ハウスエッグ

夕凪

第1話

 諦めの生み出す脆弱な世界で生きていた僕にとって、社会という空間は、あまりにも居心地が悪かった。街を行く人々には僕が見えていないようだったし、「社会の一員として認められていないのでは」という懸念が、僕の心に巣食っていた。小学生だったあの頃の僕にとって、社会という舞台にはあまりにもリアリティが無かったし、全てがちゃちな芝居のように見えていた。しかし、そんなものに恐れを抱いている自分が、情けなくもあった。あの日踏み出す必要の無い一歩を踏み出してしまったのは、そんな寂しさ故の過ちだったのかもしれない。


 カーテンの隙間から差し込む曙色の光が、朝の到来を告げる。もう何度目になるだろう。暗闇の中で迎える朝は、僕の心から安らぎを奪い、漠然とした焦りを手渡してくる。そして僕は、その焦りから目を背けるようにして、ベッドに潜り込むのだ。

 ライブ配信を始めたあの日から、もう4年もの月日が経っていた。その間に得たものや失ったものを数えようとすると、意識がどこか遠くに飛んでいくような、そんな感覚に陥る。増えていくリスナーの数に反比例するように現実は輝きを失っていき、かつては青い春を謳歌していた僕の人生も、今はもう錆びついている。


「ん……もう4時かよ」

 5時に寝て、16時に起きる。そんな生活を続けていると、当然体にも不調が出てくる。キリキリと痛む胸を手で押さえながら、ペットボトルに入った水をコップに注ぐ。全てを忘れられる錠剤は、自分の手の届く範囲には存在しない。しかし、心の不調を抑え込む錠剤なら、僕でも手に入れることが出来る。

「まあ、所詮その場しのぎなんだけど」

 誰に言うでもなく口をついて出た言葉を、錠剤と一緒に水で流し込む。すきっ腹にトポトポと注がれる水に若干の違和感を覚えつつ、リビングに降りる。


 物心つく前に死んだ母の代わりを、父は務めようとはしなかった。実際、父に母親としての仕事は務まらなかったと思う。「親の仕事は子供に苦労をさせないことだ」が口癖の父に、一切の苦労をさせないよう細心の注意を払って育てられた僕は、周囲から見れば温室育ちそのもののように見えたと思う。いや、今も見えていると思う。しかし、そんな父の個人的な贖罪に、人生ごと付き合わされている僕の身にもなってほしい。思い通りにいかない人生なんて、「終わり」の具現化のようなものだ。そんなことを、二人で暮らすには広すぎる家で毎日考えていると、気晴らしが欲しくなる。ストレスの解消法は、人それぞれ違う。僕にとってのそれは、ライブ配信だった。ただそれだけのことなのだ。


 ワーカホリック気味の父は、ほとんど家に帰ってこない。昔は隙を見て帰宅しては、普段の行いを償うようにどこかに連れて行ってくれたものだが、高校生になってからは、全く帰ってこなくなった。悲しくはない。むしろ配信者としては好都合なのだが、家事全般を自分でやらなくてはならないことだけが、生活上の障害となっていた。ゴウンゴウンと音を立てる洗濯機にもたれながら、スマートフォンの画面をスワイプする。リスナーたちのツイートを軽く流し見しながら、配信を始めたあの日に思いを馳せる。


「これでいいのかな……」

 午前1時。カーテンを締切った部屋で、当時小学生だった僕は、人生初のライブ配信を始めた。静寂に沈んだ部屋で、自分の鼓動の音だけが、やけに大きく聞こえた。

『こんばんは。初見です』

 記念すべき1つ目のコメントは、至って普通の挨拶コメントだった。正直配信の治安について一抹の不安があったので、安心したのを覚えている。この時コメントをくれたユーザーとは今でも繋がっている。所謂古参というやつなのだが、4年以上の付き合いで、未だに性別が分からないのは面白い。性別不詳のアニメオタク。それが僕の、一号に対する印象の全てだ。

 その後も穏やかに時間は過ぎた。増減を繰り返す閲覧数を眺めながら、一号と雑談をしているだけで、枠を閉じる時間が訪れた。

「それでは、配信を終わりたいと思います。来てくれた皆さん、ありがとうございました」

『お疲れ様です。また来ますね』

 配信を閉じ、大きく息を吐いた。最後の一号からのコメントを読み、また配信することを決めた。初めての配信は、沈みきっていた僕の心を、水面まで浮き上がらせてくれた。


 勿論、配信が毎回穏やかに終わるわけではない。荒らしが来ることもあるし、テンションが上がらずに時間前に切り上げることもある。しかし、社会との交流をネットに頼りきっている僕にとって、ネット配信はある意味、生命線でもある。

「依存しているのかもしれないな」

 分かりきっている答えをわざとはぐらかすことで、不安を溶かすことを試みる。しかし毎回失敗に終わり、自己嫌悪に陥るのだ。


 遅めの夕飯を食べ終え、腹ごなしに散歩に出る。時刻は午後10時。本格的に夜が始まるこの時間帯が、僕は好きだ。何故だか全てが許容されているような、そんな気持ちになる。月を見上げ、過去と未来、両方を想う。

「このまま、世界が終わればいいのにな」

 好きを集めているだけで、毎日が過ぎていったあの頃。嫌いに毎日を支配されている今。きっと今夜も、締め付けられるような朝を迎えるのだろう。そんな予感に後をつけられながら、僕は夜の散歩を続けていくのだった。

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ハウスエッグ 夕凪 @Yuniunagi

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