いつかすべてが昇華して

大滝のぐれ

いつかすべてが昇華して



 昼子ひるこは人生で一度もアイスクリーム屋さんに行ったことがないらしい。だから、八月の炎天下の中を歩き回ったせいでべちょべちょに溶けてしまったものを差し出しても、なにも文句を言わない。むしろ「暑いからしかたないよー。それに、こうなってたほうがおいしいよねえ」と屈託のない笑顔で口にし、とてもうれしそうに食べる。紫とピンクがマーブル模様になったわたあめ味のアイスにスプーンがあてがわれるたび、私はこらえきれずに笑みをこぼしてしまう。手元にある自分のキャラメル味のアイスは、しっとりと適度な硬さ、冷たさを保ったままでいる。

「いつもありがとねえ。うちじゃ、こんな甘いもの、食べれないから。いっつも、おやつはレモンみたいなにおいがするぬるま湯ばっかりで」

「はちみつレモンをお湯で薄めたみたいなやつ? いいね、なんかおしゃれ」

 昼子が、大好きなアイスを前にどんどん顔を曇らせていく。ごめん、昼子のうちは、そうだったよね。慌てて謝罪の言葉を重ねるが、これはわざとだった。昼子が暑さのためにほんのり赤くなった顔をきゅっと動かし、ぎこちない笑みをつくってかぶりを振る。そう、これだ。わたしは昼子のこの顔がだいすきでだいすきでたまらなかった。伏せやお手、おかわりなどの芸を人の都合で無理やり教え込まれている飼い犬のような、愛くるしいのにせっぱ詰まったような表情が。


「ううん、違うの。いいよ謝らなくて。えっとね、あれは、エッセンシャルオイル、っていうのを混ぜたやつなんだって。きび砂糖とそれが底に溜まってて、なんかじゃりじゃりするし苦いしで嫌なの」

 昼子がスプーンを握ったまま、ぽつりと口にする。詳しいことはよくわからないけど、お母さんに言わせると昼子のお母さんはあまりよくないビジネスの一種にどっぷりとはまってしまっているらしい。カフェのイベントやなにかの教室などで特別な商品の実演や宣伝をしてそれを買わせ、購入した人がまた別の人に広める。そういった仕組みになっているものらしい。

 そんな彼女に勧められ、お母さんが断り切れずに買ってしまったオイルのセットが、たしかまだうちにある。中身が見えない濃い茶色の瓶がいくつもあって、ラベンダーやペパーミント、ベルガモットやユーカリなど、様々な香りが楽しめるようになっていた。せっかくだから使ってみようよ、と提案したことがあったが、お母さんは心底嫌そうな顔をして「こんなの使ったら頭おかしくなるわよ」と言って、埃っぽい押し入れにそれをしまい込んだ。それきり、一度も見かけていない。ついでに昼子の家が母子家庭だということ、昼子が万引きをしている噂があることを告げられたが、わたしは無視した。いつもなら従っていただろうけど、昼子との縁を切るのは嫌だった。こんな、じめじめとしたひどいことをしているのに。


「飲んで大丈夫なの、そういうの」

「なんか飲んでも肌に塗っても平気なオイルだから大丈夫だって言うの。おいしくないから本当は飲みたくないんだけど、飲むまでお母さんは目を離してくれないから。昔、あんたがかかったアトピーも、オイルのおかげで治ったんだからね、って」

 昼子のお母さんは『カガクブッシツ』『ユウガイナデンパ』『フケンゼン』『ジンコウブツ』とかそういう言葉や要素をなにより嫌うらしく、昼子はそれによってあらゆる小学生らしいことを禁止されていた。ゲームもだめ、アニメもだめ、漫画もだめ、プールの塩素もだめ(近所のそこまできれいじゃない川は大丈夫)。もちろん、今わたしたちが食べているアイスのようなお菓子なんかもってのほかだ。そういったおやつのようなものは、先ほど昼子が言っていたオイル入りのお湯か、彼女のお母さんが作る『ユウキコムギのムテンカハーブケーキ』みたいなはっきりとした味のしないよくわからないものしか許されていなかった。


「まあ、昼子のお母さんが言うのならそうなのかな。ほら、この前昼子の家行ったとき、お母さんがクッキー焼いてくれたじゃん。たしかにすごく苦かったけど、健康によさそ! って感じしたよ。おいしかったー」

