6(第1章完)
目の前が柳田さんの病室である。柳田さんの姿が見える。ベット脇に見覚えのある若者の姿が見えた。息子さんがいる。こちらに背を向けパイプ椅子に座り柳田さんと何やら話している。間に合った。
会話に耳をそばだてた。
「また、持ってきたよ。やっぱり納豆がいいみたいだ。これも食べると良いよ」
納豆……!
ワルファリンとは絶対禁忌であり、さらに出血を助長してしまう。これも有名であり薬剤師なら誰もが知っている。
「ちょっと、待った!」
気がつくと二人の間に分け入っていた。息はまだ整っていない。柳田さんは驚いてこちらを見つめている。
「薬剤師さんですね。こんにちは」
サトルくんがこちらに向かって会釈した。
「その納豆……」
「この納豆がどうしたんですか」
微妙に笑みを浮かべている。間違いない。
「あなた、わざとやっていますよね」
体勢を整え納豆を指差し、サトルくんをしっかりと見据えながらこう言った。上衣が窓からの風になびいている。
「わざととは? どういう意味でしょう」
サトルくんはほとんど表情を崩さずに尋ねた。
「あなた、薬剤師ですよね」
「だとしたら?」
「セントジョーンズワートやクランベリー、納豆がお母さんの飲んでいる薬と併用に問題があることはわかっているんでしょう」
「はは、私は薬剤師じゃないですよ。だからそんなことも知りませんでしたね」
視線を逸らしている。嘘だ。
「あなたが薬剤師だということはすぐわかるんですよ」
「はは、家宅捜索でもするんですか?」
「いや、このスマートフォンがあれば十分です」
スマートフォンを手に取り、あるウェブサイトを開いてサトルくんに見せた。
「これは」
「薬剤師資格確認検索システム、厚生労働省のサイトです。これであなたの名前を検索すればあなたが薬剤師かどうかすぐにわかります」
「はは、それで検索して出てきたのが僕だとどうやってわかるんですか? 柳田サトルなんてたくさんいると思いますよ」
わかりやすく手を広げて嘲笑しながら喋っている。
「そうでしょうか。サトルという名前は確かに多いかもしれません。ただ、名前の漢字がわかればある程度は絞れるのではないでしょうか」
「漢字は教えません。母さんも教えちゃダメだよ」
「あれ、薬剤師じゃないのなら漢字を入力して検索してもヒットしないから問題ないのでは?」
「嫌だ。そんなの関係ないですね。人に名前を教えるのは嫌いなんです」
明らかに表情が変わった。狼狽している。
「実は、あなたの名前の漢字は既に知っているんです」
「なんですって」
「お母さんの入院時に家族の名前も記載して提出したと思いますが、そのデータを電子カルテで見ました。漢字で書くと草に杜、留萌の留で草杜留。柳田草杜留、なかなか珍しい名前だと思いますがどうでしょう」
同時に薬剤師資格確認検索システムで柳田草杜留と検索したところ、一件ヒットした。取得年度も合っている。その画面をサトルくんの目の前に突きつけた。
「…………」
「これで薬剤師だということは認めますね」
「……確かにこれは、僕です」
頭を垂れてうなだれている。
「なぜ隠していたんですか。併用について知っていたということを隠すため? もちろん本当は併用したらダメということは知っていたのでしょう」
「知らなかった……いや、知っていたさ。もちろん。セントジョーンズワートを知らない薬剤師などいません」
「ではなぜこんなことを? 母親に恨み、でも?」
「恨みなんて、あるわけないだろう! だって、だって、これは、僕じゃなくて」
サトルくんはいまにも泣き出しそうな表情で、声を荒げてこちらに向かって叫んだ。
憎悪の念があったわけではなかった? ではなぜ……想定していた答えではなかった。
僕じゃなくて? どういうことだろう。
そのときだった。病室の扉が勢い良く開いた。
「お母さんに頼まれてやった。そうだろう」
先輩が立っていた。いつものぼんやりした表情ではなく、生気に満ち溢れた顔をしている。
「あなたは? どうして、それを?」
「私はしがない薬剤師さ」
「先輩! どういうことですか? なぜそんなことを?」
聞かずにはいられなかった。
「なぜって? 簡単なことだ。薬剤師なら、しかもなりたての薬剤師が、自ら進んで折角得た知識を悪用するわけがない。それだけさ」
確かにそれはそうだけれど。赤の他人をそこまで信用できるものだろうか。サトルくんは下を向いて押し黙っている。
柳田さんが頼んだ。なぜ。そんなことをして何の意味が。
彼女のほうを一瞥した。こちらをまっすぐ見据えている。侮蔑しているような、嘲笑しているような。その表情をみてゾッとした。
「はあ、バレちゃったねえ。バレないつもりだったのに」
バレたとは。声まで別人のようである。
「柳田さん、どうしてそんなことを」
「どうして? あんたに私の気持ちなんてわかるもんか。末期癌と言われた私の気持ちが!」
柳田さんは膵癌疑いであったが、精査の結果stageⅣであることが確定していた。
「今まで何ともなく暮らしていたのに、ちょっと体調が悪くなって病院で検査したらこのザマだ。主治医の森先生はどうだい。ぶっきらぼうにもう治らないとだけ言ってさ。私が癌なわけがないだろう。腹がたつ」
「だから、困らせようと思った。でも、ただ暴れるんじゃただ頭がおかしくなったと言われて終わるだろう? 先生に攻撃するのも犯罪だ。そこら辺はわきまえている。だから、誰にもわからない方法を探したよ。ちょうど息子が薬剤師の免許を取得し就職し始めたところだったからその方法はすぐに思いついたね。私はたくさん薬を飲んでいるから飲み合わせの悪いものはたくさんあるだろうと。それを食べれば誰にも気付かれず異変が起こるはずだと。息子は最初反対したから説得するのは苦労したが、必死に訴えたら最後には私の想いを受け入れてくれたよ」
