有翼の民

野原 杏

有翼の民

 真っ白いキャンパスに色をのせている時、小鳥ことりは全てを忘れることができた。

 誰もいない美術室。時の止まったような空間で、少しずつ塗りつぶされてゆくキャンパスだけが活き活きと輝いている。

 深く黒ずんだ水の底。ゆらゆらと揺れる薄青の上に、小鳥は細心の注意を払って白を一筋、二筋と重ねてゆく。灰色と黒を交互に重ねた海底には、虹色の大きな巻き貝が一つ転がっている。全てのさざ波と魚のおしゃべりを隠しているかのような巻き貝の上に、遥かな高みから差し込む日の光が踊る。

 水中に漂うあぶくをいくつか描き加え、小鳥は絵を見つめて微笑んだ。これで完璧だ。

 集中力がふっと途切れた瞬間、絵筆が石のように重くなった。小鳥はとっさに目を閉じ、襲ってきた眩暈に耐える。今まではっきりと視えていた、碧い澄んだ海の景色が、すうっと遠ざかってゆく。

(さっき水道で水を三口も飲んだからだ。今日はもう何も口にしちゃ駄目)

 目を閉じたまま、小鳥は強く思った。じっとしていると、眩暈は収まった。小鳥はふらふらと立ち上がり、小枝のように細くあちこちが尖った指で絵筆とパレットを片付ける。それから鞄を肩にかけると、万年筆で碧い絵の右下の隅に自分の名前を書き込んだ。

 荒ぶる海が抱く虹色の秘密。貝が抱く、視えもせず聴こえもしない秘密。小鳥は絵を羨望の眼差しで見つめ、頭の中に焼きつける。

 それから背を向け、羽毛が漂うような足取りで出て行った。

 次の日までに絵が真っ黒に塗りつぶされていることを知りながら。


 放課後、カッターで裂かれた鞄の底を常備している安全ピンで留め、小鳥は教室を出た。いつものように街へ繰り出し、新しい絵の題材を求めに行くのだ。

 けれど校門を出る前に、校医につかまってしまった。

園崎そのざきさん、もう一度ちゃんとお話したいのだけれど」

 長い髪を一つに束ねた若い女性の校医は、思いつめたような顔をしている。いつも彼女が浮かべている、穏やかで人のよさそうな笑顔とは大違いた。小鳥は困ったような笑顔をしてみせる。

「いいですけど、これ、何回目ですか?」

「あなたが少しも反省してくれないからよ。今日も授業中に倒れたんですって?お弁当はちゃんと食べたの?朝食は?昨日の夕食は?」

 矢継ぎ早に問いかけられ、小鳥はちょっとくらくらした。もう何度も繰り返された質問だ。最初は適当にごまかしていたが、今は耳を傾けるのも億劫だった。

(早く行かなきゃ。次は昼間の光に縁どられた絵を描きたいのに…夕方になっちゃう…)

「園崎さん!いい加減にしてちょうだい!」

 校医が泣きそうな声を張り上げた。校門をくぐってゆく生徒たちが何事かと一瞬振り返るが、小鳥の土気色の肌や狭すぎる方や異様にひょろ長く見える手足を見ると急いで顔を元に戻した。鞄を持っていない方の小鳥の手をつかんでかざし、校医は苛立ち交じりの涙声を出した。

「自分をよく見なさい。骨と皮しかないじゃない。これは明らかな摂食障害です。しかもあなたは水だってちゃんと飲もうとしないんだから。病院かカウンセリングに行かないと、このままじゃ死ぬことだってあり得るのよ」

 小鳥は顔を歪め、力を振り絞って校医の手を振り払った。そして嘘をついた。

「分かってます。実は今日、病院の予約を入れたんです。水だってさっきたっぷり飲んできました」

「ああ、ちゃんとお母さんに話せたのね?」

 たちまち校医はほっとした顔になった。その隙に、小鳥はさっさと逃げ出した。校医はもう追ってこなかった。校門から十分に遠ざかったところで小鳥が振り向くと、軽やかな足取りで校舎へ戻ってゆく背中がちらりと見えた。


 久々に走っていると、そのうち地面の感触が消えた。身体がふわっと揺れて、空を翔けているみたいと思った瞬間、小鳥は横向きに地面に倒れた。打ちつけた肘がぴりっと痛んだが、小鳥はしばらく動かなかった。胸の内がむかむかして、焼けるような苛立ちと憤りでどうにかなりそうだった。

(あの先生のせいだわ。私は摂食障害なんかじゃない。食べ物なんてほしくないし、喉も乾いてないだけなのに)

 私は母のようにはならない。そう思った瞬間、あの夜の光景がくっきりと蘇り、錐で喉をつくような吐き気が込み上げた。小鳥はうめき声を上げて跳ね起き、とっさに自分の腕を噛んだ。痛い。腕が痙攣するほどの痛みが、内側から小鳥を食い荒らす痛みを忘れさせてくれる。閉じた瞼の裏側に広がる闇に、小鳥はおののく。分かっていて絵を描き上げたくせに、深い安らぎと静けさに満ちていたあの絵がじきに消されてしまうことを思うと、心臓がとまりそうだった。

 記憶から呼び覚まされた悪夢達が、うずくまる小鳥の周りを嗤いながら踊り狂う。

 小鳥は腕を口から離し、震える手で鞄を開けた。胸のうちの痛みはお腹や背中まで広がる。気が狂うようなこの状態は、たびたび小鳥を襲ってくる。抜け出すには絵を描くしかないと、小鳥はよく分かっていた。

(塗りつぶされてもいい。破られてもいい。どうなったっていいから、今、私を救い出してもらわなければ)

 小鳥は広げたスケッチブックと鉛筆を胸におしあて、ふらふらと立ち上がった。足元はひどく頼りないのに、身体は重くだるい。お腹の中で怪獣が牙をむき、火を噴いている。

(描かなきゃ。何を?何かを。なんでもいい。選びぬいたものを。暗いものを。明るいものを。今すぐ、描かなきゃ)

 小鳥はふらふらと彷徨い歩いた。四つ辻をいくつも適当に曲がり、何度も倒れそうになるのをやっとのことでこらえた。けれど、祈りを込めて何度角を曲がっても、目に飛び込んでくるのは無機質な住宅街ばかりだった。

 目の前がぐるぐる回りだした。もう自分が立っているのか歩いているのかさえ分からない。闇に沈む貝と、歪んだ校医の顔と、不気味な白い影のちらつくのっぺりした空がちらつく。いやらしい笑い声のようなものがどこかから微かに響いた。

(たすけて……!)

 小鳥は上を向き、声もなく絶叫した。


 その時、唇に柔らかな何かが触れた。


 小鳥はぺたんと座り込み、放心したように空を見上げていた。淡く優しい色合いの春の空に、白い綿雲がレースのように広がっている。

 小鳥は、ちらちらと降り注ぐ細かな光の粒子に包まれていた。

 いつのまにか吐き気はおさまっていた。小鳥は光の欠片を一つ、指ですくいとってみる。すべすべして、儚いほど柔らかなそれは、桜の花びらだった。視線を徐々に天へ移してゆくと、赤いレンガの塀と、その向こうから伸びてきている何本もの桜の木の枝が見えた。

(ここ、どこ…)

 小鳥は夢見心地で辺りを見回した。小鳥がへたりこんでいる地面の少し先に、錆びた鉄の門があり、その向こうに古い木造のお屋敷が見えた。半分ほどは蔦に覆われている。

 住宅街は途切れ、その一帯には丈の高い草の茂る空き地ばかりが広がっていた。そしてそれら全ての上に、桜の花びらはどこまでも降り注いでいた。優しい囁き声と共に、風が吹き抜けていった。

 何も考えず、小鳥はスケッチブックを膝の上に広げた。鉛筆を走らせ、門と塀と桜の木の輪郭をさっとうつしとる。その上に、無数の点を散らしていく。

(何かが足りない)

 描きながら小鳥は思った。この絵には、何かが欠けている。小鳥の夢想よりはるかに心を休ませてくれる風景だけど、中身の入っていない贈り物の箱のような美しい虚無感が漂っていた。

 手をとめて考え込んだ小鳥の後ろで、パキンと枝を踏む音がした。小鳥はびくりとして振り返った。


 そこに、彼は立っていた。


 小鳥は硬直し、目の前の少年をただ見つめていた。頭の中が真っ白で何も考えられない。相手の顔に浮かんだ驚きが、こちらの心に移ってきたという感じだ。少年は背が高く、ほっそりしていて、色白で、優しげな顔立ちをしていた。黒い学生服を着ていたが、小鳥よりは年上に見える。動転していた小鳥には、彼が幽霊かあやかしのように思えたが、よく見ると少年はスニーカーを履いて片手にコンビニの袋を下げていた。

 だんだん気分が落ち着いてくると、小鳥は自分の姿を意識しはじめた。ひどく痩せていて、制服のまま地面に座り込んでいる。手足と首の細さを恥ずかしいと思ったのは初めてだった。

 ややあって、少年が口を開いた。

「うちの絵を描いてたの?」

 五月の雨のような、柔らかくしみいる声だった。小鳥はまだ動けないでいた。少年は小鳥に歩み寄り、広げたままのスケッチブックを見つめた。そして、無言で手を差し出した。小鳥は彼の白い手につかまり立ち上がる。並ぶと少年の方が頭一つ分背が高かった。少年は小鳥の手をひき、ぐらついている門戸を慣れた動作でおした。ギイッと音がして、門が開いた。

