霧に消えずに残るもの

吉野奈津希(えのき)

霧の街

 この街には霧が満ちている。

 どこまで行っても霧があって、少し先の道もよく見えないものだから住民は車も自転車も使わない。学校へ行く時であっても30分歩いて通う。

 それはただの霧ではないということを知ったのは引っ越してきたばかりの時だ。


「この街ではね人は死んだら霧になるんだよ。少なくとも昔はね」


 そう最初に私に教えてくれたのは同じクラスの津城望美つしろのぞみだった。


「じゃあ、この街は死が充満しているってことなの?」 


 望美に教えられたことを真に受けた私は今まさに呼吸で体内に取り込んでいる霧を意識してしまう。


「少し違うかもね。だって、今じゃ死んだ人じゃなくても霧になっているから」

「死んだ人じゃなくても?」


 私もなるかもしれないの?

 そんな私の恐怖を察したのか望美が笑顔を私に向けて、おどけて話をする。


「気にすることないって、だってみんな変になっちゃった人だけが霧になるんだから」

「変になっちゃった人?」

「そうだよ。昔は死んだ人だけがそういう意識、霧になれちゃう気分っていうのかな、そういう意識になっていたんだけど、今じゃみんな生きたままそういう気持ちになって、体の輪郭をなくして霧になってるの。だから聖川さんは大丈夫だよ、霧になるのを嫌がって、霧を嫌っている間は絶対に大丈夫」


 そう言って私の手を握る。急な接近にどきり、とする。霧のせいで水の中にいるような湿気具合だというのに、望美の使うコンディショナーの香りがして、自分とは違う特別なものを私は彼女に感じる。ふと、望美が私の首元を見る。


「あ、聖川さん、襟が立っちゃってるよ」

「え、うそ」

「逆、逆。直してあげるよ」


 そう言って望美が私の首元に手をやって、襟を直してくれる。中学生だというのに、145cmから中々伸びない私と違って望美は160cmぐらいあるものだから、見下ろされながら母親が子の身だしなみを整えるような形になる。

 襟を直して、望美が動きを止める。


「ねえ、聖川さん。私たち友達になりましょう」


 私の視界から見上げた望美は、霧の中だというのに太陽の光を受けて煌めいて見えた。


「美咲でいい、下の名前で」

「そう、じゃあ美咲、よろしくね。綺麗な名前だわ。本当に、素敵な名前」


 私は、この街でどうしてよいかわからず、友達もいない。それで自分から話しかけられないものだから、引っ越したばかりで誰も顔見知りがいないこの街で、明るくて、私よりもずっと綺麗な望美がそう言ってくれたことが嬉しくて、声も出せずに頷くばかりだった。


「ありがとう美咲、私たち、霧になんてつまらない存在にならない、特別な存在のままで、ずっと友達でいましょうね。ずっと、ずっと」


 そう話したのが記憶の中で望美との最初の会話。この街へ引っ越してきた私をつれて、校舎裏で望美が話して、私に教えてくれた最初のこと。

 友達もいない、人ともうまく付き合えない、そんな何もない私がここでまた、引越しを機にやり直せる。そう思った時のこと。


▽▽▽


 今日も外では霧が満ちている。この街は何も変わらない。

 身支度をして、自分の部屋を出て階段を降りて居間へと向かう。部屋の中にも霧がちらりと見える。

 居間ではお母さんが少し透けている。


「ああ、美咲、おはよう」

「おはよう母さん」


 母さんは疲れた顔をしていて、だけど私の姿を見て少しだけ安心したようだった。

 父さんはもういない。数ヶ月前に霧になって、何処かへと消えてしまった。

 テーブルにはトーストとベーコンとオムレツが用意されている。


「いただきます」


 学校へ行く前のいつもの朝食。

 でも、それも今日までだ。

 今日は卒業式だから。


「ようやく卒業だねえ。おめでとう」


 ようやく、というところに気持ちが透けて見えるが何も言わない。母さんは疲れ切っていて、それでも私のためにこうして朝ごはんを用意してくれている。それはとても、ありがたい。


