ホワイト・ノイズ

雨森葉結

第1話

 ザザー……。


 どこか遠くから、奇妙な音が聴こえる。

 あたしはゆっくりと、閉じていた目を開いた。


「あ、起きたー?」


 変に間延びした声がした。

 あたしは、立っていた。向かい合うようにして、七つかそのくらいの歳の男の子が、面白そうにケラケラ笑っていた。


 周りを見渡すと、真っ白。なにもない。ほんとに、なにも。


 ちょっと待って。

 あたしは息を吸って、飲み込んだ。


 ……ここ、どこよ。


「こんにちは。新島、桜さん」


 なにが可笑しいのか、彼は笑いながらあたしの名を呼んだ。


 勿論、あたしの知り合いにこんな子はいない。

 心臓が嫌な音を立てる。


「……あたしの名前、」


 なんで知ってるの、と言いかけて、あたしは口を噤んだ。

 訝しげに見つめるあたしの視線をスルーして、少年は微笑んだまま、二メートル程離れて立っている。


「僕は、君の案内役」


 あたしのへそくらいの高さにある顔の中で、口がニッと横に伸びた。


 白く塗りつぶされたような空間で、彼の黒装束は異様に浮き上がっていた。

 フードの付いたポンチョみたいで、よく見ると少し大きいのか裾が足を覆い隠している。


 改めて、周りを見た。

 壁も天井も床も、境目がない。

 確かに立っている感覚があるのに、あたしの足はなにも踏んでいないようにも見える。

 影すらもない。


 こんな奇妙な空間、一度だってきたら忘れないだろう。


 なんの前触れもなく、すっかり機能を果たしていなかった恐怖という感情が目を覚ました。

 あたしは小さく肩を縮める。


「あれ、ひょっとして、記憶抜けてる?」


 少年は大袈裟に目を見開いて驚いてみせた。


 いや、なんで分かんの。

 確かにここにくる前の記憶ないけど。


 あたしは真一文字に結んだ口の中で呟く。


「そっかそっか」


 勝手に納得された。訳が分からない。


 別にだからどうと言うわけでもなく、彼は顔色を変えずにあたしを見つめた。


 光のない、暗い海の底のような目だった。


「それじゃ、見ようか」

「は……?」


 何を?