 少年は振り向き、湖面のように深く澄んだひとみで小鳥を見つめた。そして言った。

「どうぞ」

 小鳥は黙って少年の後に続き、屋敷の庭に足を踏み入れた。


 香りの強い庭だった。ラベンダーやハーブがこんもりと生い茂り、バラや芍薬が好き放題に顔を出している。

 小鳥は、母の好きだったフレーバーティーを思い出した。

「どうかした?」

 口元をぱっと手で覆った小鳥に、少年が尋ねた。ひそやかで深いその声を聞いた途端、小鳥の不快感は嘘のように霧散した。

「大丈夫」

 かさかさにささくれだった喉から、細く高い声が出た。少年は、「そう」と言って頷いたが、目を逸らそうとはしなかった。立ち止まったまま訊ねた。

「きみ、名前は?」

「園崎小鳥」

「…小さい鳥?」

「そう」

 少年は軽く目を見開き、微笑んだ。雲の切れ間から差し込む光のようだった。

「それじゃあ僕は、家の前で可愛い小鳥を拾ったんだね」

 小鳥。自分の名前が、少年の唇によって紡がれた。ただそれだけで、小鳥の胸がぱっと熱くなった。少年は微笑んだまま、続けた。

「僕の名前は、神山薙かみやまなぎ


 薙が扉に重たそうな鍵を差し込んだ時、小鳥は微かな違和感を覚えた。長い年月に浮き出した木目の光沢が、先ほど遠めに屋敷を見た時と明らかに異なる気がしたのだ。よく磨かれ、使い込まれた物特有の滑らかな輝き。絵を描く小鳥は、そうしたことに関しては鋭い観察眼を持っていた。

「ただいま」

 薙が声をかけながら扉を開けた。屋敷の中は意外に明るかった。沢山ある窓から、光をたっぷりと取り入れているからだろう。薙はずっと握っていた小鳥の手を離し、廊下に立っていた黒髪の女性に小鳥を紹介した。

「母さん、小鳥だよ」

 小鳥は軽く頭を下げた。長い髪を蘇芳色の着物にたらした女性は、アーモンド形の大きなひとみでじっと小鳥を見つめた。小鳥の熾火のような心臓も、すかすかになった骨と肉も、自分にさえ不透明な心の内側までも見透かされそうなひとみだった。ややあって、女性は口を開き、ひんやりと柔らかな声で言った。

「何のご用でいらしたの?」

「絵を描きに」

 自分でも驚くほどすんなりと、答えは飛び出した。小鳥は女性を見つめ、強い渇望を弱弱しい声に絡ませて押し出した。

「この家と、庭と、あなた達の絵を描きたいんです。私の思うままに」

 女性は微かに吐息を漏らした。嬉しそうでもあり、寂しそうでもあった。そうして、言った。

「なら、お描きなさい。薙、屋敷を案内して差し上げて」


 屋敷には、沢山の扉と廊下があった。薙は片っ端からそれらの扉を開け、中を見せてくれた。小鳥は息を飲み、小さく声を上げ、そうして少しでも心を動かされたものがあればスケッチブックにそれらを描きとめた。鉛筆で輪郭をうつし、陰影をつけただけの、しかし繊細で精緻な絵が、白い紙を瞬く間に埋めていく。ページを埋め尽くす大きな絵もあれば、小さな家具をいくつも書き散らしたページもあった。白いレースを幾重にも重ねた天蓋付きの寝台。ライオンの形をした瀬戸物の花瓶。古めかしい出窓の向こうに見える景色。

 それから、薙の絵も何枚も描いた。

「動かないで」

 小鳥がそう言うと、何をしている時であっても薙はぴたりと止まってみせた。扉の取っ手に手をかける姿、階段を下りながらほんの少し上を向いて光に目を細める姿。柔らかな質感の黒髪、長い睫毛、ほっそりした手を、小鳥は細心の注意をはらってスケッチする。初対面の、会ったばかりの人にあつかましいお願いをしている恥ずかしさは微塵も湧かなかった。

「そろそろ帰るといい」

 三階の最後の部屋を出て、小鳥のスケッチブックの紙が尽きた時、薙が無造作に言った。小鳥は呆然として彼を見つめ、それからふいに泣き出したくなった。羽のように軽やかに全てを描き出していた鉛筆が、重たくてたまらなくなる。わずかに速くなった小鳥の呼吸に気づいているのかいないのか、薙は付け足した。

「明日またおいで。明後日も、その次の日も。小鳥の望む限り、僕らはここにいることにしたから」

 呼吸が再び楽になった。小鳥は素直に頷き、スケッチブックとペンケースを鞄にしまった。薙は小鳥の手をとり、両手で包みこむ。軽く持ち上げられ、小鳥は彼がそこに口づけるつもりかと思った。それからそんなことを夢想した自分が、恥ずかしくてたまらなくなった。

 薙は片手を離し、階段を下りていく。薙の母親の姿は消えていたが、どこからか微かにピアノの音色が流れてきていた。秋の空を渡る雁の群れのように、つれづれと切なく響く音色だった。いつのまにか、金色の西日が光の滝となって木の床に降り注いでいる。

 薙は小鳥の手を玄関扉の取っ手に乗せ、くっきりと浮いた青い血管を指でなぞってから手を離した。小鳥は扉を開けず、黙って薙を見つめた。言葉が喉につっかえた。薙の姿に小鳥が感じるもの、惹かれる理由は、絵に描くにはあからさますぎたのだ。伝えたくても伝えられない。水と食べ物を拒絶するのと同じくらいの強さで、小鳥は欲する。

 ふれたい。

「薙」

 小鳥は囁いた。薙は澄んだ微笑みを浮かべ、小鳥の背に軽やかに触れて彼女を黄昏の時間の中へ送り出した。




「なぜあの時、私をすんなり家に入れてくれたの?」

「きみの絵がとても上手だったから。僕は人間の生み出す美しいものが好きなんだ。小鳥は絵を習っているの?」

「学校では美術部。でもうんと小さなころから絵を描いていたわ。好きなの。自分の好きなものだけが存在する世界にいられるから。私は、人間の生み出す汚いものが嫌い」

「小鳥の好きなものと嫌いなものは?」

「嫌いなのは、学校と、クラスと、家と、母親と、食事。私を汚くするから嫌い。すきなのは、私をきれいにしてくれる、絵を描くことと…それから…」

「絵を描くことと、それから何?それは今、きみの頬を紅くさせているもの?今、きみのひとみに映っているもの?」

「言えない。言いたくない。薙の好きなものと嫌いなものは何?」

「好きなものは、光。風。人間の生み出す美しいもの。それと、」

「何?」

「傷ついて道に落ちていた小さな鳥」


「薙、なぎ、お帰りなさい。あなたのお母さまの絵を描いたのよ。ピアノを聴かせてもらったから、お礼に。見て」

「本当だ、よく描けているね。母も喜んでいるよ。あまり表情に出ないけれど。きみが絵に描いたものは、みんな魂を得て生き返る。気づいていた?」

「私の絵はそんなたいそうなものじゃないわ。ただ描きたくてたまらないから描くだけ。ここには描きたいものがたくさんあるわ」

「気分はどう?昨日、貧血を起こしただろう」

「集中しすぎてたの。それだけ。あんなの何でもないわ。ここで絵を描いてると、全然疲れないの。描く力がどんどん湧いてくる」

「そうだね。きみがこの屋敷に生命を吹き込んでいるから、かわりにきみの魂を癒してくれているんだよ」

「薙。私、ファンタジーは苦手なんだけど」

「事実をファンタジーとは呼ばないよ。でも、きみが受け入れられないなら、そうだね、比喩表現だとでも言おうか」


「小鳥、少し休んだ方が良い。顔が死人みたいに真っ青だよ。今日はもう充分描いたはずだ」

「私は普通よ。元気よ。死人なんかじゃないわ。何でそんなひどいことを言うの?もっと絵を描きたいの。ねえ、鉛筆を返して」

「明日になったら、また描けばいい。今日は、代わりに僕とゲームをしよう」

「ゲーム…?」

「秘密を一つずつ教えあうんだ。選りすぐりの。僕と母の正体を教えてあげる。きみの苦手な比喩表現を使ってね」

「…明日は好きなだけ描かせてくれる?」

「約束する。ほら、鉛筆を返すよ。それじゃ、まずはきみから話して」

「…私の秘密は、あまり楽しくないわ。一つしかないし。私はね、汚れているの。とっても。

 信じられないって顔をするのね。本当のことよ。生きているだけで汚れていくの。母がね、そう言ったのよ。父が荷物をまとめてあの女の人の所へ行った夜に、お酒を飲んで泣きながら言ったの。ママは汚れてしまった。パパを愛していたせいで。でも一番可哀想なのはあなた。二人分の汚れを背負って生まれてきたのだもの。あなたの息や、匂いや、あなたの口に入るものまで、ママには汚れてみえるわ。可哀想な子、できるだけ綺麗になれるよう生きなさい。あなたは内側から汚れているんだから、って…。

