破:青年期

「藤田。何か手、汚れてるぞ?」

「ああ、先輩。お疲れ様です!」


 私の声を聞くと、藤田はさっと、手の甲を隠した。急ごしらえの、中途半端な笑顔で私の方を向いた。


 後輩の藤田雄介ふじたゆうすけは、取り立てて言うことのない、普通の会社員であった。見た目は好青年であり、かなり真面目な人間だった。仕事を任せれば、まだまだ拙いながらも丁寧に仕上げてくる。提出期限なども割合きっちり守るタイプだ。逆にこういう普通のことを普通にやってくれる奴が減っているため、相対的には「できる」社員と言っていいのかもしれない。


「なんだよ。何隠したんだ?」

「いや、なんでも、ないです……」

「なんだよ。みせろよ~」

「いや、ちょっとこれは……」


 嫌がる藤田の左手首をつかんで見ると、マジックで何か書いてあった。文字までは見えなかったが、油性マジックの黒い筋みたいなものが見えた。


「お前、手に予定とか書いてんの? 小学生かよ!」

「すいません。小さいころからの癖なんですよ……忘れちゃいけないって思うと、ちょっと不安で書いちゃうんです」


 藤田はしゅんと肩を落とした。別に責めるつもりはなかったが、少し責めるようなニュアンスになってしまったかもしれない。


「いや、謝ることはないけど……随分アナログな手法だな。手帳とか、スマホのメモ機能とかリマインダーとか使えばいいんじゃないか?」

「なんか、そういうものだと、実感がないっていうか……手に書くとちゃんと覚えたぞって気がするんですよね」


 藤田は恥ずかしそうに左手の甲を隠した。ごつごつと節くれだった手だった。男らしい、と言えばそう言えなくもない。


「まあ、何となく分からないでもないけどな……。身体に刻み付けるとか、常に見る場所に書いておくっていうのは有効な手段と言えなくもない。忍者とかそうやって色々記憶してたらしいし」

「へぇ……」


 この妙な雑学がフォローになっているかどうか分からないが、藤田は何か感心したように息を吐いた。こういうところに彼の実直さの一端が現れているような気がする。


「でもそれじゃ仕事にならないだろ。覚えなきゃいけないこと沢山あるわけだし。スケジュール管理とか絶対無理だろ?」

「もちろん、全部書いてるわけじゃないですよ? 絶対忘れちゃいけないことだけ書いてます」


 確かに、藤田が遅刻やダブルブッキングをしたところは見たことが無い。彼なりにきちんと日程の管理はできているのだろう。


「そうか……ならいいけど。出先ではみっともないからちゃんと消してけよ?」

「はい。気を付けます」


 そういってバツが悪そうに藤田は笑い、仕事に戻った。結局、何が書いてあるかは分からずじまいだった。私も仕方なく自分の仕事に戻り、パソコンの画面に映る作成中の書類とのにらめっこを再開した。


 しかし、気になる。書類を作成しながらも、藤田の左手の文字のことが気になって仕方なかった。仕事のスケジュール管理はミスなく行うこの男が、何を忘れたくないのだろうか。


 もしかして、プライベートな内容なのか? 噂では、この藤田という男、同じ部署の佐々木さくらと付き合っているとかいないとか。部署内で一番の美人である彼女をこの純粋さだけが取り柄のような男が射止めたとはにわかに信じがたい。しかし事実であるならば、ヤツの左手には彼女に関する何らかの情報が書かれている可能性がある。


 待て待て、そんな単純な話か? もしかするとあいつ社内の機密案件か何かに関わっているのかもしれない。忘れたら殺されるような案件……平和なわが社では想像もできないが、それは私が知らないだけで、実はダーティーなことを社長が企んでいて、その先鋒として藤田が選ばれたとか……。いや、他社の企業スパイという説も……。うむ。可能性はなくなくなくもないとも言い切れない。


 妄想が止まらない。このままでは書類の作成が滞る。これはいけない。真相を究明しなくては私の仕事が終わらない


「調べて……みるか」


 仕方ない。これは私の生産効率性を上げるため、ひいては会社を守るための調査だ。決して、けっっして部下のプライベートが知りたいとか、実は私も佐々木さくら狙ってたとか、そういったゴシップ的な好奇心や醜い嫉妬からではない。あくまで、会社のためだ。


