Epilogue

「なるほどねえ」


 中佐はあえて口に出してつぶやいた。

 長い、長い記憶だった。だが実際に掛かった時間は、ほんの十分かそこらのものだった。

 彼は一端、「特別囚人」の少年の手を離す。

 さてどうしようか、と。

 ほんの、一分だけ、腕を組んで、天井を見る。あまり時間を掛けてはいけない。わざわざ起こした相手が、また眠ってしまわない様に。

 彼は再び、少年の手を取った。そして、噛んで含める様に、思念を伝える。


『お前の言うことはよぉく判った。と言う訳で、お前の望みをかなえるべく、俺はお前を本星へと連れて行かなければいけねえんだがな』

 ―――オレの望み?

『よぉすんに、お前は死にたいんだろう? 永遠の眠りにつきたいって言うんだろう?』

 ―――…あんた、オレを、殺してくれるのか?

『ああ。お前の気持ち次第だがな。だがあいにく、このまんまじゃ、それこそ手間が掛かりすぎるんだよ』

 ―――手間。


 少年は意外な言葉を聞いた、という様な反応を見せる。


『お前今、自分がどんな状態か、知ってるのかよ』

 ―――知らない。

『仕方ねえな』


 中佐は、現在の自分が見ている状態を、映像で叩き込む。

『情けねえもんじゃねえの? 今のお前って。かなり、格好悪いぜ』

 ―――…

『と言う訳で、お前、俺にその状態のまま、お前を本星まで連れて行けって言うの? やなこった』


 中佐は両手を広げ、ぶるんぶるん、と頭を振った。真っ赤な髪が、大きく揺れる。


『それにこれから俺が帰る船にはなあ、そんな装置まで持ってく程のスペースも無いんだよ。言っただろ? コストがお前、色々掛かってるんだって』

 ―――じゃあ…

『だから起きろ。それだけだ。お前を運んで、ちゃんと殺してやる。完全に。だからそのためには、ちゃんと目を覚ませ。自分の足で歩け。目を開いて、今どうなっているか、見てみろ』

 ―――…

『怖いのか?』


 中佐は相手を挑発する。


『そりゃあそうだろうなあ。眠っちまって、何もしなければ、楽だしなあ』

 ―――!