 ごめんなさい、こんな話をして。楽しくない話なのにね」

「いいんだ。きみはここで羽を休ませている小鳥なんだから、ぼくの前では何を言ってもいいんだよ。気にしないで。

 次は僕の番だ。小鳥が好きになれる、美しい比喩表現を使って話をしよう。もっとも、これは本当の話なのだけれど。

 人間の肩甲骨は翼のなごりだと、小鳥は知っていた?古い言い伝え。大昔、人間の肩からは二枚の翼が生えていたんだ。そして、進化の過程でそれを失った。

 けれど、失わなかった種族がいた。有翼ゆうよくの民。空を自由に翔け、j鳥と同じ鋭い感覚を持つ。僕と母も、その民の一員なんだ。

 そうだよ、小鳥。今、僕達は翼を持っていない。長いこと旅をしてきたから、ひどく弱ってしまったんだ。それで、この地で少し休んでいるんだよ。でもまた、いつか旅に出る。渡り鳥のように、生きていく。どこまでも、いつまでも。

 僕と母は、人間じゃない。有翼の民だ」




 鞄に手をのせ、小鳥はいつものように上の空で終礼をやり過ごしていた。朝から今まで彼に焦がれ続け、放課後はあの屋敷を訪れて幸福なひと時を過ごし、門を出たとたんもう翌日の再会を夢見ている。

 ふれたい。描きたい。

 言葉にするとたった二言の衝動が、小鳥の全身を占めている。校医に言われたことが気になるから、死なないよう朝昼晩と水道水だけはしぶしぶ飲んでいるけれど、今の小鳥を生かしているのは薙への思慕だった。

 会いたいという思いが心臓を動かし、逢瀬のひと時を追憶するために脳は作動する。箸を持つように鉛筆や絵筆をとり、ご飯をかきこむ代わりに絵を描いた。はじめに描いた桜の絵には、とっくに薙の姿が描きくわえられていた。

 終礼が終わり、担任が教室から消えたことにも小鳥は気づかなかった。我に返ったのは、バケツ入りの墨汁を頭からかけられた時だった。びしょ濡れの鞄と小鳥の身体が、同時に床へ叩きつけられる。黒い液体をしたたらせ、小鳥は呆然として目の前の少女を見つめた。

「絵のかわりよ。あんた最近学校で描かないから」

 整った顔立ちの、背の高い少女は冷えた声で言った。人形のような無表情で小鳥の鞄を拾い上げ、逆さに振る。マニキュアを塗った指がずぶ濡れのスケッチブックをつかんだ時、小鳥の喉から悲鳴が上がった。

「お願い、それだけはやめて!」

 人形少女は答える代わりに、飛びついてきた小鳥を蹴り飛ばした。吹っ飛ばされた瞬間に、椅子に額がぶつかり、血が流れだす。人形少女はその様子にまるで頓着せず、無造作にスケッチブックをめくった。小鳥はあえぎながら身を起こし、懇願した。

「お願い、返して。それだけは汚さないで。なんでもするから」

 人形少女の冷えきったひとみに、感情が浮かんだ。昏い悦びの色だった。

「今日は素直ね。いつもそうしてればいいのよ。あんたなんか何の価値もない、ただのクズなんだから。そうやって骸骨みたいな格好して、同情をひこうとするんじゃないわよ。私の言うとおりに地面に這いつくばってればいいのよ。ほら、復唱してみなさいよ、土下座して」

 小鳥は床に両手をつき、震える声で復唱する。全身が灰色と黒と赤のまだらに染まり、濡れた衣服が骨の浮いた薄い身体の稜線を露わにする。長い髪が罪人を縛る縄のように絡みつく。その小鳥を、すらりとした手足を組んで面白そうに見下ろす美しい人形少女。異様な光景を、しかしクラスの誰も咎めようとしない。

 一か月、小鳥が急激にやせ衰えだすのと同時に始まったいじめは、陰湿で執拗だった。小鳥の持ち物や衣類はカッターで見えない部分を毎日裂かれ、教科書は隠され続けた。小鳥本人も生傷が絶えず、机の中にはいつでも胸の悪くなるようなものが入っている。虫の死骸、腐った食べ物、赤いインクでびっしりと悪口がかかれたメモ。小鳥は誰にも何も言わず、黙ってその全てに耐えていた。涙を零すこともなかった。そしてそれが、人形少女を苛立たせた。

 じわじわとエスカレートしてゆくいじめを、けれど小鳥は憎みも恨みもしていなかった。とてもつらかったけれど、汚れている自分に対する罰だと固く信じてさえいれば、祈りにも似た敬虔な気持ちで耐えることができた。人形少女がクラスの支配者で、逆らえば次は自分の番だと分かっているからこそ、吐きそうなのをこらえていじめを黙認しているクラスメイト達を、憐れんでもいた。それに、いじめを許容しようと努力することで、嵐のような空腹感からわずかに気を逸らすことができた。

 一つ一つの思いが走馬灯のように駆け巡り、小鳥は何とかいつもの静まり返った心に返ろうとした。が、大切な絵を奪われ汚されることへの恐怖は、もうどうしようもなく膨れ上がり小鳥を飲み込もうとしていた。

 それは、小鳥が初めていじめに対して感じた反抗心でもあった。

 人形少女は茶色く染めた長い髪を振り、スケッチブックを弄びながら微笑んだ。昏い、けれど美しい笑みだった。

「何でもするのね?じゃあ、もう立たないで。四つん這いになって、私の靴の裏を舐めて。それから……」

 続けて人形少女が口にしたのは、見ないふりをしていたクラスメイト達さえ凍りつくような屈辱的な言葉だった。最も無神経で鈍感な者さえ、耳まで赤くなるような、小鳥の人としての尊厳を正面から踏みにじる言葉だった。それができたら、これは返してあげてもいいわよ。そう言って、人形少女は艶然と微笑んだ。

 どんなに苛烈ないじめをも黙って許容してきた小鳥が、灰色の筋をひく顔をゆっくりと上げた。やせ細って逆三角形に尖った顔には、凄絶な表情が浮かんでいた。

 唇を強く引き結び、目を爛々と光らせて、小鳥は猫のように人形少女に飛びかかった。

 思いがけない反撃を受け、人形少女は寄りかかっていた机から転げ落ちる。その手の中の物に、小鳥が両手を伸ばす。怒りと憎悪に煮えたぎった声を上げ、人形少女は固めた拳を小鳥の髪の中に思いきり叩きつけた。

 周囲の悲鳴が耳鳴りに変わる。小鳥はようやく取り戻した大切なスケッチブックを胸に抱きしめる。深い安堵と激しい吐き気に同時に襲われた瞬間、頭部に割れるような激痛が走った。

 世界が暗転し、小鳥は闇の中へ落ちていった。




 白百合の蕾を、日の光が滑りおちる。散り終わった桜の枝から新芽が萌えでて、ごつごつした黒い枝をそっとくるみこむ。

 いつもと同じ、いやますます美しく無垢な輝きを放つ庭を前に、小鳥は立ちすくんだ。今の自分はあまりにこの屋敷に似つかわしくないように思えて、どうしても足が動かなかった。

(もう絵を描くこともできない…)

 未練がましく胸に抱いたままのスケッチブックはずぶ濡れで、ページはふやけて波打ち、絵は見る影もなくなっていた。まるで自分自身のようだと思いながら、小鳥はぼろぼろになった服をぼんやりと見下ろした。

「小鳥」

 月の光のように清廉で、日の光のように温かく柔らかい声が、小鳥をふわりと包み込んだ。小鳥は虚ろな顔でゆっくりと振り向く。学生服を身につけ、ペットボトルがのぞく買い物袋を提げた薙が立っていた。ほんの少し眉をひそめている。澄んだ美しいひとみに小鳥が映る。腕と顔にいくつもの青あざをこしらえ、乱れた髪と服を直すこともせず、全身を灰色と赤に汚した小鳥を。

 小鳥は深く俯いてしまった。薙は小鳥の手から鞄とスケッチブックをとり、子供をあやすような手つきで小鳥の肩を抱いた。

「中に入ろう。母の服を貸してもらおう」

 いつもと同じ、静かな声で言う。母鳥の翼にかくまわれて嵐を逃れる雛鳥のように、小鳥は薙にもたれたまま門をくぐった。


 意外なことに、薙の母は洋服を持っていた。やや古風な雰囲気の白いワンピースに着替え、小鳥が天蓋付きの寝台に腰かけるのを見届けると、薙の母は微かな笑みを見せて無言で部屋を出て行った。入れ替わりに薙が入ってきた。湯気の立つカップを二つ手にしている。寝台の脇の小さな卓にそれらをのせ、薙は小鳥の隣に腰かけた。

 小鳥は、薙を見ていなかった。薙の目は小鳥の視線を追い、きちんと畳まれた制服の上に置かれたスケッチブックにとまった。それだけで、薙は何かを理解したようだった。

「…ようやく回復しかけた小鳥の羽根を、誰かがむしったんだね。愚かな、浅はかな人間の仕業だ」

 声にわずかに氷の刃の響きをのせて言い、カップの一つをとって唇にあてる。漂う湯気が小鳥の鼻をかすめた。林檎の紅茶の甘い香りがした。すっと身を引き、小鳥はかすれた声で呟いた。

「回復する日がくるなんて思えない。罰を受けながら、汚いものを取り入れない身体のままで、ずっとここで絵を描いていたいわ」

「でもきみは、いつかは翔べるようにならなきゃ。僕らみたいに」

 薙は静かに言って立ち上がった。部屋の隅に置かれていた蓄音機に触れる。レコードに針を落とすと、雑音混じりに音楽が流れだした。古いジャズ音楽。甘い旋律が、広い部屋に満ちてゆく。