「そうだなぁ、君の人生ってとこかな」


 そう言うと、少年はあたしの背後を指差した。


 溢れかえった疑問もそのままにあたしが振り返ると、さっきまではなにもなかったはずのそこには、ブラウン管のテレビがあった。


 この空間のBGMなのかと思っていたら、耳に触る“ザザー……”という音はどうやらこいつのノイズだったらしい。

 黒い画面に、たくさんの短い白い線が、地面と平行に現れては消える。


 アンテナもないのに、映るのだろうか。


 あたしは首を回し、少年に向けて口を開きかける。

 目が合った。


「だいじょぶだいじょぶ。アンテナ、いらないから」


 彼はあたしの心が読めるのかもしれない。

 口の中の唾をまとめて喉の奥に落とす。


 見透かしたように笑いながら、少年は続けた。


「これから見るのはね、録画したドラマだよ」


 黒装束のおかしな部分に手を突っ込むと、太古の昔に絶滅したと思っていたビデオテープが出てきた。

 左手に掴んだまま、少年はひたひたと、隠れた足でテレビまで歩く。


 そういえばここにきて初めて、彼が歩くのを見た気がする。


「……浮いたりは、しないんだ」


 変だけど、と付け足す。


「別におばけとかじゃないからね、僕」


 こちらを一瞥しながら少年は言った。


「靴履かないの……?」

「なんで?」

「え、なんでって……」


 あたしは一瞬考える。ただ不思議に思っただけなのにな、と答えに詰まって、適当に理由を取り繕ってみる。


「危ない、から……?」


 なぜか疑問形になってしまった。


 テレビの下の口のような穴にテープを押しこむと、彼はもう一度、あたしと目を合わせた。

 意味なんてないのはバレてるはずなのに、変わらない笑顔の中のどこかに寂しさを見た気がして、あたしは固まる。


「……危なくないよ」


 ここにはなにもないからね、と少年はあたしから目を逸らしてゆっくり立ち上がった。

 黒檀のような前髪がゆらりと揺れる。


「お待たせ。じゃ、見ようか」

「……見るって、あたしの人生?」

「そうだよ。さっき言ったでしょ」

「でもそれなら、めちゃくちゃ長いんじゃないの? 十数年間分だよね?」

「まあ、そうだけど」


 テープ一本で足りるもんなのか、あたしの人生。


 ちょっと拍子抜けした。

 もっと何本も何本もあるのかと思った。


 なにも言えずに、馬鹿の一つ覚えみたいに口をパクパクさせる。


「編集されてるんだよ、多分。ほら、ダイジェストってやつ?」


 少年が胡散臭く微笑んだ。


 多分ってなんだ、ていうか誰が編集するんだと疑問に思いながら、あたしはまた唐突に出現した二つの椅子の大きな方に促されるまま腰掛ける。

 背もたれの広い、ふかふかの椅子だった。


 少年は別になにを操作するわけでもなかった。

 ただ隣の椅子に軽くダイブすると、大人しく座っていた。


「これは君の、走馬灯だ」


 それから少しも待たずに、ノイズが途切れた。

 文字通り、プツンと途切れた。


 辺りは静寂に包まれた。




 画面が明るくなった。




 白くて眩しい。

 なにも見えない。


 だんだんぼんやりと周りの景色にピントが合ってきて、眩しいのは視線の先にある照明が原因だということが判明する。

 景色と言っても仰向けで寝ているので、見えるのはLEDと天井と、それから横っちょにある棚の上の方だけ。


『桜、おはよう』


 最初の記憶は、母だった。

 幸せそうにあたしを見御下ろす母は今よりだいぶ若いはずなのに、その笑顔は何も変わらなかった。


 手前から伸びた白い小さな手がその頬に触れる。

 ミルクの甘い匂いが、した気がした。




 場面が変わった。




『今、なんて……!?』


 甲高い叫び声は、悲鳴というより歓喜に近かった。

 上から覗き込む二つの顔はあたしを驚きと感動の入り混じった目で見ていた。


『まま』


 画面の外から舌ったらずな声が聞こえて、半分泣きながら、母が父を見た。

 父は喜びながら、お父さんも呼んでくれよ、と笑った。


『桜』

『桜』


 二人は何度も何度も、あたしの名前を呼んだ。

 温かく、そして優しく。




 再び画面が変わった。



 