「うん。ありがとう」

「先に行っていて、後で私も学校に行くからね」

「うん。ごちそうさま」


 そう言ってキッチンに食器を持って行き、カバンを持って玄関へ向かう。


「じゃあ行ってきます」


 そう言った瞬間、扉を開く前に私の視界に霧が生まれた。

 ああ、そうか。

 そう思うけれど振り返らない。


「いってきます」


 家を出る。私を送り出す声は、もう聞こえない。

 全部、今日限りだ。だって今日は卒業式なのだから。


▽▽▽


 ずっと、ずっと夢を見ている。


 私は身動きを取ろうともがくのだけど、ちっとも動くことができない。目の前の少女の取り巻きによって両手両足を抑えられ続けているからだ。

 叫ぼうとするけれどタオルを口に咥えさせられていて「んー!んー!」としか声が出ない。それでもって声を出そうとすることがわかると少女に殴られる。

 鳩尾に深々と拳が突き刺さり、ただでさえ口に咥えさせられたタオルによって口呼吸ができないものだから涙を流すことしか出来ない。


「ほら、何やってるんだよ。本題が全然まだじゃーん」


 そう言って笑う少女がいる。彼女が私の首根っこを掴む。

 視界の外でカチッ、カチッと音がする。

 白い煙と、私の好きでない甘ったるい匂いがしてきて、不快感がこみ上げるところもまできて、私はそれがタバコの煙だと理解する。

 ふぅぅぅぅぅ、と眼前に迫った彼女に煙を顔に吹きかけられる。鼻でしか呼吸が出来ないものだから、その匂いも息苦しさも十二分に感じる。


「ねえ、なんでもう泣いているわけ?私泣いていいなんて言ったっけ?」


 突如として訪れる、激痛。

 地面に押し付けられていた手の甲に踵が落とされた痛みだとわかる。


「んんんんっ、んんんん」


 何も言葉を発せない。ただ私の中の痛みを、体の外へと出したいと呻く。

 でも、それで終わりなんかじゃない。


「あのさあ、これ何かわかる?」


 ひらひらと、目の前の少女の華奢な印象とはまるで違う、無骨な工具がちらつかされる。

 ペンチだ。


「丁寧にさ、剥がしてあげるからね。赤いマニキュアみたいなもんだよ、綺麗な指にしてあげるよ。嬉しいでしょ」

「んんん」

「誰が喋っていいって言ったんだよ!」


 ガツン、という衝撃が来る。鼻が蹴られたんだ。

 呼吸が苦しくてしょうがなくなる。私は鼻血を出して呼吸もままならない。

 白く、透き通るような少女の手のひらの中で、油に塗れて薄汚れた工具が踊る。


「順番にやっていこうか」

「んんっ!」


 それが行われたことを私は即座に感じる。私の手が取り巻きによって無理やり前に差し出されるように動かされる。 


「んんんんんんっ!」

「誰が声出していいなんて言ったの」


 彼女の手の動きはゆっくりと、しかし私の感じる痛みとてつもない速度を伴って押し寄せくる。


「いちまーい」


 私は自分の指先を見ることなんて出来ない。私の手のひらに激痛と生ぬるい湿り気だけ感じる。


「にまーい」


 指先が引っ張られる感覚。私の爪が、すぐに諦めてくれれば良いのに指先から離れてくれないものだから肉を伴ってちぎれてしまう。


「さんまーい」


 それまでの引っ張るような剥がし方ではなくて、指に張り付いていた爪を垂直に剥がしあげるやり方だ。


「————!」

「あっはは、すごい顔してる。汚いなぁ。はい!ごまいめ!」


 ブチブチッ!と音がして私は片手の爪が全て剥がされたことを知る。


「今日はここまでにしておこうか。明日の楽しみも無くなっちゃうからね」


 ふぅぅぅぅ、とまた紫煙を吐いて彼女が言う。

 私は煙を避けようと顔を動かしてしまう。


