急:老年期

 私が一仕事を終えた後、ベッドの上でぼんやりしている老人を見て、ため息が出た。この老人、藤田雄介ふじたゆうすけは厄介な患者だった。基本的には物静かで、ほとんどしゃべることはない。おむつを替える時も、食事を出すときも、抵抗することはなかった。それは、もともと静かな人間だったからかもしれないし、もはやしゃべる言葉まで忘れてしまったからかもしれない。


 だがしかし、藤田は身体を拭かれることを何故か極端に嫌がった。もはや自分で風呂に入ることなど死ぬまでないであろうこの老人の、なけなしの新陳代謝が生み出す老廃物は、私達がふき取る以外に身体から取り除かれることはない。ひどい悪臭を出さないよう、私達は彼の身体を定期的に拭かなければならない。しかし藤田は特に腕を拭かれることを嫌がった。左腕をつかむとよく獣のような叫び声をあげるのだ。


 藤田の叫び声は原始的な恨めしさに満ちていて、私は自分のしていることがひどく残酷なことのように思えた。


 この反応が、幼児のものだったのなら納得もできよう。年端もいかぬ、右も左も分からないことが本能的に理解できる赤子だったら、私もこんな気持ちにはならなかったかもしれない。しかし、彼の顔は皺だらけだ。私よりもはるかに社会や人生のことを知っているはずのその顔が、幼児のような反応を見せると、私の認知は混乱を起こした。そして混乱の後、言葉にできない寂寥感が胸に広がった。


 それでもどうにか無理矢理私が身体を拭くと、藤田はきょろきょろと、何かを探すように不安げに周りを見渡すのだった。


 この男も、数年前までは元気な老人だったらしい。地域では有名なおしどり夫婦だったとご親族から聞いた。二人で手をつないで散歩をしている姿は、その地域の名物だったらしい。


 しかし、その奥さんが亡くなってから、藤田はどんどん様子がおかしくなったらしい。孫の名前を忘れ、日課の散歩もしなくなり、日がな一日中テレビばかり見るようになったそうだ。半年前、自宅で脳溢血で倒れていたところを孫に発見され、この病院に運ばれた。奇跡的に一命は取り留めたのだが、結局彼は、ベッドの上で死を待つだけの存在となってしまった。


 気の毒だとは思う。でも別に、珍しい話でもない。今の時代、家の布団で死ねることの方が難しい。大概は病院のベッドの上で死ぬのだ。私もこのようなケースの患者を何人も見てきた。ベッドの上で、彼らは日に日に思考力や判断力を失っていき、色々なことを忘れていった。


 孫や息子の名前を忘れ、「お前は誰だ」と口汚く罵ったお爺さん。結婚したことを忘れ、旧姓を名乗るようになったお婆さん。常識を忘れ、幼児のように大暴れするものもいれば、もう何もかも分からなくなって、曖昧な笑みを一日中浮かべているものもいた。


 そんな患者(果たして、こういう老いを病と言っていいのだろうか)達を見ていると、ふと人生というものについて考えてしまう瞬間がある。生まれたての子供のように欲望や快不快を乱雑に表現するだけの醜悪な存在が人間の最期であるなら、私達の人生に何の意味があるのだろうか。愛も仕事も結婚も子育ても、最後はすべて意識の混濁に飲み込まれてなかったことになってしまうなら、人生に価値なんてあるのだろうか。そんなことを考えてしまうこともあった。


 だが、そんなことを考えていては仕事にならない。私は、感情の出力を極限まで下げて、できる限り何も考えないようにしながら作業にあたった。彼らの、やせ細って骨と皮だけになった身体を、人間の一部でなく、タンパク質やカルシウムの集合だと思うようにした。いつの間にか、私は自分の仕事を、人間の世話と言うより、科学実験に近いものだと思うようにしていた。そうでもしないと、日々すり減っていく自分の心を保つことができなかった。





「そんなに嫌なら辞めちゃえばいいのに。真面目すぎるよ、君は」


 目の前の男は、ビールを飲みながらそんなことを言った。付き合って半年になるこの男は、きっと私のことを励ますつもりで言っているのだろう。その気持ちには感謝したい。でも、そんな言葉で私が楽になると思っているのなら、見当違いも甚だしかった。彼の薄っぺらいねぎらいは、うるさい居酒屋のもわっとした空気の中に紛れていった。


「結局、君の人生は君のものなんだからさ。自分のこと一番に考えないと」

「……ありがと」


 こんな定型文の配慮の何が「有難い」のだろう。頭の中でそんな意地の悪い言葉が浮かぶ。私が仕事を辞めた後のことを、この男が責任をもって世話してくれるとは思えなかった。この男は、この場面と私達の関係を考慮して、言うべきことを言っただけだ。そんなことを考えてしまう自分はきっと性格が悪いのだろう。