「小鳥、ワルツは踊れる?」

 唐突に尋ねられ、小鳥は思わず薙を見た。そして、そのいたずらっぽい笑みにひきこまれるように答えた。

「体育の授業で、一回だけ習ったけど…」

「なら、踊ろう。そろそろ小鳥も、翔びかたを練習する時だよ」

 この曲は三拍子なんだよ。そう言って、薙は小鳥を手招きした。小鳥は驚き、それからしり込みした。

「無理よ、きっと踊れないわ。体育も見学してばかりなの」

「大丈夫だよ。きみは元々翼を持つ小鳥なんだから、きっと翔びかたを覚えているはずだ」

「…ワルツは翼じゃなく足でするものよ」

「少し元気が戻ってきたね」

 薙が笑い、小鳥は思わず口をおさえる。お喋りしているうちに、頭痛はだいぶおさまってきていた。薙は部屋の真ん中に立ち、優しい目で小鳥を見つめている。おいで、というように手を差し出され、小鳥はゆっくりと立ち上がった。吸い込まれるように、彼に近づく。空っぽの胃が疼き、薄っぺらい胸を心臓が激しく叩いている。小鳥の手に重なった薙の手は、すべすべしていて温かかった。

 長い腕で、薙は小鳥の折れそうに細い腰をゆったりと支えた。自分の髪が一房、彼の腕と肩にかかっていることに気づき、小鳥は顔から火が出そうな思いをした。薙の方はまるで頓着しない様子で、ゆっくりと回り始めた。

 最初は、彼の足を踏まないようにとそればかり考えていた。けれど記憶の中から何とかステップを引っ張り出し、緩やかな三拍子に身体が慣れてくるにつれて、気にならなくなった。

 そのかわり、別のことが小鳥をとらえてやまなかった。ぴったりと密着した身体、間近に影をおとす長い睫毛、優しく絡んだ長い指、そして彼をどうしようもなく意識している自分の心。繰り返し絵に描いたはずなのになおも謎めいている薙という少年を、小鳥は心のキャンパスにひそかに写しとる。

 胸が切なく甘く疼く。この感情を何と呼ぶのか、それに気づくほど小鳥はまだ心を開ききってはいなかった。

「そんなに緊張しないで。力を抜いて、ただ音楽に身を任せればいい」

 肩を強張らせている小鳥に、薙がくすっと笑って言った。小鳥はなんとか息を整え、薙の手に導かれるままにゆっくりと身体を回す。

「どうしてこれが、『翔びかた』の練習なの?翔ぶって比喩表現なんでしょ?」

「知らなかったの?踊ることは、翔ぶことに一番似ているんだよ。羨望で胸を一杯にして、心を解放し、旋律に乗ってくるくる回る。音楽は風と同じだって、よく思うんだ」

「でも人は翔べないわ」

 薙は苦笑し、大きく一歩を踏み出して小鳥をひと息に回転させた。小さく悲鳴を上げた小鳥のつま先が宙に浮き、薙の手で腰を強く引き寄せられてふわりと舞う。小鳥が眩暈を起こす前に、薙は小鳥を地面に下ろしてくれた。

「ほら、今きみは翔んだよ」

 くすくす笑う薙を、小鳥は呆然として見上げた。今日の彼は、いつもより機嫌がいい。強く抱えられた背骨のあたりから、熱と鼓動が伝わり、波のように広がっていく。絵に没頭している時しかやってこないきらめきが、小鳥の胸に満ちている。音楽は途切れずに鳴り続け、二人は踊り続けた。

 小さな鳥さん、と薙は顔を近づけて語りかけた。

「今だけ、きみが絵を描く時の想像力を呼び起こして。その現実主義を捨てて、信じてみて。僕は翔ぶことを知っている有翼の民で、きみはかつて翔ぶことを知っていた小鳥なんだと」

 小鳥は薙のひとみを見つめ返した。吸い込まれそうになるのをやっとのことでこらえて、小さく小さく囁き返した。

「…やってみるわ」

 薙は嬉しそうに微笑んだ。これ以上彼に意識を奪われたくなくて、小鳥は目を閉じた。吐息がかかりそうなほど近くにある美しい顔と、湖のひとみに映る自分が消え、二人が分ちあっている温もりだけが世界の全てになった。

 甘く優しい音色が、子守唄のように小鳥の外側と内側の両方で鳴り響く。肌をとおして感じる二つの心音が、一つに溶けあう。

 いつしか小鳥は何も考えずに足を動かし、やすやすと踊っていた。目を閉じていても、周囲の気配が手にとるように分かる。頬を撫でる空気の動き、身体をくるむ日光の熱の変化が感じとれる。飢餓さえも今は遠かった。小鳥の心は、光と風に乗って外へと彷徨いで、庭を漂う。花びらに零れる光、葉っぱを揺らす風に、心が溶けあう。

 小鳥は目を開き、薙を見つめた。息遣いが微かに荒くなり、唇は震えていた。手のひらにかいた汗と、まとった衣服の重みが、命綱のように感じられる。小鳥の身も心も解き放ち、軽やかに舞うことを教えた少年の背に翼はなかったけれど、彼のひとみを見た小鳥は、彼も自分と同じ体験をしていたのだと確信した。




 その日、小鳥が家路についたのはいつもより遅い時刻だった。きれいに乾いた制服は肌にすぐ馴染み、墨汁の染みもきちんと洗濯すれば問題なくとれるだろうと思われた。けれど、小鳥にはもうそれだけの気力が残っていなかった。

 小鳥の胸にはスケッチブックが再び抱えられていた。俯いて歩く小鳥は、汗をかくほど踊っていたというのに、薙がどれほど勧めても一口も紅茶を飲まないままだった。

 彼と踊ったひと時は、確かに素晴らしく、また神秘的な体験だった。けれど終わってしまえば、それは小鳥に虚しさと悲しみしか残さなかった。

(人が空を翔べるわけがない。あれはきっと、ただの錯覚。どうしてあんなに幸せだと思ってしまったんだろう。私は、幸せになっちゃいけないのに。私は、汚れてる。ママを苦しめてる。何も食べないで、何も汚さないで生きたいのに)

 涙が溢れそうになり、小鳥は洞窟のように暗く虚ろな胸をきつくおさえた。薙は確かに、小鳥にとっての光だ。小鳥が見失った幸福を垣間見せてくれる。好きなだけ絵を描かせてくれる。

 けれどそれは、彼のいない現実の闇の深さを、小鳥に思い知らせる残酷な行為でもあった。あの屋敷で小鳥が過ごすことを許された時間はほんのわずかで、それ以外は絶え間ない飢餓といじめに耐えながら、小鳥は生きなければならないのだから。

(けれどやっぱり、私はあのお屋敷にいたい。薙と一緒にいたい。比喩でもいい、汚れた人間の女の子じゃなくて、怪我をした小鳥のままでいれば、私は薙とずっと一緒にいられるのかな…)

 そう考えながら角を曲がろうとしたとき、ふいに小鳥の膝がかくんと折れた。

 目の前が真っ暗になり、手足が冷たくなったかと思うと、感覚が消えていく。心臓が縮んで、下へ下へと引っ張られる。小鳥は必死に腕を持ち上げようとしたが、身体のコントロールが全くきかなかった。いつもの眩暈と、何かが違う。吐き気も痛みもなく、ひたすらに果てしない闇の底へ引きずり込まれていく。色も音もなく、温もりもない、昏い闇。激しい恐怖が小鳥を襲った。

(いや、死にたくない。助けて…!)

 小鳥は声もなく絶叫した。

 それは、始まりと同じように唐突に終わった。

 眩しい光が目を射る。小鳥は、道路に突っ伏して倒れていた。まだ全身が氷のように冷たく、心臓は突き破りそうに激しく胸を叩いている。

 小鳥は、土気色で骨と皮ばかりの腕を呆然と見つめた。それから、その両腕で、震える身体を抱きしめた。起き上がろうとすると、お腹がきりきりと痛んだ。

 時間をかけ、近くの電柱にすがりつくようにして、小鳥はなんとか立ち上がった。強張った足を引きずりながら、よろよろと歩いていった。




 保健室の先生は、シャッと音を立ててカーテンを引いた。そうして、ベッドの脇の丸椅子に腰を下ろし、優しく話しかけた。

「さあ、少しは落ち着いた?しばらく眠るといいわ」

 小鳥は掛布団から半分だけ顔を覗かせ、小さく頷いた。三日も続けて気を失い、ここに運び込まれたことを心底恥ずかしく思っていたし、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。小鳥が保健室で睡眠をとり、なんとか帰宅する体力を回復するまで、先生はずっと傍に居てくれた。それだけで、小鳥は不思議なくらい安心してぐっすり眠ることができた。

