雨と涙

五十嵐 圭大

出会いから、別れ。そしてまた、出会う

「また会えるから……またね……」


 そう言って君は、僕の目の前からあっさり消えた。その出来事があってから、もう五年の月日が流れる。今も君はまだ、僕の前に姿を現さない。


 あの日はやっぱり、雨が降っていた。


* * *


 ——雨だ。


 突如として僕の前に現れた雨粒は、街を瞬く間に濡らしていく。彼女が大好きだった小説を購入し、本屋の前で立ち尽くす。


 庇から落ちた水滴が、僕の足元を襲う。避けることもなく、黒のスニーカーに染みていった。


 空は魔王でも住んでいるのではないか、と疑ってしまうほどに真っ暗で、恐怖を覚える。


 遠くで雷が鳴ったみたいだ。ゴロゴロという豪快な雷音らいおんが、世界中で轟き渡っているように。


 早く帰りたいという念に駆られているものの、傘の持ち合わせはなく、濡れて帰るしかなさそうだ。


 大学生になっても、何も僕は変わってはいない。毎朝決まった時間に起きて、決まった時間に寝る。高校生のときよりは、時間に余裕ができたにも関わらず。


 しばらく雨止みを待っていると、空がしだいに明るくなってくる。濡れたアスファルトが、太陽の光に照らされて、キラキラと輝いていた。


 大きな坂の途中に建っている本屋、行きは下り坂だから楽なのに、帰りは登り坂。坂を登るのが憂鬱すぎて、本屋の駐車場を出てから、思わず足が止まってしまう。


 後ろを振り返っても、何もない。視界の端に見える建物に用はないし、なんならこれから向かう自宅に用があるくらい。なのに、どうしてなのか。


 ——坂のせいじゃない。


 なんのせいでもなく、いや。この世界のせいで、ここに留まりたくなった。

 誰かに、手を引かれるように。


 ふと、空を見上げる。先ほどとは違い、所々に青空が見える。これからもっと快晴に近づくことだろう。そうなると、また君に会えるかもしれない。

 

 別れたときは雨だったが、出会ったときは、晴れていた。


* * *


「ねぇ、ここによく来るの?」


 どこにでもあるような、小さな街の本屋さん。小説の品揃えはよくないが、マンガがたくさん置いてあったので、結構気に入っている本屋ではあった。家から近い、というのもあるだろう。


 僕が今手に取っているマンガで、濡れ場が唐突に始まった。

 『……は? 何これ』と、思わざるを得ないなぞ展開だっただけに、横に立っている人に話しかけられたのかさえ、気づかなかった。


「ねぇ、おーい。あなたはよくここに来るのぉ?」


 僕の両手の中で、主人公とヒロイン、二人の上下じょうげ運動がマジで始まってしまった。


「おぅ……」


 僕の口から、意思に反して変な吐息が出てしまう。


「ちょっとー」


 これは駄作だった。

 主人公の言動は完全にのそれだし、ヒロインの方は、何故か理由もなく主人公のことを好きになってしまうし、簡単に身体を許してしまう。なんなんだ、この気持ちの悪いウテウテと、ラブドールみたいなヒロインは、と思ったその時だった。


 頭の中で、が蘇る。


「……え? な、なんですか? 誰ですか? 僕は何をすれば……」

「……反応遅すぎだよね。でも、私に気付いてくれたんだ。すごい」


 右から聴こえてきた心地よい声に、僕は振り向かされた。

 仕事の帰りだろうか。スーツを着て、髪を後ろで括った小柄な女性の視線が、僕の方を捉えていた。見た目からすると、確実に僕よりは年上だろう。


 僕は左手首につけた腕時計に目をやると、時刻は午後八時を回ったところだった。


 しばらくの沈黙が続く。その後、気まずくなって、僕の方から口を開いた。


「あの……なんですか? 今、夜の運動会の途中なんです。このハーレム野郎がフィニッシュしてからにしてもらってもいいですか? 駄作とはいえ、とりあえずこれだけ立ち読みするので」

「ん? なにそれ」


 僕はそう言い放ってから、視線をマンガに戻した。


「ちょぉーと待って。待ちなさい。訊きたいことがあるの、いいかしら?」

「ダメです。今、ヒロインの水揚げの最中さいちゅうなんです。ゴメンなさい、オバさん」

「み、水揚げ……? なにそれ? よく分からないけれど……、あなたが私のことをオバさんだと見ていることが分かったわ」


 さっきよりも心なしか、威圧的な声色に変わってしまった。が、別に知らないオバさんになんと思われようが気にしない。


「君、高校生?」

「大学生です。現役で一回生。この前、高校を卒業したばかりですけど」

 

