後
程なくして、いつもの日常は戻ってきた。
あの時渡した男性は何者だったのか、あの村は何だったのか。夢でも見ていたようで、しかし手渡しした感触は鮮明に手に残っていた。
だが、その感触も仕事をこなすうちに薄れていった。
そうして数ヶ月が過ぎた夏頃、祖父が亡くなった。98歳での老衰。最後まで元気で、もう10年は生きるんじゃないかと思うくらいぴんぴんしていた。長生きした方だと思う。
葬儀とその後始末と、片付けきれない感情の忙しい日々が落ち着くと、僕は母方の親族と共に遺品整理を手伝った。
しばらく地元に帰っていなかったので、幼少期によく訪れた祖父母宅が懐かしかった。
皆で手分けして整理を続け、写真棚を整理していると、ふと祖母の若い頃の写真たてを触って違和感を感じた。
裏返すと小さな包み紙が挟まっており、開けるとそこには鍵があった。
「ねえみっちゃん、この箱の鍵知らないー?」
「あー母さん、もしかしてこれじゃない?」
祖父母と同棲していた叔母さんと箱を覗きこむ母に、見つけた鍵を手渡した。小箱を封じていた錠前は、その鍵であっさりと外れる。
しかしあの豪快で細やかさのこの字もない祖父が、こんなにも大事に何かをしまいこむなどらしくもない。
もしかして秘宝かなにかだったりしないだろうか。ありもしない空想に少し胸踊らせる中、蓋が開かれる。
中からは1枚の紙が出てきた。それは、よく見覚えのある10と14.8cmの四方。宛名のない達筆な80年前の年賀状だった。
「あらー! これ父さんの宝物じゃない! こんなところにあったのね~」
「おーいミサコ、ちょっと来てくれないかー」
僕が呼吸も忘れてそれを見つめるうち、おじさんの呼び出しにおばさんは去っていった。
母はそれを手に取ると、ゆっくりと目を細めた。
「母さん、これ……」
「うん。お父さん、ずっと農家を継ぐか都会に出るか迷ってたんだって。そこにお母さんがこのはがきをくれて、決心がついたんだって……でも、おかしいね。消印がつい最近になってる。消印って間違えることあるんだっけね?」
あまりにまじまじと見つめていたのか、「見る?」とはがきを渡される。
はがきは少し湿気っていて、以前手にした時よりも古ぼけて見えた。
「宛名が、おじいちゃんの名前と少し違うけど……?」
「ああそれね、成人前にこっちの都市部に来たとき改名したんだって。詳しい事情は聞かなかったけど」
「そっか、道理で苗字は……あの母さん。これ、ちょっと借りてもいい?」
「ううん」
否定の即答に、胸が一瞬引き締められた。
そりゃ、そうか。こんなに祖父が後生大切にしていたものなら尚更。
「借りるとかじゃなくて、遠慮しないでもらってきな。あんたおばあちゃんのはがき大好きだったでしょ」
次ぐ言葉に、ほっと緊張が解けた。
たしかに、本来なら母が持っているべき大切な一枚だったかもしれない。
「お父さんの人生の転機になった1枚だから」
しかし、その母が葉書を持つ手をそっと握らせてくれたので、僕は祖父と母に感謝してそれを貰うことにした。
意外に思うかもしれないが、人間にミスがあるように、機械にもミスがある。
稀に消印がついていない葉書が出るのは、たまの機械の不具合ということがあるのだ。
そんな時のために、見えない消印が葉書には押されている。
主に切手の再利用を防ぐためと、読み取った相手の住所、通過時間などを受取証明に印すためだったというが、一昔前からそれも自動化し、ポスト内部で小型機械が行うようになった。
勿論郵便局の人の目も通るが、今ならその「見えない消印」から正確な受付時間や集荷ポストまでもが検索できるようになった。
事情を説明して休日の職場に入れてもらい、ブラックライトで葉書を照らす。見えない消印は40年前。ちょうど、僕の見間違えた年月日であった。
集荷は今の祖父母の家の近くのポストだった。それは、最近取り除かれたという話の上がっていた例のポストらしい。
取り急ぎ私用のバイクで現場へ向かった。何か意味があってかは分からないが、とにかくそこへ行くべきだと思った。
もう少しで、何かが繋がる気がして。
街から離れ田園風景の続く道を辿っていくと、いつの間にか急速に日は暮れていき、夕日が照らし出す先に目的地はあった。適当な路肩でバイクを止め、葉書を片手にそのポストのあった場所へと向かった。
小さな駅に添えるようにして、ぽつんと集荷ポストは立っていた。
何故だろう。撤去されたのではなかったろうか。それとも住所を間違えたか。この近辺唯一のポストと聞いたのだが。
周囲を見渡して、ふとご老人がいることに気付く。いてもたってもいられず、僕は声をかけた。
「すみません! このポストって、この町で1つだけですよね」
年老いた女性は、どこか見覚えのある顔つきをしていた。年にして5~60代といったところか。手には1通の葉書を持っていた。
