第10話

一月程が経ち、軽くなった母を布団に寝かせ別れの時がいよいよだと実感する。


そして横に布団を並べ俺も眠りに就こうとすると、


「…誠司、明日晴れるやろか?……晴れたら、散歩行きたいな。」


その静かに問い掛ける言葉が、俺が聞いた生前最後の言葉になった。





翌日早朝。


「オカン、今日ええ天気やで。散歩行こか?………オカン?」


返事が帰ってこない事で全てを悟った俺は、冷たくなったその手を握り声を殺す様に泣き続けた。


母の顔はとても穏やかで、苦しんだ様子が無かった事がせめてもの救いかもしれない。


葬儀は一応俺が喪主を務めたが、殆どの段取りは葬儀屋さんと親戚一同が勤めてくれた。


母の遺体に花を添える場面などでは、俺が泣き崩れ全く使い物にならず面倒を掛けたと思う。


火葬の後の納骨の際にもまた使い物にならなくなり、重ね重ね申し訳無く思っている。


その後の事だが、俺は無気力人間になり、二週間以上も無断欠勤を繰り返した。


勿論、その間ジムにも顔を出してはいない。


その時に一通のメールが届いた。


差出人は、美冬さんという俺が思いを寄せる同僚の女性だった。


『お母さんの事は伺ってます。店長は何とか宥めておくから、元気が出たら戻ってきて。』


この文面が確かなら、俺がクビになっていないのは彼女の気遣いによるものだ。


そんな彼女にこれ以上迷惑を掛ける訳には行かない。


そう一念発起し、重い体を引き摺って出勤すると、


「やっと来たか。色々辛い事あったかもしれへんけど、これじゃ困るわ……。」


意外にも、店長には少し小言を言われただけで済んだ。


その日の休憩中、俺がいない間の事を同僚に尋ねてみる。


「美冬ちゃんだよ。店長はもうクビだって激怒してたんだぜ?そこに彼女が食って掛かってさ。それで………」


俺が今どれだけ辛いのかを説明し、必ず戻ってくるから等と言って何とか時間を稼いでいたらしい。


その話を聞いた後、居ても立っても居られず、真っ先に彼女に向かって頭を下げた。


「あのっ美冬さん。この度は本当に面倒掛けました。この御恩一生忘れません。」


俺がそう言うと、彼女は少し悪戯っぽい笑顔を浮かべながら、


「へぇ~、一生面倒見てくれるん?嬉しいな~。」


覗き込む様にそう語る姿に、俺はチャンスだと思い踏み込んだ。


「はい!結婚を前提にお付き合いしてください!」


彼女は少し驚いた顔をした後、少し恥ずかしそうに頷いてくれた。






その次の休日、墓前に交際の報告をする為、二人で母達が眠るその場所を訪れた。


「オカン、楽しみにしてた彼女連れて来たで。どうや?ええ娘やろ?」


今はもう答えようのない母に自慢の彼女を紹介する。


「初めまして。生きてる時にお会いしたかったですけど、これからこの場所を何度も訪れますので、どうか見守っていて下さい。」


気のせいだろうが、祝福する母の声が聞こえた気がした。


いつか二人で結婚の報告が出来る様に頑張らなければならないだろう。


そう心の中で誓いを立て、手を繋ぎながら母の墓前を後にする。


その後ジムにも顔を出すと、岡田トレーナーが遅れを取り戻す為きついメニューを課してきて、復帰に向けて汗を流す毎日を費やした。








それから数か月経ち、彼女との交際も順調で、復帰戦も勝利で飾る事が出来た。


正に順風満帆と言っても過言では無い時間を謳歌している。


「もうこんな時間か。じゃ、オカン行ってくるな。」


線香をあげ遺影に手を合わせた後、急いで玄関を飛び出す。


母のいない日常にも、もうすっかり慣れた。


別れがあれば出会いもある。


そんな当たり前の事さえ忘れていた自分に気付いてから、少しずつ前を向ける様になった。


「待った?いやぁ、ボケっとしてたら遅くなってもうたわ。」


「全くもう…少し急がなあかん。このままじゃまた店長にどやされるわ。」


怒りながらも横で暖かい笑みを浮かべている彼女と、これからは支え合って生きていくのだろう。 


失う事を恐れては大切なものなど作れない。


母を失って心が折れそうになったが、それでも必ず救いはある。


それを知ったから、もう折れる事は無いだろう。


そして俺にとっての救いは、これからはきっと、いつも傍にあるのだから。

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