「校医の先生から預かっているお薬があるの。飲めるようなら、朝と夜に一度ずつ、一粒ずつ服用してみて。水分は、ちゃんと摂れている?」

 先生は小鳥の顔を覗き込む。小鳥はぼんやりと頷いた。その時考えていたのは、今日はあのお屋敷に寄れるだろうかということだった。ここ数日、薙に会えていない。人形少女のいじめがますますエスカレートし、小鳥は帰り路で待ち伏せされて暴力をふるわれるようになっていた。数人の男子に人気のない公園やゴミ置き場に連れ込まれ、起き上がれなくなるまで拳や足をふるわれる。いつもその場にいる人形少女は、決して満足していない。苛立たし気に、もっとやれと命じる。小鳥の身体はいよいよやせ衰え、あと少しでも乱暴に扱われたら粉々に砕け散ってしまいそうだった。その脆さには、自分達のうっ憤を晴らす丁度いい玩具くらいにしか小鳥を見ていない少年たちさえ怖気づくものがあった。小鳥は彼らに少しも抵抗せず、悲鳴すらろくに上げず、硝子玉のようなひとみで遠くを見ていた。

 そういった事情を、保健室の先生は知らなかったが、心から小鳥を気遣って彼女の額にそっと手を置いた。

「氷みたいに冷たいわ。園崎さんは、普段どうやって水分を摂取しているの?お水?ジュース?」

「普通の、水です」

「一回にどれくらい摂取できている?」

「普通の量です…」

「…摂取する頻度も、普通?」

 小鳥は頷こうとした。が、ふいに喉に熱いものがこみあげてきて、そのまま激しくしゃくりあげながら訴えた。自分でも何を言っているのか分からなかった。

「だって先生、私は汚れているんです。ママの言う通りなんです。昔みたいにいっぱい飲んだり食べたりしたら、全部汚しちゃう…綺麗にならなきゃいけない、私がもっと我慢すれば、きれいにできるはずなのに」

 先生は黙って耳を傾けていた。それから、静かに言った。

「自分が我慢してるって、分かっているのね。それじゃあ、あなたの飲んだり食べたりする量が、普通じゃなくなっているのも、分かるわね」

 小鳥は怯えきった目になった。それから小さく頷き、ますます激しく泣き出した。もうずっと流したことなんかなかった、存在すら忘れていた涙が、とめどなく溢れて頬を熱く濡らした。その涙は、昏く淀んでいた心に空いた風穴から溢れてくるみたいだった。

 先生は、小鳥が少し落ち着くまで、小鳥の枯れ枝のような手をずっと握っていた。窓の外から、ホイッスルの音色が微かに聞こえていた。

 小鳥の慟哭がすすり泣きにかわると、先生は立ち上がってデスクの方へ行った。酷使した喉がいがらっぽくて気持ち悪かったので、小鳥は傍に置いてあったグラスをつかみ、中の水を飲んだ。一口、二口と飲み、とうとう全てを飲み干した。

 戻ってきた先生は、空になっているグラスにはわざと目をくれず、小鳥にハンカチを渡した。そして、椅子に腰かけると静かに尋ねた。

「おうちに、お母さんは今いる?」

 小鳥は弱弱しく首を横に振った。

「そう。どこにいらっしゃるのかしら?」

 小鳥の目から、また新しい涙がこぼれた。けれど、口はするりと動いていた。心に空いた風穴から、涙と一緒におしこめていた言葉が溢れてくる。清々しい朝の空気を求めてのたくった灰色の霧のように。けれど、小鳥にはもうとめられなかった。どんなに食事を減らしても暗く濁ったままだった胸の中が、嘘みたいに軽くなってゆく。

「ママは出て行ったの。パパがあの人の所に行った夜。少しでも綺麗になりなさいって私に言って。だから、私は…」

 小鳥の声が弱弱しく消える。けれど先生は、追い打ちをかけるように尋ねた。

「お母さんは、綺麗だった?」

 小鳥の落ちくぼんだ目が、大きく見開かれた。小鳥は震える身体にきつく毛布を巻きつけた。せわしなく寝返りを打ち、手を噛んだ。彼女が答えを出すまでそれを見守っていた先生の目には、小鳥が内心で繰り広げている葛藤が見えていた。

 ついに小鳥は、絞り出すように囁いた。

「いいえ。あの夜は、そうじゃありませんでした」

 そして、再び声を上げて泣いた。



 先生は、小鳥が泣き疲れて眠ってしまうまで、傍について見守っていた。小鳥は目を閉じ、動かなかった。けれど、もう寝入ったのかと先生が思った瞬間、ぱっちりと目を開けて、細い声で訊ねた。

「先生。私、死ぬんですか?」

 先生は胸をつかれた。それから、自分にできる限りの優しさと誠意をこめた声で答えた。

「いいえ。拒食症を克服して、何十年も元気に生きている人はたくさんいるわ。あなたにその気があれば、完治させることはできるのよ」

 小鳥の大きなひとみに宿っていた底知れない影が、その瞬間ふっと消えた。

 小鳥の息が深くなり、安定したリズムになるまで、先生は辛抱強く待った。待っている間、少女の顔を憐れみをこめて見つめていた。校医から、園崎小鳥は拒食症の可能性が高いと報告を受けて以来、先生は彼女を注意深く見守ってきた。ここしばらく、小鳥は急激に痩せ、目の下には青い隈が浮き出してきた。肩甲骨と肘と膝の骨は飛び出し、危険なほど筋肉が落ちている。だがそれでも、頬骨の下に微かに残ったえくぼや、柔らかな稜線を描く唇の形に、かつての健やかでのびやかな少女の面影をまだ見出すことができた。

 小鳥を起こさないよう静かにデスクへ戻った先生は、電話をかけた。

「もしもし、田中先生ですか?園崎小鳥さんの件ですが、そろそろこちらで対処を考えるべきだと思います。ええ、はい。何よりまず、彼女の家族に連絡をとらなくては…いいえ、母親は家出したそうです。…それは、校医の田中先生に心配をかけたくなくて、彼女がそう言ったんだと思います。…はい、それでよろしくお願いします」




 それから数日で、小鳥の生活は激変した。小鳥は献立表なるものを渡され、それに従って食事をとるよう言われた。小鳥は恐ろしそうな顔で、プリントされた活字を見やった。グレープフルーツを2切れ、トマトを2切れ。にぼしが5匹。刻んだベーコンを100グラム。牛乳を1杯。一日の食事は、それが全てだったが、それでも小鳥には多すぎた。小鳥は、朝食にグレープフルーツを1切れ食べ、昼食に水を1杯飲んだ。それが精いっぱいだった。

 保健室で大泣きしてから、小鳥は一度も薙に会いに行っていない。新しい絵も、描いていない。放課後が保健室でのカウンセリングにあてられ、忙しくなったせいもある。だが、それが本当の理由ではないことに、小鳥は何となく気づいていた。絵筆に託していた思いを、言葉で表現することを思いだしたのだ。

 小鳥はもう、自分の腕を噛まなくなった。

 いじめはぱたりと止んだ。小鳥の病気がクラスでも職員会議でも公にされて以来、人形少女さえ機会をつかみあぐねていた。今までおどおどして目立たなかった小鳥に、教師達が注目するようになったからだ。人形少女は、陶器のように白く滑らかな足を組み、苛立ちと憎しみに青白く燃える目で小鳥をじっと見張っていた。小鳥は、ただぼんやりと俯いていた。

 そして、叔母がやって来た。




 その日家に帰ると、家の前に見知らぬ女性が立っていた。家には、小さな明かりが灯っている。小鳥は足をとめ、鞄を胸元に引き寄せた。が、好奇心には勝てず、その女性をじっと見つめた。泥棒ではなさそうだ。地味なワンピースを身につけ、焦げ茶色の髪を一つに束ねている。ほっそりした顔の輪郭、間隔のあいた大きな目に、なぜか小鳥は既視感をおぼえた。胸が苦しくなり、不安が込み上げる。

(この人…似てる…)

 その時、女性が振り向いて小鳥を見つめた。その表情は、安堵から驚愕へ、ついで恐怖へとせわしなく移り変わった。大きなひとみで、小鳥の細すぎる身体を凝視し、なんてこと、と女性は呟いた。

 二人は長い間、見つめあっていた。沈黙を先に破ったのは女性の方だった。

「あなたが小鳥ちゃんね?」

 小鳥は頷いた。女性はぐっと唇を噛み、深々と頭を下げた。

「初めまして。私、あなたのお母さんの妹です。…あなたの、叔母にあたる者です」


 ほったらかしで埃だらけだった家の中は綺麗に掃除され、広くなったように見えるテーブルの上には湯気の立つシチューが置かれていた。

「お台所、全然使ってないみたいだったから、勝手に入らせてもらったの。よかったら食べて、でも、無理はしないでね」

 ぎこちない叔母の声に、小鳥は同じくらいぎこちなくお礼を言ったが、どうしていいのか全く分からなかった。

 二人は向かい合って座った。叔母は落ち着きなく指を組み合わせた。

「あなたの学校から、連絡があったの。保護者が必要な状態だって。私、全然知らなくて…姉さんが、あなたを一人にしてしまったなんて。お義兄さんまで、あんなことに…」

 小鳥は思いきって顔を上げた。叔母は当惑した表情だったが、それでも真っ直ぐに小鳥を見ていた。小鳥は深く息を吸い込んだ。それでも、声は喉につっかえ掠れた。

「母が、今どこでどうしているのか…知っているんですか」

「……病院にいるわ」

 小鳥の身体が大きく痙攣した。叔母は反射的に手を伸ばして小鳥の手を握り、それからまた慌てたように引っ込める。拒食症の少女にどう接していいのか困り果てているのが丸わかりだった。