 大学生なのに、高校生と言われたのが少し悔しくて、とりあえず訂正しておく。


「あ、そうなんだ。じゃあ私の……七つ年下くらい、かな……?」

「オバさ——お姉さんは、働いてらっしゃるみたいですね、見た目から推測するに。今日はお仕事の帰りですか?」

「そうだよ。私、これでも塾の講師をしていたのよ。すごいでしょ、正社員」

「へぇー、儲かりますか?」

「何を訊いてるのよ。……まぁ、そうね。私はそんなに昇給してなかったから多くないけど、すごい人はホントにすごいもらってると思う」


 と、僕はなんで本屋でこんな話を知らないオバさんとしているのだろうか。視界に入った主人公とヒロインの濡れ場シーンを見て、思った。


「最近の若い子は、どんな本を読むの?」

「……見たら分かると思いますけど、僕はマンガしか読みません。小説を読んでると、すぐに眠くなるので」


 文系に進んでおきながら、文章が読めない。ふっはっは。笑い事ではない。


「私、また来週この時間に、ここに来るわ。あなたもまた来てくれる?」

「無理ですよ。毎週本屋に行くのはめんどいです」

「またお話ししたいから」


 僕の返事が聞こえなかったのだろうか。スーツ姿の彼女は、ヒールの音をたてながら、本屋の出入り口へ向かった。


 僕は目の端で、彼女が自力で自動ドアをこじ開けて外に出る姿を捉えていた。


 僕の場合は自動ドアが反応してくれて、何もせずとも外に出られた。空は暗かったが、鮮やかな群青色を纏っていた。僕の目には、光って見えた。


* * *


 悲しいことに、僕は感情を表に出すということを知らない。正直言って、思いついたことをすぐに口にしてしまう人は嫌いだし、仲良くなりたいとは思わない。


 誰かの気持ちを知るために、誰かに気持ちを伝えるために、を介さなければならないほどに。


 自分を過大評価するのはもうやめよう。その代わり、人よりも劣っている点、優れている点を数えるのもやめる。


 他人と同じになったところで、碌な運命など待ってやしない。そんなこと、みんな分かっているものだと思っていた。


* * *


 彼女に会ってから、一週間が経過した。全く本屋に予定なんてなかったが、スーツ姿の女性に会うことを楽しみにしている自分もいて、とりあえず向かうことにしたのだ。例え、どんな結末が待っていようとも。


 先週のマンガコーナーに行くと、そこには誰もいなかった。街の本屋さん、誰もいなくても別に不思議ではないのだが。


 本棚の上に、白い紙切れを見つけた。恐らく僕の以外の誰の目にも止まらないであろう、輝いた紙切れ。それと同じように光っていたのは、濡れ場シーンが唐突に始まるクソマンガ。

 

 彼女はこの場にいない。いるはずがない。でも——彼女は人形じゃない。人間なんだ。これもまた、事実ではあった。


 この濡れ場マンガに登場するラブドールのようなヒロインとかじゃなく、ちゃんと意思を持った……。


 僕は本棚に、無造作に置いてある紙切れを手に取った。そこには、別に誰もが感動するような特別なことは書かれていない。そこにあったのは、僕の名字に、義姉の名前。


 五年前に病気で亡くなってしまった、僕と一番仲が良かった身内。もう会えないと分かっていても、もう一度会いたかった。


 僕はなんでそのときにマンガなんて読んでいたのだろう。もっと顔を見て、ちゃんと話しておけばよかった。


 現実に追われる毎日はもう懲り懲りだ。理想を追い求める日々にも、すでに飽きてしまった。


 僕は何かの、刺激をなんらかの形で受けたかっただけなのかもしれない。昨日の彼女は全て幻覚で、あんなことはなかった。歴史ではそうなっているのかもしれない。

 

 それでも別に構わない。何もかも、そのままで良かったんだ。


 僕は再び唐突に濡れ場が始まるマンガを手に取り、読み始めた。どんなに気に入らない世界だろうと、これはこれでいいのだろうと、考え直してしまった。


 先週と全く同じように、自動ドアが開いて外に出ると、雨が降っていた。かなりの大雨。


 それと同時に、僕の目からも雨が溢れていた。これを止めたら、もしかしたら晴れるかもしれない。


 でも僕は、涙を無理やり止めようとは、一ミリたりとも思わなかった。


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