「へえ」


 その動きにより一層彼女の加虐心が刺激されたようで、顔色が変わる。どこまでも、冷たい色。


「そんなに、私の煙草が嫌いなんだぁ」


 頬を掴まれる。顔を万力のような力強さで握られて、顔を目の前の少女の下へと引っ張られる。


「そんなに嫌いならさ」


 私の目の前に、赤い炎の色が見える。


「吸っていいよ」


 唇が、焼ける。煙草の火を押し付けられて、ズルズルと口紅をつけるようにスライドされる。


「んんんんん!」 


 私の口元からタンパク質の燃えた時の匂いがする。臭い匂いがす。


「あはははははは!くっさぁ!あんたってどうしようもないね!焼いてもこんなに臭いなんてとことん汚いんだよ!」


 アハハハハハ!

 そう目の前の少女が大笑いをする中で私は前のめりに地面に倒れこむ。

 目の前の少女の顔を拝もうと、意識が途切れる刹那に首を動かして上を、彼女の方を見る。

 そこで、夢が終わる。


▽▽▽


 自分の輪郭を探るように私は自分の唇に触れる。なんともない。いつも通り、生まれてきた時から、私と共に自然な成長を重ねてきた私の唇のままだ。

 指先もまた何ともない。爪もそのまましっかりと揃っている

 それはそうだ、と自嘲的な気持になる。あれは夢なのだから。

 そんな風に、今朝も見た夢を思い出しながら私は通学路を歩く。

 霧が深い。卒業式の日でもそれは変わらない。

 学校へ向かう途中に大きな川があって、そこに掛けられた橋を渡る。

 まだ霧が今ほどひどくない頃は車も走っていた橋だったらしいけど、その名残はもう歩道と車道の区分け程度しか残っていない。

 橋の真ん中で、川を見ている男性がいる。


「こんにちは」


 そのまま通り過ぎようとすると声をかけられてしまったの、反応することにする。


「こんにちは」

「卒業式かい?そんな時期だもんなぁ」

「はい、この制服を着るのも最後ですね」

「そうかぁ、そうかぁ」


 うん、うんと男性は頷く。少しして、はっとした表情になる。


「いや申し訳ない。急に声かけて不審だったね。この霧を見るとどうにも心細くなってしまうもので」

「大丈夫です」


 そう言って、それだけでは伝わらないかもな、と思って付け加える。


「その気持、少しわかるので」 


 男性はその言葉に安心したのか、言葉を続ける。


「僕の恋人や友人はね、みんなこの霧の中にいるんだ」

「多いですからね、最近は特に」

「うん、そうなんだ」


 今のこの街は、家は多いのに道を歩く人はほとんど見ない。

 私も家を出てから今日見た人はこの男性だけだった。望美が教えてくれたように、人が霧になっているからだ。

 どうして、昔は死んだ人だけが霧になるはずのこの街で、今は誰もが霧になっているんだろうか。


「どうして、みんな霧になっちゃうんだろうねえ。君は考えたことはあるかい」


 そう、彼が言う。


「ええ、ちょうど。どうしてだろうって思っていました」

「うん、そうだね。僕もそう思うよ」


 目の前の彼は今にも倒れそうな青い顔をしていた。体はやせ細っていて、もう何日も寝ずに、ろくに食べず過ごしているのかもしれない。そんな生命力のなさを感じさせた。


「僕が思うにね、霧になるのに死というのは本来重要じゃないんだよ」

「重要じゃない?」

「それまでは結果として霧になっていただけでさ、死っていうのは、誰にでも訪れることで、そこで全部終わってしまうことだからね。その時の状態というか、死んだ心持ちになったら霧になるんだと思うんだよ。霧っていうのは曖昧だから。人もまた曖昧になってしまったら霧と同じになる」

