アメフラシの笠井
陰角八尋
横しぐれ
窓を叩く雨は止む気配がなく、外の道路にいくつも水たまりを作っていた。それをビルの会議室から眺めていたタキシードの男は、不機嫌を隠そうとせず大きくため息をつく。屋内にいる以上、雨に濡れることはない。ただ、これから起こることを考えると憂鬱になってしまう。そんな男に、一人の少年が同情の目線を向けていた。
「
笠井と呼ばれた男は、不快感を隠そうとせず声の主へ顔を向ける。
「うるせーカス
「絶対に嫌ですよ! それで、婚姻の準備は大丈夫なんですか?」
かぶりを振る石田の学生服はずぶ濡れだ。袖口やズボンの裾から水が滴っている。
「婚姻いうな。あんなもんただの契約だろうが」
再び窓の外を見た笠井の視線の先。建ち並ぶビルの1つに、異形が張り付いていた。ナメクジのような姿に、白と茶色のまだら模様はビル群の中でよく目立つ。その体皮は湿り気を帯びており、目や鼻のようなパーツはどこにも見当たらない。はるか昔から語り継がれてきた妖怪の1体、アメフラシがそこにいた。
「アメフラシの妖怪と結婚するなんて、前代未聞ですね」
「んなもん、俺だって聞いたことねーよ。何で俺があんなのと」
妖怪と契を結んだ者は、不思議な力を得る。彼らの友人、もしくは家族となることで得られる力は絶大だ。特に、深い仲であればあるほど手にする力は増す。しかし。
「今どき人と結婚する妖怪なんて、珍しいですね」
「まぁな」
昔と比べて妖怪が表に姿を表さなくなり、契を結ぶ者は減少した。加えて人の醜さを見続けてきた妖怪の吹聴により、出会ったこともないのに人を毛嫌うものまで出てくる始末。
そんな現代において、妖怪側から契を結びたいという提案が来る。笠井や石田が属する組織にとって、願ってもない機会だ。だが、出された条件に問題があった。そこそこ実力があって、難がある人がいい。それがアメフラシの出した花婿の条件だ。
「何が『夫婦の契を結べば、それ相応の力を得られる』だ! とんだブラックだぜうちはよ。万が一に備えたいからって、なんで俺が花婿にならなきゃなんねーんだ!」
「人や善良な妖怪に害なす奴らの討伐実績がそこそこあるから、アメフラシの出す条件に合ってますし。あと、こいつなら婿に出してもいいだろっていうの、うちの組織で笠井さんと矢車さんぐらいですもんね」
「じゃあ矢車がやればいいだろ! あと、俺が契約している妖怪と相性悪いだろアメフラシは!?」
「いや矢車さん、あれでも既婚者ですし。というか、仕事サボりまくった笠井さんが悪いんですよ。笠井さんがどの妖怪と契約してようと関係ないですって。そりゃ上からも『最悪死んでいいヤツ』認定されるでしょうに」
「バレないようにしていたつもりなんだがな」
「上司がサトリと契約してるんだから、バレるに決まってるじゃないですかそんなの」
ダラダラと会話を続けながら、遠くに見えるアメフラシを見つめる。ウネウネと動く妖怪を可愛いなどと、微塵も思えない。
「石田は良いよな、まだ可愛げのあるカマイタチに好かれてて」
「可愛いですけど大変ですよ。たまにふざけて切ってくるんで。見てくださいよこのお腹。ここまでパックリいってるのに全然痛くないんですよ」
石田がワイシャツをめくれば、脇腹を斜めに走る切り口が顔を出す。臓器までは達していないようだが、傷は深い。それでも血は出ておらず、石田はピンピンしている。
「あ~見せんな見せんな。どうせ薬塗られてんだろ? じきに治んだろうが」
「まぁそうですけども」
話しているうちに、部屋のドアがノックされる。石田が返事をしてドアを開ければ、そこには黒服の男がいた。
「時間だ笠井良一。出るぞ」
「はいはい。あ~やってらんねよ全く」
着慣れないタキシードに
笠井を乗せて、件の場所へと向かう黒のワンボックスカーを見つめる。まるで死神の下へ運ばれる棺桶のようだと、石田は哀れんだ。
もしアメフラシの機嫌を損ねた場合、婚姻は失敗に終わる。そうなれば、笠井や黒服は殺されるかもしれない。それ以上に甚大な被害が出る可能性だってある。
いざとなれば、自分がアメフラシを殺さなければならない。そうならないよう、石田は静かに祈っていた。
一方で笠井は、だらしなく助手席に座わっていた。やる気を感じられない花婿に、黒服は眉を潜める。
「姿勢を正せ笠井。もう向こうがこちらを見ているのは分かっているだろ。お前が失敗したら、最悪死ぬかもしれないんだぞ?」
「だからなんだ。失敗して俺が死んだとしても、石田のカマイタチでこれまで通りなんとかなるんだろ? つか、なんでタキシードなんだ? 妖怪相手なんだから普段着でも別に良いだろ」
「アメフラシ直々の要望なんだから、そうするしかないだろう。何より、お前は何度もサボりを起こしている身だぞ。文句を言う権利なんてない」