「…病院」

 小鳥は鸚鵡返しに呟いた。

「小鳥ちゃん、姉さんがここを出て行ったのはいつ?」

 小鳥は日にちを告げた。叔母は一瞬泣きそうな目をし、それから低い声で言った。

「その三日後に、北海道の病院から私に連絡が入ったのよ。それからずっと、私は姉さんの付き添いで北海道にいたの」

「北海道…」

 国内旅行すらしたことのない小鳥には、異国ほどにも遠い地に思えた。叔母はためらいがちに、小鳥の手をとった。小鳥は身体を強張らせたが、振りほどくことはしなかった。

「今まであなたに会いに来られなくて、本当にごめんなさいね。私達をゆるしてちょうだい。ひとりぼっちで、寂しかったでしょう…」

 一つ一つの言葉が、小鳥の胸にお湯のしずくのようにしたたり落ち、柔らかな波紋を広げた。小鳥のひとみから大粒の涙がこぼれた。小鳥は初めて自分から叔母の手を握り返した。この手を、離したくないと思った。小鳥は、ありったけの思いをこめて、囁いた。

「叔母さん…」

 涙の滲んだひとみで微笑み、叔母はぎゅっと小鳥の手を握りしめてくれた。




 家で誰かが待ってくれているというだけで、こんなにも心が安定するのだと、小鳥は実感していた。叔母は小鳥の家に住み、食事を用意し、掃除や洗濯をしてくれた。小鳥と同じで内気な性格らしく、時折どうしたらいいか分からないという目で小鳥を見たが、それは小鳥も同じだった。二人は、時間をかけて少しずつ、お互いに慣れて行った。

 小鳥は学校でももうあまり俯かなくなった。

 食事の量も少しだけ増えた。だが、こちらはそれほど順調にはいかず、心が少しでも動揺するとすぐ元に戻ってしまった。「焦りは禁物です」と、保健室の先生は面談のたびに小鳥の叔母に言った。

 叔母との二人暮らしは、十日ほど続いた。十日目に、小鳥は叔母に連れられて北海道へ発つことを決意した。

「あっちに荷物をほとんど置いてきているの」

 十分の一ほど手がつけられた小鳥の夕食にラップをかけながら、叔母が唐突に言った。小鳥はぽかんとして叔母を見つめた。

「一度戻ろうと思って。姉さんの容態も気になるし。小鳥ちゃん、あなたも一緒に来ない?」

 小鳥はしばらく動けなかった。それから、いきなり身体を大きく震わせた。嵐の中に放り込まれた小鳥のように身体を縮め、小刻みに震え続ける小鳥に、ラップを取り落として叔母が駆け寄った。

「ごめんなさいね、嫌ならいいのよ。あのね、姉さんに会うのはすぐじゃなくていいの。でも、北海道はとてもいい所よ。自然が多くて、空気が綺麗で。あなたの身体にもきっといいと思うの。試しに数週間だけ滞在してみて、小鳥ちゃんが嫌だったら帰ってきましょう。約束するわ」

 小鳥のせわしない息遣いが、少しずつ緩やかになっていった。まだしっかりと自分を抱きしめたままだったが、小鳥はゆるゆると顔を上げ、叔母と目を合わせた。そして、まだ震えながら、それでも囁いた。

「私、行きます」




 園崎小鳥が療養のため休学するという噂は、様々な尾ひれをつけて瞬く間にクラスに広がった。中には、駆け落ちだの植物人間説だの随分無責任な噂も混じっていたが、小鳥は肯定することも否定することもできなかった。学校を休み、荷造りに専念しなければならなかったからだ。

 飛行機のチケットを手配することも、スーツケースに沢山の荷物を詰めることも、小鳥は初めてだった。両親が揃っていた時も、旅行なんかしたことがなかった。それが今、叔母と2人で、新しい遠い地へ旅立とうとしている。

(今まで私は、絵を描くことで生きてきていた。そうすることでしか、自分を表現できなかった。でも…それも、これから変わるのかもしれない)

 小鳥はそう考える。母が何でもやってくれていた頃とも、自分ひとりで完結していた頃とも違い、今は様々なことを叔母に言葉で伝えなくてはならない。少しずつ、少しずつ、言葉で自分を表に出すことを、小鳥は覚えて行った。変わることは新鮮で不安だったけれど、不思議と怖くはなかった。

 洗面所で鏡に向かい、小鳥は腰まである髪を伸ばす。ほったらかしにしていたせいで毛先がばらばらな髪は、けれど美しい艶を帯びていた。

(…美しい)

 小鳥は心の中で呟いた。長いこと、自分に対して使うことを禁じていた言葉だった。小鳥はいつしか手をとめ、鏡の中の自分をじっと観察する。病的に青褪め、氷漬けにされたような硬質感のある肌。骨ばった細い小枝そっくりの手と肩。削げてバランスの悪い顔立ちの中で、濡れたような大きなひとみが怯えた鹿のような眼差しを投げかけてくる。鏡の中の少女は少しも美しくなく、むしろ混沌や昏さを感じさせる生き物に見え、けれど彼女の肩に羽毛のようにかかる漆黒の髪だけが星空のように光っていた。小鳥はそっと髪を撫でた。

(…羽。つばさ。鳥…。小鳥は空を翔ぶものだと言っていた、あの人。それとも、あの時間も、私の夢だったのかしら。何もかも空腹のせいで見た幻だったのかしら)

 小鳥はぼんやりと思いを巡らせた。彼女が空を渡る日まで、あと三日だった。




 園崎小鳥さんは、療養のため明日から北海道に引っ越します。皆さん回復をお祈りしてあげましょう。

 型通りのことを言って担任が出て行くとすぐ、教室は好奇の囁きでいっぱいになった。小鳥の身に起きたことは全て、悲劇的でドラマチックで、とどのつまりほとんどの生徒達にとってはテレビ番組と同じく生々しい他人事でしかなかった。

 ただ一人、人形少女だけが、それを自分にふりかかった出来事として受け止めた。

 セミロングの茶色い髪を振り乱し、人形少女は椅子と机を蹴倒して、一つの空席に駆け寄る。赤いサインペンを握りしめ、机の表面に文字を書き連ね始める彼女の姿に、クラスメイトが一人また一人と気づき、ついに異様なほど完璧な沈黙が教室に落ちた。自分に集まる視線を気にも留めず、人形少女は目を極限まで見開き、びっしりと書き連ねる文字と同じ言葉を呪詛のように呟き続ける。赤い文字が、血の染みのようにじわじわと広がってゆく。




 その晩、小鳥はなかなか寝つけずに窓の外を見ていた。よく晴れた夜で、月は磨かれた鏡のように光り、星々は海のさざ波のように無数の澄んだ光をまき散らしていた。

(私は、空と海を渡る。あの人の…お母さんのいる地へ行く。何が待っているか分からないけど、ただ一つ確かなのは…もしここへ戻ってくることがあっても、私はその時変わっているだろう。今までの私とは全く違う、新しい私に)

 お腹がきゅうっと鳴り、小鳥は物思いから覚めた。今日は久しぶりに何も食べられない日だった。不安は苦痛となり心に流れ込み、修復されきっていない傷だらけの心はその苦痛を肉体に転嫁する。水さえほとんど飲まないことで、小鳥は無意識のうちに心を守ろうとしていた。喉がかさかさして気持ち悪かったが、あまりにも慣れた感覚なので気にもならなかった。

 ベッドの上に、旅行鞄が二つ載っている。小鳥は何気なくその一つを開けてみた。長旅に備えて入れた文庫本のタイトルを確かめておこうと思ったのだ。

 大判の画集や、幼い頃から書き溜めていた何冊ものスケッチブックの間から、小鳥は苦労して本を取り出す。指先の力の加減がうまくできず、あっと思った時には本と一緒に数冊のスケッチブックが床の上にばらばらと落ちていた。

 小鳥は急いでスケッチブックに手を伸ばす。だが、その指先は、触れる直前に震え、止まった。

 棚の奥に押し込んで忘れかけていた、ぼろぼろのスケッチブック。水に浸かったように表紙はぼやけ、ページが波打っている。

 小鳥はゆっくりと、それを開く。

 そこには、小鳥の人生で一番孤独な、昏い時期を唯一照らしてくれたきらめきの全てがあった。

 線がぼやけて駄目になってしまった絵がほとんどだったが、かろうじて見分けのつく絵も何枚かあった。古めかしい天蓋付きの寝台。ライオンの形の花瓶。

 そして、こちらに微笑みかける一人の少年。

 忘れていた、あまりにもあっさりと日常に紛れて忘れ去っていた、切なく甘い痛みが蘇り、小鳥は思わずその絵を胸におしつけた。それからまた離し、食い入るように『彼』の絵を見つめた。痛みと渇望と喜びの全てが、スケッチブックの中で時を止めて、小鳥を待っていたのだ。

(私は、薙に会うためだけに生きていた。今も、会いたい。…このまま、あの人に会わないまま、ここを離れていいの?)