「死んだ心持ち?」

「というより、死人と同じ気持ちっていうのが正しいかな。死んだらみんな同じ、だから霧になる。でも生きていても同じ気持ちになったらそれはその人と同じってことだよ。境目が無くなるのさ。この街はある気持ちで一致したら霧になるようになっていて、それが最初は死んだ状態だけだったのが、徐々に死んでない人間にもその状態が重なってきたのだろう」

「その気持ちってどんな気持ち?」

「さぁね……と言いたいところだけど、少し分かってきた気がするよ」


 そう言って、彼は川を見る。薄靄で川の底は愚か、水面すら十分に見えないだろうに。


「たぶんね、みんな自分の形なんて保っていたくないんだ。何か、自己を確立するようなことが嫌でしょうがないっていうのかな。曖昧な、みんなになれるのならそれが一番いいと思ってるんじゃないかな。孤独でない、どこまでも緩やかで、曖昧な集団に溶け込みたいと思っている」

「……」

「人は死んだら終わりだってのはその通りだと思うよ。思考は静止する。誰とも意見を交わさないし、能動的に何かを発信しようなんて思わない。その思考って言ってしまえば単一なんだ。誰も彼も死んだら同じ思考になる。静止した思考。そうしてそれはこの街では霧となる。そして全部を覆い隠してくれる」

「自分を捨てた時、人は霧になると」

「そうだね。悲しいことだけどね」


 そう言って、彼は橋の手すりに登る。人一人立てるくらいの太さのある石造りの手すりで、そこの男性が立つともう顔の辺りは霧でちゃんと見えやしない。


「でも、今や僕にはそれが羨ましくて仕方ない」

「うらやましい?」

「恋人がいてね。彼女とはとても愛し合っていたのだけどね。さっき話したような考えも互いに伝え合っていてね、ずっと話していたよ。互いが互いのことを強く信じよう、お互いが代入可能な誰かになんてならないように、決してつまらない存在に変わってしまわないように見張っていよう、ずっとそうして愛し合っていこうって」


 でも、と彼は言う。


「彼女もまた変わってしまった。僕にとって彼女は特別だったし、他にいないかけがえのない存在だったのに、彼女は霧になってしまった。僕が行かないでくれと抱きしめて泣く中で、笑って行ってしまった」


 そう言って、見えない霧の中で男は、笑った。


「もう、こんなくだらない世界にいないで良いって笑っていたよ」


 彼は私の方を見る。


「僕はね、こんな世界は狂っていると思っていたよ」


 虚ろな笑みで両手を天に差し出した。


「誰も彼もが表面的な笑みを作って、同じような話題で笑って、何も考えないで過ごして、そんなんだから霧になってしまう。でもわかったんだ、本当に狂っていたのはさ、僕や、君の方なのさ」

「私が……」

「こんな誰も特別になれない、なろうともしない世界で、狂わない方がおかしい」


 その言葉と共に空中へと男性が身を投げる。

 落下して数秒、着水の音は聞こえない。

 彼もそうして、霧になったのだと私は知る。

 全てを包み込むほどの曖昧さで、特別ではない霧に。彼は、この街という狭い世界の中で一番正しい摂理、霧となって溶け込んでいった。


▽▽▽


 望美は私にとって、とても輝いている女の子だった。

 私に勉強を教えてくれる時であっても、教師の言葉の受け売りではなくて、自分の中で咀嚼して自分の言葉として語ってくれる。彼女に教えてもらう時は歴史などの科目は壮大な物語として私に生きた知識を与えてくれたし、数式だってパズルのような楽しみがあるということを教えてくれた。