 店員が食べ物を運んでくる。鳥の手羽先を見て、「これ、好きなんだよね~」と言った。そして手羽先を一つ手に取って、器用に肉を骨から剥ぎ取りながら言った。


「ま、嫌なことはさ、おいしいもの食べて、お酒飲んで忘れるのが一番だよ」


 忘れる? 忘れるのが一番? 彼は本気でそういっているのだろうか。人生の最期に、老人たちがすべてを忘れ去っていく。大切だった人生の何もかもを、徐々に忘れていく。そんな現場を日々見ている私にとって、「忘れるのが一番」という言葉は、正気の沙汰とは思えないものだった。


 思わず男の顔を見ると、男は咥えていた手羽先の骨を吐き出す所だった。むき出しになった灰色の骨を見た瞬間、私は老人たちの腕や足の関節がフラッシュバックした。


 肉がほとんどなくなって、人体模型みたいに身体の骨組みや血管がむき出しになった手のひら。私と同じ人間のそれとは思えない、皺だらけで、全く水分のない、枯葉のような皮膚。私の身体もいずれ確実にそうなると想像した風呂場の鏡……。


 様々なイメージがいっぺんに、そして鮮明に私の頭の中にあふれる。目の前の光景がスローモーションに見える。茶色い肉の塊を骨からはぎとる目の前の男の口元、咀嚼、見え隠れするビールと混ざった肉片、上下する喉ぼとけ。皿に吐き出された残骸の骨が、藤田の恨めし気な声で呻いたような気がする。


 この目の前の男が食べているのは、何の肉? 誰の骨? ニワトリ? 藤田雄介? 他の老人たち? それとも……未来の私?


 喉元まで吐き気が上がってくるのを感じた。私は荷物を持っていきなり立ち上がった。


「ごめん。今日は帰るね。また埋め合わせはするから」


 何とかそれだけ言うと、財布から一万円札を取り出して机にたたきつけた。唖然とする男を残して、できるだけ早く店を出て、一番近くにあったコンビニのトイレで胃のものをすべて戻した。吐瀉物はもう液状になっていて、もともとどんな形の食べ物だったのか、分からなくなっていた。


「最期は、みんなこうなるのかもね」


 便器の中の醜い液体につぶやく。狭い個室の中で、私の声は妙に反響した。





「いつも、お世話になっております」


 藤田の娘だと言った目の前の女は、40を超えているはずなのに、やたらと美人だった。薄い化粧の下の肌は白くきめ細かい。はっきりした目鼻立ちにほっそりした身体つき。長く綺麗な黒髪。藤田の顔とは似ても似つかない。きっとお母さん似なのだろう。


 藤田の娘は、藤田の着替えや日用品の補充に来たらしい。着替えのたたみ方や、藤田への声のかけ方などを見ていると、彼女が父である藤田を大切にしていることが分かった。しかし、藤田本人がこの娘のことをきちんと覚えているかはよく分からなかった。彼女がかいがいしく藤田の身の回りの世話をしているのを、藤田はただぼんやり眺めているだけだった。


 私は藤田の担当として、彼の最近の状態を説明した。容体は安定しているが、徐々に自分で食べ物を飲み込むことが困難になっていること。誤嚥性肺炎のリスクを考慮して、今後は点滴を使うことが望ましいこと。


 そして、医者が言うには藤田が持って半年であるということ。


「そうですか……」


 私の説明を聞いて、藤田の娘は形のいい眉をゆがめて言った。伝える私まで寂しくなるような、哀愁の漂った表情だった。


「本当にありがとうございます。私も仕事で忙しくて、なかなか顔を出せなくて……」


 藤田の娘は椅子に座りながら深々と頭を下げた。長い黒髪が彼女の顔を隠した。申し訳なさと自らのふがいなさがないまぜになった、切なげな声だった。


「いえ、お気になさらないでください」

「……父は、ご迷惑をおかけしておりませんか?」

「全然! とっても静かで、私達の指示にもきちんと従ってくださいます。模範的な患者ですよ」


 私なんとか笑顔を作りながらそう言った。「模範的な患者」という言葉が、慰めになるかどうかは分からなかったが、思わずそう言ってしまった。藤田の、私達が腕を拭こうとすると幼児のように暴れる様子を、彼女に伝えることは、私にはできなかった。


「それならよかった……」


 安堵の混ざった吐息と共に頭を上げた藤田の娘の整った顔を見ていると、こちらも少し安心できた。


 気が緩んだのか、私は、この藤田雄介と言う老人の過去のことを聞いてみたくなった。藤田のことを聞けば聞くだけ、彼をタンパク質の集合体と見るのは難しくなって、今後の業務に心理的な支障が出ることは分かっていた。しかし、どうしても気になる。


「お父様、雄介さんってどんな方だったんですか?」


 私の質問に驚いたのか、目をぱちくりさせた藤田の娘だったが、すぐに柔らかい笑顔になって話を始めた。


「……父はとにかく、母を愛しておりました。母も父のことは大好きだったみたいです。娘の私が少し嫉妬してしまうほど二人は仲が良かった。母が死ぬ直前まで二人でお出かけしてたんですよ。ちょっとあきれるくらい」