なんということだろう。確かに私には癌と診断された柳田さんの気持ちはわからない。
大学の講義で「キューブラー・ロスの死の五段階」を学んだのを思い出した。死期を迎えた人が抱く感情は①否認②怒り③取引④抑うつ⑤受容の5段階で変遷していくというキューブラー・ロス医師による提唱のことである。
第一段階の否認と第二段階の怒りを単純にこの状況に当てはめることはできると感じたが、そんな単純な型では図れない何かを感じた。
「まあ、今さらバレたところでもう手遅れだろうよ」
「手遅れ? どういうことですか?」
「あんたがダメって言ったクランベリージュース、私、あの後も毎日がぶ飲みしているわあ。ありがとうねえ。息子の意見だけじゃ少し心許なかったから他の薬剤師のお墨付きをもらえて、一層飲もうと思ったわよ。これで血が止まらなくなるのよねえ? 回収しなかったのが間違いだったわねえ」
柳田さんはそう言って勢いよく棚を開けた。クランベリージュースの空容器が大量に雪崩れ落ちてきて病室の床に嘘のように高く積み重なった。
「うそでしょ、こんなに飲んだら……」
「ほほほほ。原因不明の出血、森先生はさぞかし困るだろうねえ。私を困らせた報いさ!」
どうしようどうしよう。以前の時点で鼻血が出やすくなっていたことを考えると、それから大量に摂取すればかなり事態は悪くなっていることは容易に想像できる。クランベリージュースとの併用での死亡例が頭にちらついた。すぐに森先生に報告しなくちゃ。またウザがられるかもしれない。でもこれは言わなくちゃ。病室を出ようと駆け出そうとしたところ、先輩に手で道を塞がれた。
「貴嬢、そんなに慌てなくても大丈夫だよ」
「あんた、なにそんなに先輩ぶって。もうどうしようもないんだろう」
「どうしようもなくはない」
「どうしようもないでしょう! 毎日何パック飲んでいたと思っているの! なんでそんなことが言えるのかしら」
「なぜって? あなたの持っていたクランベリージュースは全て私が」
「クランベリー風味のジュースにすり替えておいた」
「果汁ゼロパーセント。香料がクランベリーというだけだから、実体はほぼ砂糖水のようなものだ」
棚から落ちたクランベリージュースを拾い、パッケージを見た。クランベリーという文字の横に小さく「風味」と書かれている。見た目はクランベリージュースとほとんど同じだ。でもなんで先輩はそんなことを。なんで知っていたのだろう。
「ただの砂糖水を飲んでいたですって。すり替えていたですって? うそでしょう。 あんた、そんなことしていいと思っているの? これは、れっきとした犯罪よ!」
「ほう、これが犯罪と言うのだろうか。小生はただ、治療に悪影響を及ぼす可能性があるものを、家族の許可を得て、一時的に預かっただけだ」
「家族の許可! いったい誰の許可を取ったというの? まさか」
彼女は彼女の息子の方に振り向いた。サトルくんは顔を上げ、母親の方をまっすぐ向いている。
「ごめん母さん……だけど、おれはもう母さんがこれ以上悪くなるのが耐えられなかったんだ。下手したら死んでいたんだよ」
サトルくんの目からは大粒の涙があふれていた。
「死んでいた? 何を言っているの? ただジュースを飲むだけで死ぬわけないじゃない」
「ワルファリンを飲んでいる患者がクランベリージュースを飲むことで死亡したという報告があります。もし、柳田さんがこれだけの量のクランベリージュースを飲んでいたら、確実に出血を来たし死亡していたでしょう」
初めからきちんと伝えるべきだった。
「そんな、私はただ先生を困らせられれば良かっただけなのに……」
「ごめんねサトル。ごめんね……」
彼女は膝から崩れ落ちた。気が付けば窓の外には雨が降りそそいでいた。か細い嗚咽が病室に響きわたり、その音は雨音と混ざりしばらく止むことはなかった。
「それにしても先輩、どうして柳田さんがクランベリージュースを飲み続けてるって知ってたんですか?」
あの後、柳田さんがサトルくんと二人で話したいと言っていたので、病室に二人を残してお薬相談室に戻ってきた。
「真実はときに知らないほうがいいかもしれないよ」
「それでも知りたいです」
「貴嬢からクランベリージュースについての話を聞いた後、病棟に行って彼女の病室を通ったときに彼女がクランベリージュースを飲んでいておやっと思った、それだけだよ。知らないほうが良かったろう」
なんと、たまたま見つけただけとは。先輩はたまにそういうところがある。
「病気の患者さんがどう考えているか。私には全然わからなかったし、わかろうともしていませんでした。もっと患者さんに寄り添って、気持ちを慮るべきでした。患者の立場に立つことができる薬剤師になりたい」
「そうだねえ。難しいことだが医療者にとってはとっても大切なことだね」
「伝えるべきことはきちんと伝えなきゃって思いました」
「そうだねえ。薬剤師は伝えることが仕事のうちの大事な一つだからね」
「先輩、今日は飲みに行きませんか」
「おお、めずらしいこともあるものだ」
「行きましょう。いつものお店に七時でお願いしますね」
病棟に行って残っていた仕事を片付け、病院の外に出た。
雨は止み、夕焼けが空一面を覆っていた。
併用注意!〜市立病院おくすり相談室の事件手帖〜 走るアンピシリン @Autm
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