 嘘だった。庭のローズマリーとミントを刻んで混ぜ込んだというそのクッキーは、変に味が薄いうえ、ハーブのにおいの隙間になにかよくわからない不自然な甘ったるい香りがするのが気持ち悪くて、飲み込んだ後にすべてトイレに吐き戻してしまった。今思えば、あれにもなにかオイルが入っていたのかもしれない。白い便器と見つめ合いながら、お母さんの「頭おかしくなるわよ」という冷たい言葉が、頭にこびりついて離れなかった。家ではスナック菓子やコンビニ弁当、真空パックされたお惣菜などしか食べたことがなかったから、焼き立てで妙にさっくりとしたクッキーの食感を思い出し、さらに気持ち悪くなったのを覚えている。


「そうかなあ。でも、こうして優良乃ゆらのちゃんが持ってきてくれるお菓子や食べものを食べても、ふたりでお母さんに内緒で市民プールに行って泳いでも、なんともないんだよ」

 よくわからないよ。私、ばかだからさあ。昼子が、またあの飼い犬の笑顔を作る。なにかを飲み込み、自分の中で解決しようとしているときの表情。昼子と長い間一緒にいるけど、やっぱり彼女にはこの顔がいちばん似合う。

 あんたのそういう笑顔、いちばん嫌いなんだけど。そう叫んでしまいたい衝動に駆られる。いきなりそんなことを言ったら、目の前にいる、わたしだけしか友達のいない女の子はどんな顔をするのだろう。ほぼ溶けてしまったアイスを放り出し、地面に手をついて必死に謝るのだろうか。それとも、わたしの手を握って思いつく限りの不誠実だったと思う自分の言動や行動を挙げるのだろうか。ふふ、と息が漏れて、視界の中の昼子が飼い犬から人間に戻る。

 なにか面白いことあった? ううん、なんでも。愉快な想像もまとめて噛み潰すように、アイスを掬って口に運ぶ。スプーンが歯の裏に当たった。


「そういえばさ、なんで私のアイスだけ、こんなに溶けてるのかなあ。優良乃ちゃんのはちょうどいい感じなのに」

「ドライアイスを保冷用にもらうんだけど多分それが袋の中の位置的にわたしのぶんのやつにしか当たってなかったからじゃないかな。店員さんがへたくそなんだよきっと」

 幸せが甘くとろけていくのを味わう暇もなく、私は頭の中で繰り返し考えていた文章を慌てて喋った。貼りつくような蒸し暑さが一瞬だけ嘘だったかのように遠ざかり、またすぐ戻ってくる。あー、なるほどね、わかんなかったよ。こちらに背を向け、昼子は納得したように呟いた。彼女の黒い髪を束ねているピンクのヘアゴムが代わりに私を見つめていた。


「ごめん、ちょっとお手洗い行ってくるね」

 返事をする間もなく、昼子は公園の片隅にある四角い小屋に向かっていく。いつもそうだ。学校でもわたしと遊んだりお菓子をむさぼっているときでも、彼女はやたらとトイレに行く。でも、焦りで余計にほてった体を休めるにはちょうどよかった。薄水色のワンピースが小屋の中に完全に消えたのを確認し、わたしはかたわらに置いていた紙袋を頬に当てる。瞬間、ひんやりとした感触がそこから体中に流れ込んだ。袋の表面が、大量に生じた水滴のせいでしっとりと濡れている。手首や足にもそれを当ててひと通り冷たさを味わうと、私はゆっくりと袋の口を開いた。中にはもうもうと白い霧が立ち込めており、底のほうに氷に似た塊がいくつも入っていた。

「お持ち帰り用のドライアイスはおつけしますか? 三十分まで無料です」

「お願いします」

 そんなやり取りをし、アイスを受け取って店を後にすると、わたしはいつも袋から昼子のぶんのカップを取り出している。なぜそんなことをしようと思ったのかはあまり覚えていないが、右手でドライアイスの霧にまみれた自分のぶん、左手で暑さのためにどんどん汗をかいていく昼子のぶんを持ちながらゆっくりと公園まで歩くのが、なんだかすごくすてきなことに思えたのだ。で、その近くの曲がり角で、水滴を拭きとってカップを袋の中に戻す。そのときに、半透明のふた越しからすっかりやわらかくなったマーブル模様の塊を指で押し込むのもまた楽しみのひとつだった。自分をばかだと言ってしまう愛くるしいどうぶつの脳みそを、この手でもてあそんでいる気分になる。潰さないのもつまらないが、潰し過ぎると壊れてしまう。ぐにぐにとして形が掴めない感情が、そのたびに胸の奥から染み出してくるのだ。