 噂通りのおしどり夫婦だったようだ。なんだか微笑ましい。


「いいことじゃないですか。仲睦まじくて……」

「ええ、でも、私が幼いころは、二人で散歩や映画を見に行く姿を見ると、どこかモヤモヤした感覚を覚えたものです。父がとられるような気がして……ええと、こういうのをなんて言うんでしたっけ?」

「エディプス・コンプレックス、でしたっけ?」

「ああ、それですそれです」


 藤田の娘は、そう言って少し笑った。笑うとさらに美人だった。


「あはは。娘さんは、お母さま似ですか?」

「そうですね。我ながら母に瓜二つだと思います。父は私を可愛がってくれましたが、それも母に似ていたからかもしれませんね」


 そういって藤田の娘はまた笑った。本当に美人だ。藤田の奥さんも、さぞ美人だったのだろう。そんなことを感じさせる微笑みだった。


「……あれ? 左手、何か書いてあります?」


 笑った口元を隠す左手に、黒い汚れのようなものが見えた。私の指摘を聞いて、藤田の娘ははっとして左手を右手で隠した。


「すみません。癖なんです……。忘れちゃいけないことはここに書くと良いって父に教わったもので……」


 藤田の娘は恥ずかしそうに頬を赤らめた。


「いえいえ……。でもなんか手に書くって小学生みたいですね」


 私が笑いながら言うと、藤田の娘はさらに恥ずかしそうに手を身体の後ろに持って行った。


「お恥ずかしい……。私も直さないといけないな、とは思っているのですが……。手帳とかスマホだと覚えられた気がしなくて不安になってしまうんですよ……」


 そう藤田の娘が言ったとき、私の頭に得体の知れない電流が走った。


 何だろう。何かに気づきそうな感覚。藤田の娘、藤田の腕、暴れる理由……。


「……娘さん。ちょっとうかがってもいいですか?」

「え、あ、はい。何でしょう」

「藤田さん、いえ、お父様は基本的には大変おとなしい人なのですが、どうも腕を洗おうとすると反抗して、うなり声を上げるのです。それってもしかして……」

「……!」


 藤田の娘は何かに気が付いたように立ち上がり、掛布団の中に隠れていた藤田の左腕を引きずり出した。藤田はうめき声を上げた。その左手の手の甲には、黒いシミのようなものがあった。それは藤田の、鼠色に近い肌の色とは明らかに異なる、濃さと油性の光沢があった。


 藤田の娘は、その左手の甲を見て息をのんだ。

 そして、彼女の目からつーっと一筋の水滴が流れた。空いている片手で口をふさぎ、鼻をすすり始める。


 私も急いで藤田の左手を見るために、藤田の娘に近づいた。彼女がつかむ手には、想像したとおり、黒いマジックで何かが書いてあった。どうやら文字であることは分かった。しかし、皺だらけの皮膚の上に書かれており、なおかつ藤田の腕の筋力はほとんどなくなっているため、文字は歪み切っていて、私には何が書いてあるか分からなかった。

 

 ただ、藤田の娘には分かるらしい。しゃくりあげる音が聞こえる。


「お父さん……お父さんはずっと……」


 涙声で藤田の娘は藤田に話しかけた。虚ろな目をしていた藤田は、その声を聞いて、かすれた、今にも消え入りそうな声で答えた。



「……これは、ぜったい、忘れちゃいけないことだから……」



 そう娘に言ってから、藤田は大事そうに自分の左手を右手でさすった。その手は、やはり皺だらけで、濁った色の血管が浮き出ている。


 しかし、なぜかその手からは、はっきりとした意志と強さがあった。


 娘はその姿を見て、さらに涙を流した。なぜだろう。私もつられて涙があふれてしまった。


 認知症になっても、記憶がぐちゃぐちゃになっても、他のすべてを忘れても、忘れたくないこと。


 毎日、段々できることが少なくなって、誰が誰だかも分からなくなっても、覚えていたいこと。


 もう後は死ぬのを待つだけだと薄々感じながら、何もできずにベッドの上でじっとしているしかない存在になっても、それでもなお記憶に刻みつけたいこと。


 そんなことがこの世に存在する。それは、何か救いのように思えた。


 人間はすべて忘れてしまう。でも、だからこそ、絶対に忘れまいとするこの老人の姿は何よりも力強く、頼もしく見えた。


 私も、藤田の娘も、それからしばらく泣き続けた。なぜか、涙が止まらなかった。二人でしばらく黙って泣き続けた後、私は、小さな声で藤田の娘に問いかけた。


「あの……その左手には、何が書いてあるんですか?」


 私の声を聞いた藤田の娘は、目を真っ赤に腫らしながら、それでも見惚れるほどにきれいに笑って、心底誇らしそうに私の質問に答えた。


 彼女のその言葉を聞いて、私は自分がとても野暮なことを聞いたと気づいた。よく考えたら当たり前だ。この男が、絶対に忘れたくない言葉など、一つに決まっている。


 藤田は、私達のやり取りに関心を向けることなく、いつの間にか目を閉じ、自分の左手の文字を、慈愛を込めて右手で撫でつけていた。



 その手に書かれた文字が何だったかは、特に言うまでもないだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

1103教室最後尾左端 @indo-1103

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