 朝、教室に入るだけで様々な人から笑顔で声をかけられる望美を見ていた。

 授業中、誰よりも美しい板書をして、問題に答える彼女を見ていた。

 グラウンドで、しなやかに跳躍する彼女を見ていた。

 だから、わかってしまった。望美をずっと見ていたから。

 彼女が誰にでも優しくて、誰にでも私にしてくれたように特別な存在である風に振舞っていることに。

 中学二年生になったばかりの頃、後輩を連れて歩く望美を見つけた。わかっていたのに、私はそれを追ってしまう。

 一年生のまだ小学生から抜けたばかりで垢抜けない少女だ。


「この街ではね人は死んだら霧になるんだよ。少なくとも昔はね」


 そうまるで世界の真実を話すように、目の前の後輩に望美が話す。他の誰にも言っていない真実を、密かに伝えるように。


「襟が立っちゃっているよ」


 そう言って、後輩の別に乱れていない服装を、まるで乱れていたのを直すように望美は弄り回す。

 後輩は、望美のことを間近で見惚れるような表情を浮かべる。


「ねえ」


 そう、望美が言う。

 言うな、言うな、言うな、言うな、言うな、言うな。

 私は念じる。そう願う。祈る。私が覗き見ている望美が私の想像する、これからの言葉を言わないことをただ、そうではないことを、祈り続ける。


「私たち、友達になりましょう」


 後輩は、あの時私が見たきらめきを見ている。あの時私が嗅いだ、望美のコンディショナーの香りも嗅いでいる。

 私の特別が、奪われる。

 私が、特別であるということが奪われる。


 だから、不純物を取り除くことにした。

 望美を特別と思い、望美に特別にしてもらった生徒は山のようにいた。私たちはお互いがお互いのことを気づかないようにしていただけで、同じクラスにだっていた。花苗と珠江と桃子。

 私たちが自分をかろうじて特別だと思えていたのは望美と同じ学年で同じクラスだったからだ。望美の近くにいて、特別になる権利があると思っていたからだ。

 だから、私たちが協力するのなんて簡単だった。

 あの場所に、私と望美が、後輩と望美が話したあの場所で決行したのだ。

 後輩を呼び出して三人がかりで押さえつける。教室の男子に言って、好きなようにさせてしまう。盛りのついた人間の理性なんてとても脆い。目の前の、生け贄を見ると簡単に柔な理性なんて壊れてしまう。

 そんな男子の品性の下劣さや、後輩の泣きわめく声が私の心を癒してくれる。こんな醜い声を上げる存在と自分は違う存在なのだと実感できる。

 後輩の制服のスカートの裾から血が滴り落ちている。その血が地面に滲み、土と混ざって黒い跡になる。 

 私は何度も後輩を呼び出す。

 ある時はカッターの刃を後輩の口に潜ませて頬を殴った。

 ある時はカミソリで眉を剃り落として、彫刻刀で眉のあった場所を掘って赤い線へと書き換えた。

 ある時ははんだこてで溶かした針金を後輩の舌の上へと落としてやった。

 何度も、何度も、何度も、何度も、後輩を痛めつけ、苦しめ、望美から遠ざけようと暴力の限りを尽くす。一定のサイクルとなって私と望美が関わって、その合間に後輩が望美に接近して、私が後輩に暴力の限りを尽くすところまでがワンセットとなって廻っていた。

 それは福音だった。それは調和だった。あるべきものがあるべき場所に収まっているような安心感を私にもたらした。

 暴力という美しさに酔いしれた。

 後輩の前で何度も笑って、後輩の世界を呪うような私を見上げる目を見て何度も喜びに打ち震えた。幾度となく痛めつけても消えない後輩のその瞳の輝きが、望美の美しさの証左であるように感じられた。

