1103教室最後尾左端

序:少年期

「もう、ゆうすけ君はいっつも宿題忘れてきちゃうね。今週でもう三回目だよ?」

「ごめんなさーい」

「このままだと四年生になれないからね?」

「はーい」


 気のない返事を返す目の前の子供、藤田雄介ふじたゆうすけに、苛立ちを覚えることはなかった。忍耐力が増したと言うよりは、同じようなことを二年ほど繰り返すうちに感覚が摩耗してしまったという方が正確かもしれない。


 私にとって生徒はいつまでたっても宇宙人だった。言葉は通じないし、身体つきも全然違う。何を考えているかさっぱり分からない上に、彼らは自分の考えを表現する手段を持っていない。ゆえに彼らとの交信は常に手探りで、上手くいかないことがある意味当たり前だった。


 とはいえ、この宇宙人たちをそのまま地球人の社会に放り出すわけにはいかない。言われた通りの持ち物を準備する。時間は守る。宿題を忘れない。面倒くさくてもきちんとやる。彼らが地球で暮らすためには、その重要性を知ることが必要だった。


「ねえ、ゆうすけ君。どうやったら宿題、忘れないかな?」

「んー。わかんない。家に帰るとさー。どこやればいいか忘れちゃう」

「連絡帳は? 書いてないの?」

「えー。めんどくさいじゃん」


 ……辛抱である。ここで苛立つような教師は二流だ。相手は宇宙人なのだ。記録を付ける、という文化がそもそもないのだ。忘れないようにしようという意識がそもそもないのだ。だからこそ、しっかりと指導をしなければならない。


「んー。でも、忘れちゃうと、先生困っちゃうな」

「別に先生が困っても、オレ困らないもん」

「……」


 ……我慢だ。私の詰め方が悪かったのだ。このガキ……いや、生徒の言う事は正論である。私が困ることと、彼が宿題をメモすることに因果関係はない。宇宙人に情に訴えようとした私が愚かだったのだ。とりあえず全身全霊で口角を上げることに集中する。


「そ、そっか~。先生悲しいなぁ。でも、ゆうすけ君のためにも必要なことだから、忘れないようにメモとろうね。連絡帳、出して?」

「え~忘れちゃったよ。持ってくるのめんどくさいし」


 本当にめんどくさそうな言葉に、私の堪忍袋が臨界点を突破してしまった。


「じゃあ手にでも書いてなさい!!」


 叫んだ瞬間、しまったと思った。大きな声が出てしまった。私はまだまだ二流だったようだ。後悔がぞわっと背中を走る。冷たい汗が背中をつたうのを感じる。


 この時、私は目の前の生徒の様子よりも、反射的にこの子供の親の顔を思い出そうとしていた。この子供自体は宇宙人なのだが、そのバックに控える保護者は地球人だ。そして性質の悪いことに、宇宙人よりも話が通じなかったりする。最大の敵は地球の中にいるのだ。この子が親に訴えでもしたら面倒なことになる……。何らかの処罰が言い渡されるかもしれない。どうやったらこの場をおさめることができるだろうか……。


 ……いや、今は保身を考えるべきじゃない。真に大切なのは、我を忘れてしかりつけたことを謝ることだ。自分がなぜ怒られているか、それを生徒に自発的に分からせることこそ正しい教育のはずだ。今の私の対応は教育者とは言えない。


「ゆうすけ君? ごめんね? 大きな声出して。怖かったよね?」


 わざと甘い声色で、話しかける。ちょっと大げさすぎたか? こういう大雑把な感情表現の粗を、厄介なことに子供は見抜いてくる。私は彼の反応を見ながら、さらに声をかけた。


「でもね、聞いて? 宿題を忘れないことは大事なことなの。だから、ちゃんと忘れないようにメモをとる癖をつけましょう? そしたら忘れ物が減って、一つお兄さんになれるから」