「ええ、そうですよ。……どうかされましたか?」
「いえ……あっ、すみません邪魔してしまって。投函、どうぞ」
その場から一歩下がると、老人はポストの前に歩み寄り、じっと葉書を見つめた。
その横顔はげっそりと痩せており、はたから見ているだけでも何か心が締め付けられた。
その目が、ふいと此方を向いて凝視した。他人に見つめられることほど居心地の良くないことはないが、何故か今は落ち着いていた。
「お兄さん……なんだか懐かしい人に似た目をしてるわ」
「えっ」
「よろしければ、お年寄りの長い独り言だと思って聞いて下さるかしら」
葉書へ視線を戻すお婆さんに、その物腰の丁寧さに惹かれてか、頷いて先を促した。
「私……後悔してることがあるの。好きだった人がいたんだけれど、その人は田舎で家業を継がなくちゃいけなかったから、離れ離れになってしまったのよねえ」
「……心中お察しします」
「ありがとう。……小さい頃からお互いに知り合いでね。私が中学で都会に越した時も、毎年続けてた年賀状を送りあいっこしてたのよ」
遠い空へ目を細めるお婆さんの横顔が、夕日の橙色に染まる。緩んでいた口角は、しかし次には下がってしまう。
「高校3年の頃ね……あの人から年賀状が来て。家業か都会に出るか、迷ってるって言われたのよ。もう一次産業なんて若い次の担い手がいなくて困ってるでしょう。だから私、あの人の進路の邪魔をしたくなくって。その年から年賀状はもう出さなかったの。……でも本当は、こっちに来てほしかったのよねえ。……馬鹿よねえ」
その一言があまりに切実で、僕は何も言えずに彼女を見つめていた。
「結局、その時に書いた最後の年賀状を、今の今まで未練がましく持ったままでねえ。でも、もうこれでさいごだから、未練を断つために、今日はこれを処分しにきたの」
「……最後?」
ポストに投函しながら、お婆さんは明るい笑みを向けた。
「私ね、癌なの」
その言葉に、全身が総毛立った。
そうしてポストに滑り込んだ葉書の、垣間見えた見覚えのある達筆な字に、目の前が眩む。
以前届けた若い男性の、ヘーゼルがかった瞳。祖父の遺影。58歳で末期癌を煩い一時命が危うかったという祖母────。
そうして、頭巾から覗くご老人の顔は、痩せこけていながらも、よく知ったものだった。
「──お届けします!」
びくりと彼女の背が震えて、こちらを振り向く。
「必ずお届けします、遅かろうと、何だろうと! 僕が、いえ私がお届けします!! それが例え、過去であっても……!」
身を削るようにして吐き出された言葉に、ご老人はしばらく目を見開いていたが、やがてくすくすと上品に笑い始めた。
「うふふ。何だか貴方がそう言うなら、届きそうな気がしてきちゃった」
「……もし、届けられるとしたら、何がしたいですか」
「そうね」
ご老人は一拍おいて続けた。
「もしそれができて、あの人と結ばれたなら……ひ孫の代まではがきを送るわ」
僕は不意に、高校生を終えるまでにもらった葉書の1枚1枚を思い出していた。
そうして気付くと、彼女の姿はどこにもなかった。後ろを振り向いても、ポストはない。廃駅となった小さなホームも、雑草に浸食されていた。
そうして日が沈む中、僕はようやく、駅の亡骸の前で一人立ち尽くしていたことに気がついた。
それ以来、消印の日付がずれた配送物を扱うことはなかった。
念のため言っておくが、僕には時を遡るなんていう人間外れな力は持っていない。
これは僕の推測に過ぎないが、きっと祖母の強い愛と手書きの温もりを守りたい気持ちが、何か不思議な奇跡を起こしたんだと思う。
そうして、仕事をこなすうちに今年もまた、忙しい正月がやってきた。
葉書がないからといって年末も暇でない。正月に備えて運ぶものは沢山ある。
毎年のようにてんてこ舞いの年末年始を終えて、ようやく僕は休暇についたのだった。
「お父さん、これ何?」
妻の方の実家から帰ってきた10歳になる娘が、玄関から戻ってきて首をかしげていた。
テーブルに出されたものを見れば、なんと珍しくも年賀状であった。
「あー、ナナはもう知らないか。これは年賀状って言って……」
この時代に風変わりな奴だなあ、と思いながら説明する口がぴたりと止まった。
妙に見覚えのある、綺麗な達筆の字。宛名のない明記。
そして表に細やかに作り込まれた、色とりどりのスタンプで形作られた山の風景画。
「ナナ……これ、ひいおばあちゃんからだよ」
きょとりと首を傾げた娘の前で、僕は自然と潤んだ目頭から溢れるものを、抑えることは出来なかった。
その後、葉書というものを知った娘が郵便屋を夢に持って目指しだすのは、また別のお話。
カプセル・レター 日暮蛍 @hota_hotaru
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