 極め付けには夢で見たように爪を剥がし尽くして、顔を煙草で徹底的にメイクして病院送りにした。

 だから、私がそのサイクルに気を取られていて、望美が変わらず特別だと思っていて、彼女が霧になってしまうだなんて私はちっとも考えていなかったのだ。


▽▽▽


「えー、同じクラスの津城望美さんは霧になったと親御さんから連絡がありました」


 そう、教師が言った時、クラスはパニックに陥る。喪失の混乱。望美のことを神聖化していた人間がこれほど多かったのかと私は戸惑いながらも声を上げて泣く。

 どうして、どうして望美が霧になる。

 涙を流しながら周囲の生徒たちが涙と共に溶け落ちて霧へと変わっていく。

 学校の生徒たちがほとんど消えていく。

 男も女も、区別なく。

 あっという間に学校はパニックの坩堝になる。大混乱によって全てがめちゃくちゃになって、子供を失った悲しみから多くの家庭が霧へと姿を変える。

 責任と対応に追われて教師は疲れ果てて霧になる。

 みんな、みんな霧になっていった。

 世界というのは本当に巨大なジェンガのようなもので、一つの綻びで簡単に日常なんて崩れ去ってしまう。


 それなのに。

 それなのにどうしてかな、私は消えなかった。私は他の人々のように、望美の跡を追うように霧にならなかった。

 私は、霧になることが出来なかったのだ。

 望美を失ってしまったのに、私を特別にしてくれた望美が霧となって消えてしまったのに。

 私にとって望美はその程度の存在だったんだろうか?


▽▽▽


 人間が自分のことを特別な存在でないと確信するのはいつだろう。いつだってそのきっかけは些細なことだ。

 テストで100点を取れなかっただとか、お皿を落として割ってしまっただとか、大丈夫だと思って火に触れたら激痛と共に火傷してしまっただとか、そんな自分の力と自分の理想が全く違うことが訪れた時に自分は特別でないと実感する。

 私がそれを実感したのは幼稚園だった。

 本当にちょっとしたやりとりで、同じ園の児童に馬乗りになられて殴られ続ける。それは子供の力で、強くないものではあったけれど、相手への配慮などの一切ない純粋な暴力だった。

 ただただ好奇心のまま拳が振り落とされる。目に指が入る。どけようと差し出した私の手を力強く噛みつかれる。

 私はまだ幼稚園児だというのに片目の視力に支障をきたして、手を赤い血で真っ赤に染め上げて、声を上げられないような重傷を追うことになる。

 その時の私が感じたのは痛みの恐怖ではない。

 ああ、私は特別ではないんだ。

 まだ言葉も満足に理解していない時に、私はそれを理解した。

 自分が世界というものが持つ暴力性、大きな力の流れに何も抗えない存在であることを。この世界で特別な存在として生きて行くには私は力が無さすぎるということを。

 だから、そうでない特別を与えてくれた望美は私にとって蜘蛛の糸だったはずだ。

 この何者でもないまま生きなくてはいけないという地獄に垂らされた一筋の、救済の糸。

 

▽▽▽


 望美の部屋にあった日記には笑ってしまうぐらい、くだらない日常が綴られていた。学校で褒められたこと、周りがちやほやしてくれること、恋人とのこと。

 望美にとって大切なのは恋人との日常でしかなくて、私のことはその他大勢のうちの一人としてしか書かれていない。あんなに私の名前を呼んでくれたのに、私の名前は片仮名で書かれていて、私の名前なんて何とも思っていないようだった。

 素敵な名前、と言ってくれた言葉もリップサービスにすぎなかった。

 日記の中で望美は学校のことよりも恋人と学校の後に何処へ行ったかが重要だった。

 恋人とどういう会話をしたかが重要だった。

 恋人にどのように愛されていたかが重要だった。

 恋人によって自分が特別であることを信じさせられることだけが重要だった。

 でも、その日記の記述も徐々に弱まっていく。

 つまらない。

 恋人とのデートについて、そう書かれていることが増える。


 ときめかない。

 楽しくない。

 変わっちゃったのかな。

 どうしてだろう。

 冷めたのかな。

 もしかして、最初から全部つまらなかったのかな?

 あの人のことを特別な人だと思っていたけど、そんな人に愛される私も特別だと思っていたけど、もしかして彼も私も、最初からつまらない人間だったのかな?