 にやり、と中佐は笑った。


 その時、かっ、と少年の目は開いた。


「よぉ」


 目線を合わせ、中佐は片手を挙げる。


「やっと、起きたな」

「…オレは…」


 けほ、と少年は咳き込む。


「ま、お前が行きたければ、明日にでも連れてってやるがな。どうする?」

「…連れてって、くれ…」

「オッケー。じゃ、明日な。また来るまで、お前、寝るんじゃねえよ!」


 中佐は腰に手を当て、ぴっ、と人差し指を突き付けた。


「…くそ…根性で起きててやるさ…」


 少年は身体を動かそうとする。

 肩をすくめ、再び両手を広げると、中佐は病人にくるりと背を向け、医療エリアの扉を出て行った。


 「さっさと」という中佐と「明日」という少年の両方の意向を反映して、退院兼釈放は、翌日行われた。

 一度目覚めた「特別囚人」の回復は、確かに異様に早かった。

 それまでの、生命維持装置の処置が適切だったことも、その原因の一つだったかもしれない。

 ともかく、もと「特別囚人」の少年は、翌日、一台の車に乗せられた。

 天使種の軍警中佐のお見送り、ということで、それなりの人々が並んではいる。だが、中佐に連れられた少年の目は、それをただ不思議そうな目で見渡しているだけだった。


「行くぞ」


 何の変哲も無い、小型の車の助手席に、彼は乗る様に促された。運転は、中佐自身がする。


「うわ」


 急発進に、彼はシートにバウンドし、頭をぶつけそうになる。中佐は走り出すと、すぐに窓を全開にし、煙草をふかしだした。


「あ」

「どうした?」

「その煙草…」

「あん? 『パリッシュ・モーニング』って言うらしいな。ああそうだ。俺、結構これ、気に入ったからな、途中で買って行かなくちゃならねえんだ。ちょっとお前もつきあえ」


 つきあえって。少年は目を丸くする。


「ここは一応まだ、シレジエだしなあ。お前知ってるんじゃないの? って、三十年も経てば、お前も判らないか」

「え? 三十年?」


 少年は目を丸くした。


「何だ、誰もお前に言わなかったのか?」


 彼は黙ってうなづく。やれやれ、と中佐は呆れた様な声をあげた。


「ま、いい。三十年経ってようが、地形は基本的には変わらないだろ。お前、ナビゲーターやれ。ほれ、最新版の地図」


 そう言って中佐が投げて渡したのは、シレジエの観光ガイドブックだった。


「え」


 見たことのないその薄い冊子に、少年は目を白黒させた。


「どうした? こんなのでも結構役に立つぜ。中に地図があるし」


 ふうっ、と中佐は煙を吐き出す。


「それとも、お前、何処か行ってみたいところ、あるか? 行くなら、今のうちだぜ?」


 さらりと言ったが、その中には「生きてるうちに」という言葉が含まれている。彼は黙って地図を見た。


「…レイン通りに…」


 たどり着いた繁華街は、ずいぶん形が変わっている様に見えた。だがよく目を凝らすと、道そのものや、建物の位置も変わっていない。

 車を道の脇に止めると、中佐はコインを彼に渡した。


「『パリッシュ・モーニング』をカートンで一ダースな」

「オレが?」

「馬鹿やろ、俺が行ったら目立つだろう!」


 それはそうだ、と彼も思う。何せ正規軍の佐官の軍服だ。

 だが煙草は何処で売っているのだろうか。

 見覚えがあるような無いような街を彼は見渡しながら歩く。

 と、斜め前に、赤煉瓦に白い石のラインが入った建物があった。


「…まさか…」


 彼は思わず、道を斜めに突っ切っていた。

 大きなショウウインドウが、その建物の前にはあった。

 中には絵が一枚。日除けが深く差し込まれ、中が直射日光で痛めつけられない様に、工夫されている。

 だがその絵は。

 彼は思わず、立ち尽くした。

 青い空。ゆったりと浮かぶ雲。緑の木々。楽しそうに遊ぶ子供達。そしてその手には、林檎の実が。

 林檎の。


「あーあ、またちらかしちゃって、もう…」


 中から、のっそりと中年の女性が出てくる。白い肌に、ぽん、と頬だけが赤い顔に、眼鏡が乗っかっている。身体の重みに足が辛いのか、よいしょよいしょ、とかけ声を掛けて、ちりとりとホウキを手にしている。


「…あ、あの…」

「何だい」


 彼女はくいっ、と眼鏡の位置を直す。はて、という顔で一瞬彼を見たが、それはほんの一瞬だった。


「この、ウインドウの中の、絵って…」

「あー? あんた、それ、買いたいのかい? でも駄目だよ、それは、非売品だから」

「非売品?」

「ああ。前のマスターの友達が、昔、描いた絵ってことだがね」


 彼は目を凝らす。間違いない。これは。


「昔、色んな事件が起きて、変な風に価値が上がっちゃって、困った前のマスターが、この画家の絵は、この一枚を残して、全部ソグレヤ中の施設に寄付してしまったんだよ」

「施設に…寄付、ですか」

「そ。もったいない、とあたしは言ったんだけどね。もの凄ーく値上がりしたんだよ。でもまあいいさ。ところであんた、その絵は好きかい?」


 半ば眠った様な目で、彼女は問いかける。


「好きです…よ。はい。とっても。綺麗です」


 突然の問いかけに、上手い言葉が見つからない。すると彼女の眠そうな目が、線の様に細くなる。


「そうだろ。あたしゃここで受付をずいぶん長くやってるけど、どーしても、この絵の売り物としての価値ってのは良く判らんがね、この絵が綺麗だ、というだけは判るんだよ」


 彼は黙ってうなづいた。


「前のマスターが言うにはね、この絵を描いた画家は、こんな風に、砂漠ばかりのソグレヤが、緑で溢れた平和な惑星になればいい、と思っていた、ってことだよ。…まあでも、それはある程度、何とかなったようだから、この画家も本望だろ」

「え? 緑って…砂漠は」

「何だねあんた、砂漠緑地化十五カ年計画、を知らないのかい?」


 やだねえ、と彼女は口を尖らせると、ひらひら、と丸っこい手を振る。


「…や、オレ、旅行者だから…」

「ふうん。まあいいさ。ともかく、今はここからエア・トレインを使ってどっかへ行くとしても、見えるのが砂ばかりってことなかったろ?」


 ええまあ、と彼は曖昧にぼかす。


「…もっと今度は、しっかり見ておきますね」

「あーあー、それがいい。あ、そうそう、あんた、顔色あまり良くないよ」


 ぐい、と彼女は眉を寄せながら、顔を近づける。


「うん、確かに。ちゃんと物食っていないね。やだねえ、若い者が」


 彼女はどたどたとまた奥へと入って行き、受付の引き出しから、大きな袋を出すと、はい、と彼の手に乗せた。


「な、何ですか」

「あたし特製のしっとりビスケットさ。栄養たっぷりだよ。若いんだから、ちゃあんと食わないといけないよ」

「あ、ありがとうございます…そ、それと、ちょっとお聞きしていいですか?」

「何だね?」

「ここの、前のマスターって…」

「ああ、三年前に、病気で亡くなったね。だから今じゃあたしがここを買い取って、マスターさ」

「は」


 そうだったのか。彼は何となく、気が抜けるのを感じた。


「病床の前のマスターは言ったものさ。『君にしかここを頼める者は居ないんだリエダ。君だったら必ずここをしっかりやっていける』とね」


 リエダ!