 あたしが初めて歩いた時だった。


 大袈裟すぎて、見ているこっちが恥ずかしくなるくらい、両親は娘の成長を喜んだ。

 母は興奮した様子で誰かに電話していたし、父はあたしを潰れてしまいそうなほど抱きしめた。




「これは君の、走馬灯だ」。

 ふと、少年の声が蘇る。


 あたしは、死ぬのだろうか。

 画面の向こうの最愛の人たちに、もう会えないのだろうか。

 こんなにもあたしを愛してくれた人たちを、あたしは置いていかなくちゃいけないのだろうか。


 急に息が苦しくなった。

 鼻の奥がツンとする。


 あたしは小さく、唇を噛んだ。

 強く握りしめたこぶしが、痛かった。




 場面は変わり続ける。




 熱を出して、夜中に病院に行った。


 嫌いなピーマンを残して怒られた。


 公園で初めての友達ができた。


 幼稚園に行って、はしゃぎすぎて転んだ。


 ピアノを弾いた。絵を描いた。


 喜怒哀楽はあまりに鮮やかで、まるであたしの知らないあたしがいるみたいだった。


 彼女はよく笑った。

 前に祖母に、母に似ていると言われた意味が分かった気がした。




 段々、視点は高くなっていく。




 小学校の入学式。


 動物園への遠足。


 授業参観で、作文を読んだ。


 運動会で、二人三脚をした。


 クラスメイトたちと遊んで、歌を歌って、喧嘩して、その度に仲直りした。


 隣の席の男の子を好きになって、失恋して、夜通し泣いた。




 そうやって季節は巡り続けた。


 次第に感情は複雑になり、終わりの見えない人生は楽しいばかりではなくなっていった。


 それでもあたしは、毎日を生きていた。

 どんなにくじけそうになっても、ただただ懸命に前を見ていた。


 早送りで自分を再生しながら、あたしはあたしがだんだん変わっていくのを感じた。

 瞬きするそのたった一瞬さえ、惜しかった。




 あたしには分かっていた。


 あたしはもう死んでしまうのだ。

 大切な人たちを思い出の中に残して。


 もう会えなくなってしまった人たちは、画面の中で綺麗な笑顔を見せる。




 凪沙があたしに笑いかけた。


『桜、おはよう』


 凪沙は親友だった。


 彼女はいつも眩しかった。

 たくさんの友達に囲まれても凪沙はあたしの名前を呼んだし、あたしはそれが嬉しかった。


 二人で凪沙の誕生日を祝っている時、テレビのこちら側であたしは思った。

 彼女は今、どうしているだろう。


 「……凪沙」


 あたしはボソッと呟いた。




 それに応えるようにして、画面が変わった。


 


 そこは放課後の教室だった。


 夕日が差し込んで机に反射する。

 風で揺れたカーテンの奥から、蝉の声が聴こえた。


『もういい!』


 教室のドアが凄まじい音を立てて、誰かが出ていった。


 次第に遠のいていくのに気づいて、あたしは走りだした。


『待って……っ』


 よくある口論だった。

 いつもなら、どちらかが先に謝っていた。


 しかしその日に限って、彼女は逃げていってしまった。


 長く伸びた廊下を全力疾走して、影の中に時折見える凪沙の背中を追いかけた。

 制服のスカートが翻る。


 夕日は気づかないうちに窓から姿を消し、追いついた指先が凪沙のポニーテールに触れた。


 刹那、彼女の長い髪はくるりと向きを変えた。

 左足でブレーキをかけるとそのまま階段を駆け下りる。

 あたしも後を追う。

 耳の内側で体を叩く心臓が、やけに五月蠅かった。


 二階の踊り場を通り過ぎた時だった。


 凪沙の足が、変な方向に曲がった。

 咄嗟に振りかぶった手は手すりに届かずに空を切る。


 階段に背を向けて、凪沙はバランスを崩した。

 落ちていく彼女の顔が、恐怖に覆われていた。


『凪沙っ!』


 無我夢中で手を伸ばし、放り出される華奢な腕を強引に引っ張った。


 重力に逆らうのは容易ではない。

 上がりきった息も、ぴんと張る右腕の限界も無視し、あたしは彼女を、自分を支点にして踊り場に投げた。

 一八〇度回転する体は勢いよく宙に浮き、世界はスローモーションで落ちていく。



 窓から差し込む細い橙の光が、途切れた。



『桜あああああっ…………!!』


 凪沙の劈くような悲鳴が、最期に聴こえた。




 画面は再び、黒くなった。




「君の人生は、これで終わり」


 少年が告げた。


 そっか、と言ったはずの声は掠れていた。

 瞬きは視界を滲ませて、泣いていたのだということに今更気づかされた。


「僕は死神」


 ぽつり、耳に言葉が残る。


「君を導くのが仕事だ」


 あたしは息を吸い込んだ。

 震える声は温度を失いかけている。


「…………どこに……?」

「行けば分かる」


 顔を上げると、少年は椅子を降りて、なにもない遠くのどこか一点を、無表情のまま眺めていた。

 流れ落ちる涙を手の甲で拭う。


 立ち上がった横で、死神はビデオテープを機械から外して大切そうに抱えた。

 なにも言わずに見つめるあたしに気づいたのか、相変わらずどこか胡散臭そうな笑みを浮かべて言った。


「……君を導くのは、正確に言えば僕じゃない」


 ひたひたとこちらに引き返し、彼はあたしの手のひらにプラスチック製のそれを押しつけた。


「君の、人生だ」


 その途端、テープがひとりでに伸びた。

 どこまでもどこまでも黒いビニールは真っ直ぐに道を作った。


 その先には、なにも見えない。

 ただ、上も下もないような空間が続くだけで。


 振り返ると、少年の姿はなかった。

 テレビも椅子も、跡形もなく消えていた。




 白しかない世界を、あたしは一人で歩き始めた。


 たった一本の、細くて黒い、終わりの見えない道を辿りながら。





 どこか遠くで、ノイズが鳴っている。

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ホワイト・ノイズ 雨森葉結 @itiimuna_1167

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