 そこで日記は終わる。

 私にきらめきを見せて、私の人生を特別へと変えた望美の最後は、何処までもつまらない、凡人の嘆きだった。


▽▽▽


 学校へ着く。どこもかしこも霧で充満している。

 これまで辛うじて人の形を保っていた同級生たちも、卒業式の日にやってきた、という時点で霧へと変わってしまった。

 卒業というのはそれまでの自分の喪失だ。

 クラスでの自分、部活での自分、友人たちとの関係の中の自分、その定義が卒業するとわからなくなる。わからないならまだしも、自分のこと自体を見失ってしまう。もう、自分には何もないと思ってしまう。

 だから、霧になる。

 教師たちものもう霧になっているのがほとんどだ。生徒がいなければ教師は教師としての存在が成り立たず、ただの人となってしまう。

 みんな、そんな自分に耐えられなくて霧へと姿を変える。

 何もないなんて耐えられないから。誰かと同じであるということは安寧だから。それはきっと、とても幸福なことだから。


 こんな世界で狂わない方がおかしい。

 そうここに来る途中で会った人は言っていた。


 私は正気だと言うのだろうか?好き好んで後輩を暴力の坩堝に叩き落として、喜びに打ち震えていた人間が?

 それは私の知る正気とはどう考えていてもズレていた。

 だけど、何が狂っていて、何が正しいかも、もう誰もわからないのだろう。

 この世界は壊れている。

 何もかもがわからないことだらけで、何もかもが正しくなくて、きっと何もかもが正しい。

 だから、私にわかることはまだ私が霧になっていないということだけだ。

 私がどうして霧になっていないのかすら、私にはわかっていない。

 

 卒業式が始まる。

 卒業式の会場が霧で充満していて、座っている人もほとんどいない。

 もう、在校生すらいない。いずれ自分たちに訪れる終わり、未来を理解して既に霧となったのだ。誰も彼も、既に形を持っていない。

 今ここにいるのは、わずかな意識で自分を保っている教師ぐらいだろう。

 空虚なBGMが流れだす。形だけの卒業式が始まる。

 卒業証書を受け取る。学校長の式辞を聞く。

 一つ、また一つ、役割を終えるごとに教師たちは霧となって消えていく。

 私もそうなって消えていくのだろうか。望美のように。自らが信じた特別な存在が、取るに足らないつまらない凡人であったと気づいて、全てを失って消えていくんだろうか。

 卒業生の答辞の時間となる。私が壇上に上がる。もう他に卒業生はいない。

 卒業式の答辞を読む。卒業式が終わる。

 壇上を降りて、出口へ向かって歩いていく。

 もう、そこに誰もいない。

 この学校に、この街にはきっともう誰もいない。長い時間を経て、そうなった。

 どうして、そうであるのに私は出口へ向かって歩いているのだろう?

 もう、何かを照らす光と出会えるなんて思えないのに。

 この卒業式で、私も消えるものだと思っていたのに。 

 それは、この霧の外へ出ないといけないということなんだろうか。


 卒業式場を出て、最後にあの場所へ行く。

 望美と話をした、私にとって、私が特別だと思うことが出来たあの日の場所。

 そこに着いて地面に残っていた赤黒いシミを見た時、急に私は自分の特別性を実感する。私は私と望美の日々が今も変わらず特別であったことを確信する。

 それは天啓だった。

 私にとって望美との出会いも、望美との会話も、望美への想いも、望美の浅ましい行動も、それによって私が引き起こした暴力も、望美のくだらない結末も、何もかもが特別だったと確信する。

 望美が誰に対しても同じ振る舞いをしていたとしても。

 望美がどうしようもなくくだらない存在であったとしても。

 それでも、私にとってあの瞬間が唯一の物で、かけがえのないものであったことを私は実感する。


 ——ありがとう美咲、私たち、霧になんてならないでずっと友達でいましょうね。ずっと、ずっと。


 その言葉はたとえ望美がつまらない存在であったとしても、決してくだらない言葉ではなくて特別な言葉として私を照らし続けているからだ。

 どんなにたくさんの人々がその真実をくだらないと冷めてしまおうと私にとってその時の輝きは消えることのない永遠だからだ。

 だから、私は今でもまだ、人の形を保っている。

 外へ行こう、そう思う。この街の外へ。

 何処までも歩いていける気がした。

「あはははははは!」

 そう大きな声で笑った時に、フラッシュバックが訪れる。


 ——あはははははは!くっさぁ!あんたってどうしようもないね!焼いてもこんなに臭いなんてとことん汚いんだよ!

 

 どうしようもない、私の成した、私自身から生み出された暴力の記憶。

 望美の与えてくれた輝きに打ち震えていて、そんなフラッシュバックに気を取られていて、だから私は後ろから迫る人影に気づかない。

 ドスッ、と何か地面に突き立てたのかというような音がする。体に痺れるような衝撃が伝わって、少し遅れて背中に激痛が生まれたことを知る。

 後ろを見て、私は絶句する。


「望美……?」


 霧の中で、あの日の輝きをもう一度だけ見た気がした。


「何、言っているんですか」


 ナイフが更に体にねじ込まれる。苦悶の声が私から漏れ出る。

 でもそんなものは錯覚だ。霧が見せた幻だ。

 望美はいない。いるとすればそれはもう望美ではない何かとなってこの霧の中に漂っているだけだ。


「ふふふ、卒業おめでとうございます。先輩、先輩、私のこと覚えていますか?」


 私の後ろにいるのは、そう笑うのはかつての後輩だ。私が暴力の限りを尽くした生贄。

 顔は未だにズタボロで、綺麗だった唇はケロイド状だ。


「そうかぁ……あんた学校いなかったもんねえ」


 私が病院送りにしたものだから、望美が消えた時も後輩は療養中で、ずっとずっと望美のことを神格視し続けて、だから自分のこともまた特別と信じていて、それは望美のことを特別と信じ続けたということで。


「ああ、いいね、それ……」 


 だから、あの日の輝きをそこに見出してしまったんだろう。

 だから、私もこの子も霧にならずにここにいるのだろう。

 後輩が私に刺していたナイフを引きずり出す。ナイフを回されたことが激痛の中で微かに理解できる。

 私の血液と空気が混じり合い、赤黒い血が地面にこぼれ落ちる。

 後輩がナイフを何度も私の体に振り下ろして、ドスッ、ドスッ、ドスッという音が他人事のように聞こえて来る。

 地面に倒れこんでかつての私のような「あははははは!」という声が聞こえて来る。

 その瞳は私と同じかつての望美を信じた瞳で、私はなぜかとても幸せな気持ちになる。 

 望美のことを特別だと信じてくれた人が、私以外にもいるのだから。

 それは望美が特別だったということだから。

 こんな、何もかもが曖昧などうでもよくなってしまう、世界の中で、ただただ私と同じ輝きを信じている人がこんなところにいたのだから。

 卒業していく場所に、残る存在が、私が特別と信じた存在を信じて残り続けてくれているのだから。

 ああ、それは嬉しいなぁ。

 なんだかとても嬉しいことだなぁ。

 地面の血が、かつての私が散らした後輩の血の赤黒い跡と混じり合う。

 私はその跡を、透明な霧にはしたくないなぁ、と思いながら意識を手放した。


▽▽▽


【とあるゴシップ誌の記事より】

 4月19日未明、『霧の街』との通称で馴染まれる地方の街で少女が同じ中学校の三年生を殺害した容疑で逮捕された。

 少女はお昼過ぎに学校に登校し、ナイフを後ろから幾度となく突き刺し殺傷したものと考えられる。

 街にはもう『霧化現象』により住人は他に誰もいない状態で、警察は唯一の残った住民である少女の証言を丹念に聞き取っていく方針だ。

 被害者の三年生の少女の死体はこの街に『霧化現象』が起こらず、役所によって火葬される予定とのこと。〈了〉

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霧に消えずに残るもの 吉野奈津希(えのき) @enokiki003

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