「あっ、そ」
子供のように不貞腐れながら、笠井は黙る。もちろん姿勢は正さず、背もたれを全開で倒した。
「おい!」
「うるせぇ。なのにいちいち行儀良くなんかしてられるかバーカ。お前ももう少し肩の力抜けよ」
「お前……!」
「お、やるか? 結婚相手待ってる妖怪が見てる前で、花婿殴るか? お?」
そこで黒服は歯を食いしばり、静かにブレーキを踏んだ。ゆっくりと速度を落として止まった車の中、数秒のあいだ静かになる。
「怖くないのか!? なんでそこまで平気な顔をしていられるんだ!?」
「怖いとか言ってる場合か? つーか車止めてねーで早く走らせろよ。上手くいこうが失敗しようがさっさと終わらせてーんだよ俺は」
「失敗したら、俺も死ぬんだぞ? せっかく名誉ある仕事に就けたと思ったのに、なんでお前みたいなクズと心中しなきゃいけないんだ!」
「100パー死ぬって決まってねーだろボケ! そもそも最悪死ぬかもしれない職場で、名誉もクソもねーんだよ。それに、あいつの機嫌損ねたくねーなら早くアクセル踏めって。走りながらでも喋れるだろうが」
笠井が出した威圧感に気圧され、黒服は口をつぐむ。数秒の沈黙の後、黒のワンボックスはまた走り始めた。
またもや沈黙が続くが、それに耐えかねたのか黒服が喋りだす。
「石田さんのカマイタチで、本当になんとかできるのか?」
「転ばす、切る、薬を塗る。相手の動きを封じつつ致命傷を与えられ
んのは、ここらへんじゃ石田と仲が良いカマイタチぐらいだろ」
「カマイタチは切っても薬を塗るから、死なないんじゃないのか?」
「薬じゃなくて毒だって塗るんだよあいつらは。昔から言われてる話でカマイタチが薬を塗るパターンしか聞かないのは、毒を塗られた人間や妖怪は全部死ぬからだ。死んでんだから、語られることがなかったんだとよ。石田が聞いたってんだからそうなんだろ」
体を伸ばし天井を見ながら、笠井は答える。花婿が自分の方を見ていなかったら、アメフラシはどう思うのか。黒服は不安になるものの、前方のビルに張り付くアメフラシに変わった様子は見当たらない。きっと大丈夫だと自分に言い聞かせながら、運転を続ける。後少しで、ビルのもとに着く。そう思っていたが、花嫁の様子がおかしいことに気づいた。
「あのアメフラシ、縮んでないか?」
「は? 何言ってんだお前。あんなのが縮むわけ」
ないだろ。笠井はそう言いかけた口を閉じ、黒服の襟をつかんだ。
「お、おいっ」
抗議の声が挙げられるが、気にしている暇はない。助手席側のドアを開けて、二人は転がるように社外へと出た。水たまりに浸かった不快感よりも早く、すぐ近くを轟音が訪れる。
先程までそこにあったワンボックスはひしゃげ、吹き飛んでしまった。眼前に現れたまだら模様が、触覚を笠井と黒服に向ける。
「それで…どちらが花婿なの?」
アメフラシは自らの皮膚に人の口を作り出し、そこから声を発した。
「こっちの黒服だ」
「おい貴様! 違う、こっちが花婿だ!」
花婿を押し付けられそうになり、黒服は即座に否定した。その様を見ていたアメフラシは少し動きを止める。直後、笠井の横を何かが通り抜けた。
「あ?」
振り返れば、アスファルトを砕き地面へと突き進む木の棒が見える。そのまま棒は地面を破壊しながら突き進んでいった。何が起こったのか分からぬまま、視線を前に戻せばまだら模様が一面を覆っていた。その姿は、まるで捕食。
「笠井っ……!?」
黒服が近づこうとするが、目の前に降り注いだものを見て硬直する。先程アスファルトを砕いたものと同じものが突き立っていた。喉から出そうとした声を飲み込み、自分へ意識を向けられないようにする。笠井はアメフラシに押しつぶされるようにして包まれていく。邪魔をしてはいけないと思い静かに座り込んだ。すると、はるか後方で轟音が鳴り響く。振り返れば、石田が待機しているビルの壁が砕けている。あがる煙の中には、黒服の前にあるものと同じ棒がいくつも突き立っていた。
アメフラシが笠井たちに襲いかかったところを見ていた石田は、すぐさまカマイタチを呼び寄せた。
「カマイタチ、アメフラシを切ってくれ!」
すぐさま服や皮膚に、何か鋭いものが引っかかるのを感じる。それは友の爪であり、笑みを浮かべた三姉妹が石田にまとわりついていた。
「石田ぁ、もしうまく殺れたら撫でてくれるかい?」
「これが終わったらいくらでも撫でてあげるから! 早く!」
「はいよぉ!」
カマイタチを向かわせるため、石田は窓を開ける。友のお願いに応えるため、三匹は窓の外へと飛び出した。しかし。
「は?」