 小鳥は、絵の中の彼に触れ、髪をなぞった。胸を満たす、甘やかな痛み。切ない幸福。闇と光の二面性を持ち、小鳥を虜にする感情。ただ一人の人に強く強く惹かれ、全てを、死さえも超えてひたすらに願う。

 会いたい。触れたい。描きたい。

 あなたのために生きたい。

(それはきっと、恋)

 一条の光が雲を貫いて地に落ちるように、小鳥は静かに確信した。

(私は薙に、恋をしている。そして、この想いを彼に伝えたい)

 一度そう思うと、もう止められなかった。

 小鳥は素早く学生鞄にスケッチブックとペンケースを放り込んだ。寝間着から制服に着替え、髪を丁寧に梳かす。本当はもっとおしゃれしたかったけれど、薙に会いに行く時はいつも制服だったから、それを変えてはいけないような気がした。

 叔母が使っている部屋の前を忍び足で通り過ぎ、リビングの窓から庭へ飛び降りた時、一瞬だけ眩暈がした。息がつまり足がふらついたが、小鳥は何とかやり過ごして道路へ足を踏み出した。

(今しかない。今、この想いを告げに行かなかったら…私、一生後悔する)

 小鳥は月を見上げ、そう思った。人気のない道路はのっぺりと無機質で、無数の暗がりには怪物が潜んでいてもおかしくなさそうなのに、不思議と怖くない。胸のたかぶりをそのままに、小鳥は踊るように軽やかな足取りで走り出した。

 もう眩暈は感じなかった。




 初夏の夜気はしっとりと重く、かぐわしい。時折吹き抜けるひんやりとした風に励まされ、小鳥はなんとか屋敷までたどり着いた。黒々とした桜の大樹を見上げると、郷愁の念が小鳥を襲った。無秩序に植物が生い茂る広い庭からは、夜に咲く花や、閉じた薔薇の花弁の奥から漏れる甘い香りが漂っている。月の光がそこかしこに踊り、庭はあたかも月光と葉陰の舞踏会場のようだった。

 ギイッという音を立てて門戸を押し開け、小鳥は庭に足を踏み入れた。途端に、濃い草いきれに包み込まれる。

 桜の木と薔薇の茂みの間にひっそりと佇む少年の影を見つけた時、小鳥の身体は震え、足はすくんだ。恥じらいと緊張で逃げ出したい気持ちと、どうしようもなく彼に惹かれる気持ちが、心の中で激しい葛藤を繰り広げる。小鳥は唾をのみこみ、一歩一歩彼に近づいた。

「薙」

 その名を口にした瞬間、胸が激しくしめつけられた。少年の影は、ゆっくりと小鳥の方を向いた。月光が、澄んだひとみをあかるく照らし出した。

 五歩ほどの距離を置いて、二人は向かい合った。小鳥はきつく鞄の紐を握りしめた。

「体調はどう?」

 沈黙を破ったのは薙の方だった。小鳥は頷いた。

「だいぶよくなったわ。ずっと来られなくて、ごめんなさい。…ずっと、会いたかった」

 自分でもぎょっとするほど大胆な言葉が飛び出した。薙は微笑んだ。

「そう。僕もだよ」

 その声は以前と少しも変わらず優しかったが、小鳥はなぜか物足りなさを感じた。

「私、明日この街を発つの」

 小鳥は言った。薙は静かに頷いた。

「僕らもだよ」

「…え?」

「僕と母も、この街を離れる。きみが回復したから、用がなくなったんだ」

 小鳥の身体が、突然冷たくなった。

「…嘘。どういうことなの」

「元々こんなに長く一つの場所に滞在する予定ではなかった。傷ついた小鳥をたまたま道で拾ったから、彼女が空を翔べるようになるまではこの街にいようと、母と決めたんだ。でも、僕ら有翼の民は、旅をしてゆくのがさがだから」

「こんな時までそんなわけの分からない比喩表現なんか聞きたくないわ!」

 小鳥は激しく叫んだ。薙は悲しげな表情になって口をつぐむ。小鳥は薙に近づき、夢中で彼の袖をつかんだ。

「どうして、いつも私にはそんな話し方しかしてくれないの。本当のことをはぐらかして、作り話っぽいことばかり…私は、あなたのことが知りたいのに。だから、ずっと絵を描いてきたのに」

 薙は眉を下げ、そっと小鳥の手をつかんだ。

「小鳥にはいつも本当のことを話しているよ。きみが信じないだけだ。自分になじみのないもの、違う世界のものを。きみは、そういうものを、描くことのできる人だと思っていたのに」

 小鳥は触れあった手に視線を落とした。じわじわと忍び寄る恐怖が喉をふさぐ前に、囁くような声で訊ねた。

「…それだけなの?私とあなたの間にあったのは、同情と誤解だけだったの?」

 薙は沈黙したまま、苦しそうに、哀しそうに小鳥を見つめている。小鳥も彼を見つめ返したが、既に二人の手は離れていた。ふいに小鳥は、大声で泣くか笑うかしたくなった。そんな真実を知るためだけに、胸をときめかせて夜中に家を抜け出したなんて、ひどく滑稽に思えたのだった。

 小鳥は息を吸い込んだ。同時に薙も何か言おうとして口を開いた。が、突然その表情が強張り、小鳥が聞いたことのない切羽詰まった叫びが響き渡った。

「小鳥、逃げろっ!」

 え?と思った瞬間、小鳥の身体が宙に浮いた。風を切った肌が、薔薇の棘の中に投げ込まれ、腰と背中に激痛が走り、目の前に無数の星が散る。誰かに突き飛ばされ、目を回しかけている小鳥の耳に、ぞっとするような音が届いた。肉と肉がぶつかりあう音。くぐもったうめき声。鈍い打撃音。ようやく顔を上げた小鳥が見たのは、見覚えのある数人の男子に囲まれ倒れている薙の姿だった。

 大声で叫ばなくては。助けを呼ばなくては。頭ではわかっているのに、恐怖で身体が凍りつく。目の前で繰り広げられる暴力は、少し前の自分の写し身だ。小鳥の中で時間が逆流する。小鳥は怯えて傷つき、自分の殻に閉じこもることでしか身を守る術を知らない無力な少女に戻っていた。

「あんたの代わりよ。あんた最近、学校に来ないから」

 いつかの悪夢のように、残酷なほど落ち着き払った声で現れた人形少女は、這ってでも薙の元へ行こうとする小鳥の前に立ちはだかった。からからに乾いて腫れあがった喉から、小鳥は声を絞り出した。

「薙はやめて。お願い、彼だけは助けて。今度こそ、なんでも言うことを聞くから。あなたは、私の全部を奪って、めちゃくちゃにした…でも彼は関係ないわ」

「めちゃくちゃにされたのはこっちの方よ」

 人形少女のひとみは、土の中のように昏く冷えきっていた。

 小鳥は薙を必死に見つめる。薙はなんの抵抗もせず腹をけられ、腕をひねりあげれられたいた。無言のまま躊躇せず、彼に手足をふるう少年達には、見覚えがあった。人気のない公園で、ごみ置き場で小鳥を見下ろす、表情のない顔の群れ。

「ずっとあんたが嫌いだったわ。自分がこの世で一番不幸みたいな顔して。挙句の果てに死神みたいな格好になって」

 薙が顔を上げ、小鳥を見た。あざができ、血が滲んでもなお美しい顔には、苦痛より切羽詰まった何かが浮かんでいた。端の切れた唇が微かに動く。


 描いて。


「そうやってあんたばかり目立って、生徒も教師も悲劇のヒロイン気取りのあんたなんかに注目して。あたしは悪役扱い。どうせあんたなんか、全部自業自得のくせに。あたしの十分の一も不幸じゃないくせに」


 描いて。ことり。ぼくらにつばさを。命を。あたえて。


「あんたなんか、死んじゃえばいいのよ」

 顔を寄せ、人形少女は囁いた。

 頬を殴られたのにも小鳥はほとんど気づかなかった。薙が再び顔を伏せた。人形少女が、彼の方へ近づいていく。惨劇を照らす月の光は、非常なほど青白く美しい。

 その時、小鳥は屋敷の窓辺に立つ白い人影に気づいた。薙の母が、庭で繰り広げられるおぞましい光景を厳しくうつろな表情で見下ろしている。何をしているの、早く警察を呼んでと、小鳥は叫びだしたくなった。小鳥自身はあまりに無力で、もはや立つことすら覚束ない。目の奥がじんじんと痛み始める。薙の母の黒いひとみが、はっきりと小鳥をとらえた。赤い唇が、小さく動いた。


 描いて。


 ファンタジーも奇跡も、信じてなどいない。ましてやこんな最悪の状況で。それなのに、小鳥は藁にもすがりたい思いで、その心の一番奥に隠されていた柔らかな部分を開き、その言葉を受け入れた。

 力の入らない指先で、落ちていた鞄を引き寄せ、小鳥はスケッチブックと鉛筆を取り出した。人形少女の冷えた声が、身体を容赦なく打つ。

「あんたって弱いのね。あのクズの彼氏だけあるね。でも、あたしに言い寄ってくるどの男よりきれい。どうやって、あんたをあたしのものにしようかな」

 小鳥は、悟った。もはや一刻の猶予も残されていなかった。

(私が、何とかしなきゃ。耐えることも逃げることも、もうできない)

 小鳥は薙を見つめる。シャツは血と泥に汚れ、傷つけられながらまだ力を失ってはおらず、その背中はぴんと張りつめていた。顔は伏せられていても、彼の心が自分を見ているのを小鳥は感じた。


