっきりとわかる。
「これが、なに?」
印刷されるような顔じゃないと、抗議するつもりで聞いた。波野さんは神妙な顔を崩さなかった。
「ここよ」
波野さんの指が画像の中の僕を示す。脇に垂れさがったままの右手だ。言われてみると確かに違和感があった。手というよりも折りたたまれた紙のようにも見える。拳を握ったうえで、さらに何かが覆いかぶさっている。眉根を寄せていると、波野さんが説明を加えてくれた。
「ここにもう一つ手があるの」
ああ。嘆息とともに背筋が伸びた。
「つまり心霊写真か」
「そうだと思う。喬也くん、よく撮れるの?」
「いいや。たぶん、初めて撮れた」
言葉を区切りながら、記憶をたどる。集合写真や、家族、友達との写真。何かで騒いだ記憶はない。
「そのわりには落ち着いているようだけど」
波野さんの言うことを否定できなかった。霊感はないにしろ、思い当たる節はあるのだ。
「この手は僕の右手をつつんでいる。うっすら腕が見えているから、引っ張ろうとしているのかもしれない。僕の右手をもとに戻そうとしている」
つぶやいているうちに、波野さんがパイプ椅子に腰かけて向かい側に座り、身を乗り出してきた。僕はつばを少し飲んで話をつづけた。
「僕の兄が行方不明なんだ」
兄のことを知らない波野さんが、息をのむのがわかった。話を続ける。
「兄がいなくなってから、僕の右手には違和感がある。時折この腕が兄のものなんじゃないかという気がするんだ。こうして伸ばすと、長さが違う。兄の腕の方が短かったんだ。今、この右手も、僕の左手より少し小さい」
兄のことを知らない波野さんに話すのは、思いのほか気軽だった。波野さんが真剣な顔のまま聞いてくれていたからかもしれない。兄がいないことを言って、傷つく恐れがないということもある。
「本当だ」
僕が斜めに差し出して合わせた両の掌を波野さんの視線がたどっていく。指の先でしばらく止まって、眺めていた。僕も波野さんも言葉を発しないでいて、先に口を開いたのは僕だった。
「僕の兄が、自分の腕を取り返そうとしているのかもしれないね」
非科学的な出来事への心理的ハードルを下げて考えてみると、筋は通っているのではないかと思った。波野さんは顎に指をあてて首をかしげていた。納得はしていないようだった。
「この薄い腕は、右腕みたいだよ」
波野さんの指に誘われて、画像の手を見つめる。心霊写真と怯えていたのも最初きりで、すっかり分析対象として見慣れてしまった。丸まった手のひらの親指らしき影を考えると、手の甲の節の左側に連なっている。確かに、と僕は頷いた。
「お兄さんの右手が君のと入れ替わっているのなら、右手が二つもあるのはおかしい。だからこれは別の人のもの」
どこかで授業を告げる鐘の音が聞こえてきた。窓の向こうで葉桜が揺れている。木漏れ日は僕らにも届き、輪郭の合間を踊っていた。感触も温もりもほとんどないのに、服の下では撫でられたような鳥肌が立っていた。
「つまり、僕の?」
波野さんが頷いたことで、不可思議だった想像が現実味を帯びた。今まで意識していなかったのが、僕は右手を失っていた。僕から見ることのできない世界で、僕の右手は元に戻りたがっているのだった。
「除霊するなら、お世話になっているところを教えるけれど」
それが波野さんが僕を呼んだ目的だったのだろう。せっかく本題に入ったというのに、僕は答えを先延ばしにした。自分の腕を祓ってしまったら、もう僕の右手は戻ってこないのではないか。そしてそれ以上に、兄の右手が本当に、いなくなってしまうのではないか。
僕はこの右手をどうすればいいのだろう。
部室を離れ、教室棟や図書館を歩いても、答えを見つけることはできなかった。
〇
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます