Nephila Clavata~電子の海に伸びる糸~

おこげ

第1話


 午前零時。


 毎週月曜日、男はその時間を楽しみにしていた。



 男が見ているのは液晶モニターに映ったゲーム画面だ。ジャンルは格ゲー。今はオンライン接続した状態で対戦相手とのマッチングを行う前である。



 東京オリンピックと並行してeスポーツが取り上げられる機会が増えたことで、2020年の日本では再び格ゲーブームが巻き起こり多くの世代を魅了していた。


 近年、格ゲーを報道番組で見掛けない日はない。プロゲーマーをゲストに呼び、ゲーム業界、eスポーツ界、そしてプロ・アマの華やかさや厳しい実情を伺うのはどの放送局でも日常的だ。おかげでeスポーツ団体を起ち上げる一般企業は増え、多数のスポンサーが付くことになった。コーチや選手だけでなく、彼らをサポートするスタッフの教育現場も整い、日本のeスポーツ環境は世界の強豪国と並びつつあった。



 男は膝に直置きするアケコンの天板を指でコツコツ鳴らしている。まだかまだかと待ちきれない様子だ。


 彼はとあるユーザーとの対戦を心待ちにしていた。




 出逢いは今から二ヶ月ほど前に遡る。


 大手の動画投稿サイトで格ゲー動画を配信することを生業としている彼はその夜、LIVE配信を行っていた。


 配信開始からおよそ三時間。明日も平日ということもあり、視聴者数はすでに五千人を切っていた。


 そろそろ引き上げるか。

 そう思い、男が配信終了の挨拶をしていた矢先、ランキングマッチにそのユーザーは現れた。



 月曜日。

 正確には火曜日に日付が変わった午前零時のことだった。



 初めて眼にするユーザー名であったが、ランキング上位にいる男とのマッチングに引っ掛かったのだ。実力は申し分ないはず。最近芽を伸ばしてきた新生ユーザーなのだろうと思い、男は快く対戦を承諾した。


 彼は格ゲー界では世界にも名を知られる有名人だった。どこの企業団体にも属さない無所属だが歴としたプロゲーマーである。慢心しているつもりはなかったが、それでも彼は自分が負けるはずがないと考えていた。



 だが対戦が始まるや、その自信は大いに揺らぐことになる。


 非常に精緻で洗練されたプレーだった。


 強豪揃いのランキング戦では当然誰もが巧い。プライベートのほとんどの時間を費やしては技の発生フレームや硬直差などを研究し、キャラの性能を熟知している。


 それは決して容易なことではない。


 しかしながら、そこまでは誰でも到達できるいただきなのだ。大事なのはそれを操作するのが人間であるという点だ。


 初戦は男に手も足も出ずといった散々な結果だった。だがそれは情報収集のためと言わんばかりに、二戦目はまるで人が変わったかのような攻め手に転じていた。コンボの繋ぎや切り返しなど、男のクセは完全に見抜かれ、技を仕掛けるも見事に反確を取られてしまう。


 そのユーザーは恐ろしいほどの洞察力で男を追い込んでいた。


 男から飄々とした表情が剥がれ落ち、思わず息を呑む。



 しかしそこで簡単に終わってしまうほど彼もヤワじゃない。


 プロなのだ。


 往生際の悪さは誰よりも上だと自負していた。プライドなどかなぐり捨てて勝負に挑む。見せプレーなどもってのほか。どこまでも意地汚く、時間と体力のある限りしがみつく。相手が観察眼に優れているなら、こっちは精神力で迎え撃つだけだ。途中で根性、読みを読みで返す分析力、そして追い詰められて初めて本能が知らせる駆け引きカン――。


 山頂に辿り着いてもそこはゴールではない。真に目指すべきはその場所から見上げた分厚く広がった白雲の先にある。


 プログラムされたキャラの性能を最大限に引き出すだけでは駄目なのだ。眼に見える情報だけが全てではない。巧いだけで勝てるなら誰でもプロになれる。


 プロとアマとに敷かれる境界――そこにあるのは途方もない知識量と経験値、そして並々ならぬ体力と精神力だ。


 理屈では通用しない。それがスポーツである。


 気付けば視聴者の数は対戦前の数倍にまで膨れ上がっていた。多くの視聴者がこの白熱した対戦状況をSNSに投稿し、そこからやって来た視聴者がさらに拡散するという大盛況が起きていたのだ。


 互いに引けを取らない激戦に男は時間を忘れ、結局夜明けまで続けられた。




 それが最初の出逢いである。



 格ゲーでここまで興奮したのは随分久しぶりだった。また再戦したいと思い、配信後に男はフレンド申請をした。


 それ以来、毎週月曜日にオンラインに繋いだ状態で午前零時を迎えると、対戦の申し込みが来るようになった。



 過去の対戦を思い返して男がニヤける。尻の辺りをむず痒い感覚が走り、そのまま身体の内を昇っては胸の辺りをくすぐる。そんな高揚する気持ちに突き動かされて、アケコンを叩く音はさらに大きくなった。


 この時間だけは男は配信せずにいた。素晴らしい対戦映像を視聴者に提供するのが仕事であるにも拘わらず、彼はこの心躍る対戦を誰にも邪魔されたくなかったのだ。完全なプライベートとして、デートのようなものとまで捉えていた。



 デート。

 そう、男は相手を女性と認識していた。



 もちろん実際の性別がどうなのかは知らない。ただ相手が使用するのがいつも固定の女性キャラだというだけだ。


 ネット初心者のウブな若者に陥りがちな症状だが、彼の場合はその境地を越えていた。昂る感情を抑えきれず、彼女というよりも彼女と行う勝負そのものに深い愛情を注ぎ込んだ。


 ときめく瞬間とは人それぞれだ。

 格ゲーを好む者は格ゲーに恋し、格ゲーを愛する。稀にいるのだ。



 頭の中で最終確認をする。

 風呂には入った。トイレも済ませた。食事も終えて歯も磨いてある。眠気覚ましのコーヒーと集中力維持のためのガム、それから眼が乾かないよう目薬も用意しておいた。念のために今、差しておこう……。


 男に抜かりはない。彼女との密のひとときに準備不足などあってはならないのだ。


 間もなく日付が変わる。



 しかし。



 男はふと視線を逸らした。


 訝しげに窓を見る。


 何の変哲もない窓だ。わずかに開いていてカーテンを翻しながら生ぬるい風を部屋に届けていた。


 だが今はまだ蒸し暑い熱帯夜。室内は夏の暑さから逃れるために冷房が入っている。


 男は窓を開けた覚えがなかった。


 とはいえここはマンションの十階。セキュリティもしっかりしていて、物盗りなどは特に気にしていなかった。鍵を掛け忘れていて、風か何かがぶつかった拍子に開いてしまったのだろうと思った。


 男は席を立ち、窓辺から外を見た。切り立った断崖のような高層マンションからは鮮やかな街明かりの海が広がっている。今宵は満月だったらしく、丸い輪郭の耀きがたなびく雲を通して見えた。


 やはりうっかりしていただけだろう。そう思い、窓を閉めようとしたところで男は手を止めた。


 その光景に眼を見開く。


 窓の引き手を中心に蜘蛛の巣がびっしりと張り付いていたのだ。巣は横に長く伸びて窓と壁に橋を渡し、そこから床まで糸が伝い降りている。


 糸は部屋の隅を移動していた。電源タップから伸びた沢山のコードに執拗に絡みついたあと一本のコードを辿っていく。


 それは先ほどから男が使用している液晶モニターのものだった。黒いコードに小さな巣を点々と作り、作業デスクとその上のモニター機器の裏側を覆っていた。


 いつしか男は大量の汗を掻いていた。夏の暑さによるものではない。ずぼらだからという理由では済ませられない異常な状況に、経験したことのない恐怖と緊張に襲われていたのだ。


 額に大粒の汗が浮かぶ。頭痛や胸の痛みに息苦しさも覚えた。そのくせ背中は寒気立っていて指先と唇を震わせる。


 葉脈のように広がる糸が機器のパネル部分へと続いている。

 ついさっきまでそこに映るものを男は見ていたのだ。椅子に座って、ゲーム画面を……蜘蛛の糸はなかったはずだ。


 口内に溜まった唾を呑み込むといやに喉が鳴った。拳に力を込め、足を前に踏み出す。

 恐怖を押し退け、まるで見えない糸に引かれるかのようにデスクを廻って液晶モニターを覗き込んだ。


 そこにはおびただしいほどの蜘蛛の巣が張り付いていた。ひび割れた鏡のような網の目が幾層にも重なっていて、その隙間から漏れる光源がサイケデリックな雰囲気を漂わせている。


 もう格ゲーをしている時のあの冷静さは男の頭から遠く消え失せていた。眼の前の異様さに呑まれるばかりで言葉が出なかった。


 そんな男の視界で何かが動いた。

 蜘蛛の巣の、いやからだ。ゲームの映像とは別に何かがその中を這い回っている。


 男は顔を近づけた。不気味に明滅する画面に瞳孔が踊る。


 モニターの縁を掴んでそれを凝視する。


 液晶の中を動いていたそれも男を見ていた。


 眼と眼が合い、そして。


 画面内から糸の腕が男目掛けて無数に伸びてきた。


 男の身体のあちこちを掴むと糸は彼を乱暴にモニターの中へと連れ去ってしまった――。




 一週間後、男の部屋は刑事と鑑識で埋まっていた。


 毎日欠かさず動画を配信していた男の更新停滞を心配して視聴者が通報したのだ。


 部屋に入った直後、刑事の一人が眉を顰めて苦々しく呟いた。


 またか、と。


 ここ数日間、東京を中心に同様の怪事件が発生していた。


 被害者は全員、名のあるプロゲーマーだった。全身を糸で拘束された状態で息絶え、口の周りだけがひどく腐敗していた。事件現場は蜘蛛の巣で覆われていて、まるで何十年も使われていなかったかのような有様だった。


 鑑識の調べから被害者を縛っていた糸も含めて蜘蛛の巣は本物だと分かった。また口唇部には大量の粘液が付着しており、それが同一の唾液成分であることも。


 あまりにも不可解な共通点に刑事たちは頭を悩ませていた。

 そして混乱させる事がさらにもう一つ。


 被害者は殺される直前までゲームに興じていたらしく、現場はどこもゲーム画面が映し出された映像機器があった。ジャンルは違えど全員がオンライン通信で対戦をしていたようだが――。



 同日同時刻、彼らはある人物と対戦をしていた。



 “Nephila Clavata”



 現段階で、その者の素性は掴めていない。

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