 わだかまった月の光が薙のしなった背で白く輝き、翼のように震える。


 ついに小鳥は理解した。

 スケッチブックを開き、小鳥は最初に目についた彼の絵に鉛筆を押しつけた。

 溶けて広がった隅に陰影を重ねる。柔らかな曲線の重なりを、天へと広げてゆく。極度の緊張のせいで小鳥は脱水症状を起こしかけていたが、ひどい耳鳴りと眩暈にもかかわらず卓越した技術を持つ指は滑らかに素早く動いた。紙を破り取り、小鳥は薙の母の絵にも鉛筆を走らせた。そうして最後に、息も絶え絶えになりながら、二つの絵をぴったりと合わせ、天へ掲げた。


 伏せた目を互いへ向ける、背に二枚の翼を生やした、少年と女性。


 月の光を浴びて絵が輝いた瞬間、空気がざわめいた。水のせせらぎ、鳥の羽ばたき、喜びに満ちたひそやかな囁きが、庭を満たしてゆく。風が小鳥の髪を巻き上げ、スケッチブックをぱらぱらとめくった。

「何?ちょっと、なんなのよ…」

 人形少女の不快そうな、不安そうな声が、突然途絶えた。それから、耳障りな長い悲鳴が響き渡った。あたかも異形の者に遭遇したかのような、圧倒的な恐怖の悲鳴。妖しく美しい庭のざわめきとそれが交差し、絡み合う。その全てを貫いて、鈴を振るような笑い声が響く。小鳥が心から愛した人の、純粋な喜びと冷たい怒りが同居する笑い声だった。

 ぼやけた小鳥の視界には、夢とも現ともつかない、水底から見上げる空のようにゆらめく光景しか映っていなかった。へたりこんでいるいくつもの人影。その前にすっくと立つ、二つの影。その一つの、長く重たい黒髪がゆらゆらと風にたゆたう。

 小鳥の手から、全てが落ちた。身体の渇きは、意識を保っていられる限界をとうに越えていた。ゆっくりと崩れ落ちた小鳥の視界に最後に映ったのは、月光を織り上げたような輝かしい銀色の飛沫に縁どられた翼の影だった。小鳥の耳が最後にとらえたのは、彼のよくとおる声だった。

「有翼の民は、仲間を傷つけた者を決して許さない有翼の民は、己を助けた者を助ける。制裁と癒しの力はその翼に宿る。今、二つの輪は閉じ、そして始まる」

 目を閉じ、完全に意識を失った小鳥を、草と花が守るように優しく包み込んだ。




 広大な砂地が白くきらめく。時折立ち昇る泡だけが、時の存在を教える。

 小鳥は今、海の懐に抱かれて夢を見る巻き貝だった。全てのさざ波と全ての魚の言葉を、小鳥は自らの螺旋の奥に包み隠している。水が彼女の故郷で、光が彼女の夢だった。深い安らぎの中で、小鳥は人の言葉を忘れかけていた。

 ただ一つの単語を除いて。初めて愛を知った、その名前を除いて。

 なぎ。

 遥か遠くで、その名を呟く声がした。同時に、どこにあるかも分からない唇から水が流れ込んできた。温かくしょっぱい海水ではなく、冷たく澄んだ真水だ。はじめにひとみが、ついで皮膚と血の通った肉体が、小鳥に戻ってきた。


 小鳥は庭に横たわり、ぼんやりと月を見上げていた。柔らかなものにふさがれた唇から、命そのもののように水が流れ込んでくる。何も考えず、小鳥はそれをこくこくと嚥下する。そうしてようやく、自分に水を与えているものの正体に気づいた。

 庭にひかれた水道から水を口に含み、薙は小鳥の上に身をかがめた。親鳥から餌をもらう雛のように、小鳥は彼の口から素直に水を飲んだ。何の違和感も、恥じらいさえ今は感じなかった。

 意識がはっきりしてくると、小鳥はゆっくりと身を起こして薙を見つめた。彼の背に今は翼はなく、ただ包み込むような眼差しが小鳥を見つめていた。

「とっても不思議な夢を見たの。私が描いた絵から翼が生き返って、あなたとお母さんが鳥になるの」

 小鳥が呟くと、薙は小さく微笑んだ。

「翼は、今は隠してあるよ。きみが恐がるといけないから」

 小鳥は、彼の唇が重なっていた自分の唇にそっと触れてみる。ふいに心が痛くてたまらなくなかったが、小鳥はあえてそれを無視した。

「あの人達は?」

「帰ったよ。彼女はまだあそこにいるけど」

 小鳥が振り向くと、朽ちた門から人影らしきものがずるずると這い出していくのが見えた。広がった茶色い髪は、獣のたてがみか毛皮のように見える。

「…ずっとあのままなの?」

「朝には夢だと思えるようになっているだろう。壊れてなければ、だけど」

 その無関心な声音に、小鳥は彼のもう一つの面を垣間見た。それを裏づけるように、薙は尋ねた。

「きみは彼らをゆるすの?あんなことをされていたのに」

「知っていたもの。彼女の両親も、離婚してたって」

 小鳥は小さく言い、でも、と付け足した。

「彼女があなたにしたことは、ゆるせない」

 薙はじっと小鳥を見つめた。

「…きっといつか、きみは彼らをゆるせる。僕らは、もう行くから」

「私を置いて、空を翔んでいくのね」

 小鳥は言った。薙はちょっと目を見開き、それからあっさりと頷いた。

 途端に、小鳥の目から涙が溢れだした。横を向き、虚しさを隠そうとしながら、小鳥は嗚咽した。

(分かってた。この人は違うって、ずっと知ってた。彼にとって私は、道端で拾った小さな鳥。それでも、置いて行きたくなんかないって、言ってほしかったのに)

 泣きじゃくる小鳥の頬に、薙の指が羽のように優しく触れた。

「ねえ、泣かないで。僕らは君に会えて、本当に幸せだった。きみを癒すことは、僕ら自身を癒すことだった。絶対に忘れない。きみが翼を生き返らせてくれたこと」

 忘れない。その一言が、小鳥の背を押す。涙を拭い、嗚咽を必死におさえ、小鳥は顔を上げて薙を見据えた。彼の全てを心に焼きつけながら、言った。

「私も忘れない。一生覚えているわ。私が、あなたを好きになったこと。生まれて初めて、恋をしたことを」

 薙は驚かなかった。ただ、これまで見た中で一番優しい表情で、「うん」と言って頷いた。その瞬間、小鳥の中に最後まで残っていた望みが、小さな音を立てて永遠に砕け散った。

 彼は小鳥に恋をしない。

 感謝と優しさは、愛とは違う。

(…それでも、私も幸せだったよ…)

 二人で過ごした時間を思い起こしながら、小鳥はスケッチブックを薙に差し出した。

「持って行って。私の心と、私が生き返らせた命の全てよ」

 薙は黙ってそれを受け取った。微笑みは消え、どこまでも澄みきった、人ならざる者の美しいひとみが小鳥を見つめていた。

「…さようなら」

 小鳥はぎゅっと手を握り、囁いた。これ以上ここにいたら、彼に腕を投げかけてしまいそうで、連れて行ってと叫んでしまいそうで、心がちぎれそうな思い出小鳥は鞄をつかんでのろのろと立ち上がった。もう薙の顔を見られない。それでも、彼の眼差しを感じる。背を向けた時、再び涙が頬を伝い、隠しきれない嗚咽が漏れた。その時、薙の声がした。

「僕らを思い出す時は、空を見上げて。できれば、晴れた日の青空を。そこに、僕らはいるから。空は繋がっている。きみの幸せと健康を、祈っているよ」

 小鳥は頷いた。そして、ほんの少しだけ顔を上げ、ほんの少しだけふらつかなくなった足で、ゆっくりと庭を出て行った。


 これからも小鳥は歩いて行く。ときに立ち止まり、くずおれ、それでも何度でももう一度足を踏み出して、生きていくだろう。愛を失って一度壊れた小鳥の再生は、始まったばかりだ。愛も命も、与えるものであり、与えられるだけのものではないと、小鳥は知ったから。命を捧げられる恋と、自分を去らせることのできる愛こそ、あの輝く庭で小鳥が手に入れた全てだった。

 様々な思いが、小鳥の胸で千々に入り乱れていた。門をくぐり、外に出た時、小鳥は一つの物語が終わったことを感じた。薙と小鳥、二人の物語。ここから始まるのは、それぞれの物語だ。

 胸が張り裂けるような寂しさと悲しみが込み上げ、全ての感情をはねのけた。小鳥は立ちつくし、両手で顔を覆って号泣した。

(忘れない。あなたを永遠に、忘れない。あなたが私を忘れても。ずっと覚えてるよ、あなたに恋をしたことを…あなたが、口移しで私に水をくれたことを)

 涙が枯れる頃、小鳥はうなじにさわさわしたものが触れているのに気づいた。髪に何かが絡まっている。慎重にまさぐり、目の前にかざしてみる。それは一枚の、銀色に輝く羽根だった。鳥のものにしては大きい。

 小鳥の心臓が高鳴りだした。そっと顔を近づけると、懐かしい薙の匂いがした。

 さよなら。元気で。

(私は私の道を、あなたはあなたの道を)

 それでもこの恋は、確かにここにあった。

 羽根をそっと抱きしめ、小鳥はゆっくりと振り返った。そこにはただ、荒れ果てた庭とぼろぼろに朽ちたお屋敷があるだけだった。魔法は消え失せていた。小鳥は、天をあおいだ。

 見上げた空、夜明けが近い瑠璃色の空の遥かな高みを、翼を広げた二つの影がよぎって行った。



〈終〉

 

 



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有翼の民 野原 杏 @annenohara

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