 純粋なる企業戦士である私は、藤田の謎を解くべく、彼に近づいた。


「藤田―。今日、この後飲みに行かないか?」


 そう声をかけながら、さりげなく藤田の机に近づき、左手が確認できる位置に移動する。文字が書かれているのは左の手の甲だ。


「あ、お誘いありがとうございます。でも今日私、予定あるんですよ」


 藤田は人の好さそうな笑顔を私に向け、不用心にも左手で頭をかいた。


 好機! とばかりに私は藤田の左手首をがっちりつかんだ。そして、少しひねり上げるようにして彼の手の甲を私が見える位置まで動かした。


「いだだだだ!! 何すんですか!」


 藤田はかなり取り乱し、結構な大声を出した。私は藤田の必死の抗議を完全に無視して書かれていた文字を読んだ。


「……フランス料理店、スリジエ?」


 おそらく店の名前であろう。その下には最寄り駅と、料理の名前らしきカタカナが羅列されていた


「あ、何見てんですか!!」


 藤田が身体をひねって私の拘束から逃れた。にらみつけるような表情である。


「すまん。あまりにも気になって……」

「もう……いいっすよ」


 藤田はまた肩を落とした。もうこれ以上聞いてくれるな、と言う表情だったが、むしろここまで知られてしまえばもう全部話しても一緒だろう。私はそんな都合のいい解釈をし、先輩という立場を十分に発揮して、さらなる追求を行った。


「なあ、それ、誰と行くんだ?」

「……それ、言わなきゃダメですか?」

「まあ、言わなくてもいいが、私の機嫌を損ねると、今日とんでもない残業を言い渡すかもしれないぞ?」


 我ながら最低の上司である。が、好奇心には逆らえない。藤田も少し戸惑った様子だったが観念したらしい。ぽつぽつと私以外には聞こえないように話し始めた。


「……佐々木さんですよ。……ここ、結構有名なレストランらしくて、なかなか予約とれなかったんです」

「その下に書いてあるのは? 料理名か?」

「はい。前に彼女が好きだって言ってて……忘れないように書いといたんです。フランス語のメニューって読めないですから」


 こいつ、やはり佐々木さくらと付き合っていたらしい。なんてことだ。噂は本当だったのか。しかし、メニューを予習しておくなんて、いじらしいことするじゃないか。


「そ、そうか。でもそれ、結構目立たないか?」

「でも、食事の時にスマホとか手帳とか取り出したくないじゃないですか!」

「む。確かに。でも手が汚れているのもどうかと思うぞ?」

「それは……そうですが、行く途中に洗い流そうかと……」

「それで私にバレてしまったんだから世話ないだろ……そんなタイミングないかもしれないし……」

「そうですね……。いますぐに、落としてきます……」


 そう言うと藤田はとぼとぼとトイレの方に歩いて行った。ちょっとやりすぎたな。振り返ると、今の一連の行動は立派なハラスメントだ。ハラスメント先輩として他の社員に言いふらされる前に口封じしておくべきかもしれない。今度飲みにでも連れて行ってやることにしよう。


「しかし……。実直な癖にどこか抜けた奴だ。先行きが不安になるな」

「そうですか? 私はそういうところも結構好きですよ? 誠実だし」

「そうかー? あれは後々やらかすぞ? 浮気とかすぐにバレるタイプだろ。うまくいくとは思わないな~」

「先輩と一緒にしないでください。彼、先輩みたく適当じゃないですから」

「へー。……って佐々木!!」

「ベタな反応ですね、先輩。藤田君のこと言えないドジじゃないですか」


 いつの間にか佐々木さくらが隣に立っていた。部署で一番の美人。その白く美しい肌と整った目鼻立ちに特攻して玉砕した男は数知れず。私もかくいうその散っていった男の一人である。


「……いつから聞いてた?」

「割と最初から」

「マジかよ……」

「マジです。先輩が藤田君の手首をつかんだ所や、嫌がっているのにこの後の予定をほぼ無理やり聞き出そうとしていたところまでばっちりと」

「……誰にも、言わないでね?」

「それは、先輩の態度次第ですね」


 佐々木さくらはきれいな笑顔を作った。見とれるほどに美しい表情だ。しかし、目は全く笑っていない。


「邪魔しない。邪魔しないから!」

「もし破ったら、先輩のことはハラスメント先輩、略してハラセンと呼ぶように女子社員の間で徹底いたします」

「勘弁してくれ……」


 笑顔で恐ろしいことを言って、去っていった佐々木さくらの後ろ姿におののきながらも、この女が本気で藤田を気に入っていることに少し驚いた。


 それからしばらくして、藤田はトイレから帰ってきた。頑張って洗い流したようだが、まだ手には少し黒いマジックの後が残っていた。


「どんだけ濃く書いたんだよ……」

「忘れたくなかったんですよ……」


 そう照れ臭そうに言うと、藤田は仕事に戻った。



 それからほどなくして、藤田と佐々木さくらは結婚した。逆算すると、あのレストランに行った日にプロポーズした可能性が高かった。あとで調べて分かったことだが、「スリジエ」は日本語で「桜」であった。まっすぐな藤田らしい店選びと言えるだろう。


 余談だが、佐々木改め藤田さくらの策略によって、私は忌々しくも彼らの結婚式の仲人をやらされた。披露宴での彼女の悪い笑みはいまだに忘れられない。


 彼らの結婚生活が、忌々しくも幸せだったことは、特に言うまでもないだろう。

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