 一つお兄さんになれる。とは低学年の生徒、特に男子にはある程度有効なセリフだった。お兄さんになれる。大人になれる。一人前として扱ってもらえる。幼い子供たちにとっては、それは魅力的なものに見えるらしい。私が今「大きくなったね」なんていわれたら、それは体重増加を揶揄されているだけだ。というか、できればずっと子供でいたい。仕事、したくない。


「……」


 目の前の生徒は声を出さない。黙って自分の左手の甲を見つめている。彼の様子を見て、私の脳内では様々な最悪のケースが浮かんでくる。


 大声を出されたことをこの子が親に通告。運悪くモンスターだったこの子のペアレンツが学校に怒鳴り込んでくる。そして校長は私に厳重注意……。それで済めばまだいい方で、もしもハラスメント教師としてこの子の親に訴えられたら、職を失う? 仕事、しなくてよくなっちゃう? いや、したくないとは言ったけどそれは一定の生活が保障されたうえでの話で……。


「ゆうすけ君?」


 心なしか震えた声が出た。仕方あるまい。この子の反応に私の人生がかかっている。優しく、優しくしなくては……。必死に自分の表情を好意的な形に見えるように歪ませた。


 私にとっては心臓に悪い沈黙がしばらく続いた後、ゆうすけ君は、ぱかっと割れるような笑顔を見せて言った。


「……先生、天才じゃん! これなら絶対忘れないよ!」

「へ?」


 呆ける私を無視して、今日の宿題を、どこからともなく取り出した油性マジックで自分の左手の甲に書き込んでいく。その様子はどこかウキウキしている。目もキラキラしている。カブトムシを見つけた田舎の小学生みたいだ。


「宿題、やろうやろうとは思ってたんだけどさー。宿題出された時はさ、絶対忘れないって自信あんのオレ。なのにわざわざノート出して筆箱出してってめんどくさいなーって思ってたんだよね」


 急にペラペラしゃべりだした。声には♪のマークが見える。


「そ、そうだったの……」

「だって、分かってることいちいち書くのめんどくさいじゃん? でも家帰るとなぜか忘れちゃって、やる気なくすんだよ。でもこれなら遊んでる時もご飯食べてる時も見れるし! 忘れない!」


 その言葉を聞いて、私はふと、この生徒のことを誤解していたことに気が付いた。ゆうすけ君は、別におかしなことを言っている訳ではない。幼いころは、というか今になっても時折自分の記憶力を過信してしまう瞬間がある。これくらいならメモなんて取らなくてもいいか、これくらいなら覚えていられるだろう、なんて、手帳を出したりスマホを出したりするごくわずかな手間を惜しむ瞬間がある。


 この生徒にとって宿題のページ数はそんな些細で、忘れるはずのない情報なのだった。そうと分かっていれば、別のアプローチがあったのではないだろうか。こうしなさいとか、なんでできないのとかじゃなくて。叱るんじゃなくて寄り添うことができたのではないか。そんな反省が脳裏をよぎった。


 ……いや待て。連絡帳に書くのは手間だったのに、ペンで手に書くのは手間じゃないのか? 後で洗わないといけないからむしろ手間は増えてるんじゃないのか? むしろ、「手に書く」のが面倒だから連絡帳が生まれたんじゃないのか?


 私の脳内の壮絶な自問の応酬を知ってか知らずか、ゆうすけ君は宿題を左手に写し終わったらしい。


「よし。じゃあ先生、明日から宿題やってくるね! これからは、絶対忘れちゃいけないことはここに書くね!」


 そう言い放ち、無邪気な笑顔を見せると、ゆうすけ君はランドセルを担いで教室から出ていった。そのスピードは先ほどまでの間延びした返事からは想像がつかないくらい素早く、私が何かを言う隙を与えなかった。彼が扉から出る時、私に向かって振った手には、へたくそで、ほとんど黒い塊みたいになっている教科書とドリルのページ数が見えた。


「……やっぱり宇宙人だわ」


 一人取り残された教室で、私は一言つぶやいたのだった。


 結局、手に書いた文字が読めず、彼が翌日宿題を忘れたことは、特に言うまでもないだろう。

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