「あ! ずるいよ優良乃ちゃん、自分だけドライアイスで遊んでる」

 トイレから戻ってきた昼子が、いつの間にかわたしの後ろに立っていた。動揺を隠すように口の端を拭う。

「まだやってないよ。やろっか」

「うん!」

 わたしたちは連れ立って砂場に向かい、そこに置いてある誰かが放置した小さなバケツを拾い、水飲み場で水を汲んだ。

「よし、いくよ」

 袋をバケツに向けてさかさまにすると、ドライアイスがいくつも水の中に滑り落ちる。その瞬間、泡が立つ弾けるような音と共に、バケツの中に霧が立ち込めた。

「わあ、すごいねえ!」

 昼子がバケツめがけて息を吹きかける。霧がさっとどこかに消え、水の中で白い泡がいくつも生まれては消えていくさまが鮮明に見えた。温度は比べるまでもないけど、溶岩のように思えてしまった。

「ねえ、ドライアイスみたいに固まったものがそのまま空気みたいになって消えていくのって、昇華、っていうらしいよ」

「へえ、知らなかった」

 優良乃ちゃんって、やっぱ物知りだねえ。私に向けて笑みをこぼし、昼子は再びバケツに風を送った。口が疲れたためか今度はてのひらを使っていたが、問題なく霧は晴れ、また冷え切った透明なマグマが現れた。物知り、か。心の中でそっとつぶやくと、くすぐったいような感覚が胸の辺りを歩き回った。でもいずれ、さすがの昼子もそれを知ることになるはずだ。昇華なんて、ドライアイスが白いもやに変わるしくみなんて、中学生くらいになったら誰でも習うことになる一般常識なのだから。


 いや、それだけではない。大きくなっていけばいくほど、世界は大きくなり、遠くが見渡せるほど澄み渡っていくのだと思う。その中できっと、彼女は自分の母親がしていることの意味や、飲ませられたお湯の効能、アイスクリーム屋で買いものをすることなどを学び、覚え、『常識』として理解していくはずだ。もちろん、友達としての位置に収まっていたわたしがしていたことも、すべて昼子の中で明確に見つめ直され、答え合わせされる日が来る。そのとき、握っていた鎖は外れ、きっと彼女はわたしに牙を向けるだろう。ひどい言葉を浴びせながら涙を流し、謝罪を求めてくるかもしれない。


 そうやっていつか『なにもわからない』というもやがかかったような思い込みが跡形もなく消え去ったとき、わたしは、たったひとりの友達を失う。今までのように親の言いつけに従った結果ではなく、自分で選び、楽しさやうれしさを優先しておこなったことによって。


 そんな未来がやってくることはわかっていたが、わたしがアイスをわざと溶かして昼子に渡すのをやめることは、きっとないだろう。昼子の手によって断続的にドライアイスの煙が消されるたび、その想いが強くなっていく。

「ねえ、優良乃ちゃん」

 ドライアイスが溶けてきたらしい。発泡が弱まり、いくつかの細くて白い塊が水面を走り回るのが見えた。それを、昼子はバケツごと持ち上げ、わたしの顔の前に持ってきた。そこで、昼子の右手の甲、人差し指と薬指の下が、ぷっくりと膨らんでいることに気づく。


「私たち、ずっと、いっしょにいようねえ」


 昼子が口をすぼめる。わずかに残った霧が吹き飛ばされ、彼女の息が頬に届く。先ほどまであんなに楽しく食べていたアイスの甘い香りはまったくしなかった。代わりに、酸っぱいような苦いようなにおいがぱっと広がり、散っていく。

 目の前のけものが、歯を見せて笑う。ハーブらしき葉っぱのかけらが、前歯と唇の間に貼りついている。





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いつかすべてが昇華して 大滝のぐれ @Itigootoufu427

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