遠くで起こるはずのカマイタチの斬撃は、目の前で起こった。突如現れた棒を切り飛ばした彼女たちは、すぐさま石田の下へと戻り彼を部屋の後ろへと引っ張る。窓や壁は砕け、土砂降りの雨が入り込んできていた。
「あのアメフラシ、冗談じゃないよ! こっちの敵意に反応して、槍の雨を降らせやがった!」
窓の向こうで落ちていく棒の先には、鋭い穂がついている。もしもカマイタチが咄嗟に爪を振るっていなければ、その穂先は石田の体を貫いていただろう。
「じゃあ、笠井さんや黒服は」
「癪だけど諦めな。雨粒を槍に変えれるんだ。いくら私らだって無傷じゃすまないさ。それに石田、あんたはすぐ串刺しになっちまうよ」
「敵意を引っ込めたら、槍の方はすぐに収まったけどねぇ。でも油断はできないよ。あいつの気分次第で、アタシらは最悪お陀仏だ」
「『槍の雨が降る』なんて言葉があるけど、もしかしてアイツが元で生まれたのかもしれないねぇ」
幸いにも、黒服はアメフラシへ敵意は向けていない。あるのは畏怖だけだ。完全に飲み込まれてしまった笠井が中でどうなっているのかは分からない。ただ、自分は邪魔になってしまわないよう、空気であることに徹していた。
「花婿を求めたのに、どうしてここまで敵意を向けられているの?」
生暖かい粘膜の中、女性を形どった肉塊の手が笠井へと触れる。アメフラシの本体、ではない。アメフラシが体の一部で作り出した分身のようなものだ。人の外見だけでなく構造も真似ることで、言語による発声を可能としている。
そうして言語の壁を突破した妖怪に対して、笠井は警戒心を跳ね上げる。
「そこまで精巧に人の形を?」
「これぐらい訳ないわ。ずっと昔は上手くできなくて大変だったけれども。でも、花婿を手に入れられるのなら、やって良かったと思うの」
「別に俺以外でもいーだろ。妖怪でも何でも」
「嫌よ。ほとんどの妖怪は私のことを恐れて近づきもしないのに。そんなのより、私を受け入れてくれそうな人を探すことにしただけ」
「で、来たのが俺だったからキレて突っ込んできたと?」
「そうね。やる気がなさそうだったし。そんな人と結婚してもね。でもこのまま帰るのは嫌なの。あなたもそうでしょ? 私との契約で得られる力が欲しいんでしょ?」
「いらねーよ俺は別に。上司がキレるかもしれないけど、そんだけだ」
「嘘ね。声や体温を感知しているから分かるの。怒られるのが嫌なら、もっと必死にアピールしてみせてくれない?」
図星だった。観念したように笠井は声を出す。
「なぁアメフラシ、お前は青空を見たことあるか?」
「いいえ、見たことはないけれど」
「そうかよ。じゃあ今日が初めてか。やれ
途端に雨が止む。雲が割れ、陽の光が差し込んだ。突然変わった天候に驚き、黒服は顔をあげる。
「お、なんだいアメフラシかい? 久しぶりに見たな」
急に聞こえた声に黒服が横を見れば、着物を着た坊主頭の男が立っていた。先程まで土砂降りだったにも関わらず、どこも濡れていない。
「あんたも笠井と同じところの子かい?」
話しかけられ、黒服はうなずいた。新たな妖怪の出現に警戒したものの、どうやら笠井が契約していた
そして驚いているのは、黒服だけではない。雲の合間から覗く青と陽の光を見て、アメフラシは笠井を見つめる。
「あなたがやったの?」
「俺からは見えないけど、晴れたんだな? 空が晴れてんのは俺と契約している日和坊がやったからだよ。あいつは晴れの日に現れるんだが、逆に言えばあいつが来たところは必ず晴れになる」
「そう……綺麗ね」
「日和坊と契約しているのは、今のところ俺だけだ。もし俺と契約してくれるなら、きっと青空くらい簡単に見れるようになる」
「そう、そうなの。それは素敵ね。でも、きっと何度も見続けたら飽きちゃうでしょ? なら、あなたとの契約はこうするわ」
アメフラシの伸ばす手が、笠井の首へと触れる。接した部分が熱を持ち、笠井があまりの熱さに顔をしかめた。しばらく掴まれ続けたあと、不意にアメフラシは手を引っ込める。
「これで契約は完了よ。あなたは私の力を少しだけ使えるわ」
「少しだけ? 婚姻関係を結んだのにか?」
「……? 婚姻関係じゃないわ、隷属よ。そこの水たまりで見てみたら?」
「はぁぁ!?」
アメフラシに開放された笠井は、近くの水たまりへと自らの首を映す。そこには首輪のように黒い線が一本走っていた。
「あなたは私のものになったの。でも大丈夫、私が陸に来たときに青空を見せてくれれば良いだけ。簡単でしょ?」
「夫を求めてたんじゃないのかよ!」
「さっきも言ったでしょ。やる気のない人を夫にするのは嫌よ。でも、私の
アメフラシの笠井 陰角八尋 @rv3apd5gdgt
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