 彼の中で、その懐かしい名前が、現実と結びついた。ああ、やっぱりあんたは、三十年経とうが、今でも逞しく、生きてるんだ。

 そしてまた、あの画家の残した絵も。


「…って、あたしゃ、何べらべら旅行者のあんたに喋ってるんだろうねえ! っああ、そうだ、何っかあんた、昔どっかで会った様な気がするんだよ」


 何だっけねえ、と彼女は首をひねる。


「偶然ですよ! 偶然」

「そうだろうね。うん。偶然だろうねえ…偶然でもいいさ。まああんた、気をつけて行きなよ」


 はい、と彼はその場を立ち去った。


「…『パリッシュ・モーニング』…」


 車が動き出してから、ああっ! と彼は中佐のうめく様な声に、用事を忘れていたことに気付いた。


「コイン、返せよ」

「は、はい…」

「で、何か手の中に物が増えてるようだが、俺のコインで買ったんじゃねえだろうな」

「も、もらったんです」

「なら、いい。ち、煙草は宙港で買うか」

「すみません」

「そう思うなら、その菓子後でよこせ。あんなにあの女がでぶる位なら、さぞ美味いんだろ」

「…見てましたか?」

「丸見えだ」


 くくく、と中佐は笑った。どうやらそのまま、車は宙港を目指しているらしい。


「今じゃ、宙港から直接、帝都本星へ行く船がある。理由が理由だからな、いきなりでも一発でスペシャル・シートで取れるはずだ。何せ、死刑囚の護送だしなあ」

「死刑囚…」


 彼はその言葉にふらりと横を向く。


「そうだろう? お前が望んだんだ」

「オレが…」


 車は、デビア方面行きのハイウェイへと入っていった。

 検問所の役人は、正規軍の軍服を見ると、慌てて一礼を返す。

 街が近いうちは厚く高かった防音壁も、距離が進むにつれて、薄くなり、やがて低い柵を残し、無くなって行く。

 あ、とその時彼は目を見開いた。

 周囲に広がるのは、緑・緑・緑。

 びっしりと広がる、緑のつる草・芝生・畑・木々…

 彼は思わず、ため息をついた。


「本当、だったんだ…」

「何が、本当だ?」

「さっきの画廊の、…彼女が言ってた。今じゃ、この惑星は、砂漠ではなく、緑だって」

「そうだ。お前が寝てる間にな」


 彼は中佐の方を向き、眉を軽く寄せた。


「これが、お前の大切な奴が、望んだ未来って奴じゃねえの? …緑化計画は、今の議長が、その地位を掴んでから、十五カ年計画を立てて進めたものだと聞くぜ」

「…十五カ年…」

「さすがに最初は無理だ無駄だ、と責められたらしいぜ。何せ一年や二年じゃない。十五年だ。お前が寝てた半分の時間だぜ」

「…」

「だけどその間、誰が何と言おうが、その議長の座を守り抜いて、計画の方も成功させたって訳だ」

「…すごいなあ」

「それに、今じゃあデビアも綺麗になったし、緑地化させた所に新しい都市もできたって言うし」

「…何を言いたいんですか」

「別に? 俺はただの事実を言っているだけだぜ?」


 くくく、と中佐は再び笑った。

 そしてしばらく、彼等は黙った。彼は袋の中に手を突っ込むと、中の「しっとりビスケット」を一つ手に取る。覚えのある味だ。だが昔より、もっとバターが多くて、もっとミルクも使っている様だ。

 口に含むと、それはさっくりと、甘く、溶けて広がった。


「…美味しい…」


 思わず、彼はつぶやいた。


「ん? そんなに美味いか?」


 そいじゃ一つ、と中佐も指を伸ばした。

 しかし中佐の口には合わなかったらしく、甘ぇ! という一言が車中に響くだけだった。


「お前…甘党だったんだな」

「…かも、しれない」

「ふうん。まあいい、わかった。それはお前のものだ。俺はもう取らねえ。でもまあ、物が美味いってのはいいことだな」

「…うん」


 そしてまた、しばらく沈黙が続いた。


 数時間後、デビアの検問所を通り抜け、彼等はそのまま宙港へと向かった。中佐の言った通り、確かにスペシャル・シートがすぐに二枚手に入った。


「さて、『死刑囚』シャノワール君、行こうかね」


 宙港の売店で買った煙草のカートンをたくさん詰めた袋を振り上げ、中佐はにやりと笑った。


「…ちょっと…ちょっと待って、イエ・ガモ中佐」


 彼は、ゲートに向かおうとする男を引き留めた。


「何」


 中佐は振り向いた。


「延期…しても、いいかな」

「何を」

「死ぬの」


 ひょい、と中佐の片方の眉が上がった。腰に両手を当て、言ってみな、と無言で「死刑囚」にうながす。


「…オレ、もう少し、生きていたい」

「…ふうん?」


 中佐はにやり、と笑うと、少年の方へ真っ直ぐ向き直る。

 そして腕組みをし、正面の相手をのぞき込むように見やった。


「よく…判らないけれど…何か…」


 ふんふん、と中佐は大きくうなづく。


「あの頃、無理だと思ったことが、何か、…形になってるとか…絵が、皆の目に触れているとか、施設にも、きっと気をつかうようになってくれてるだろうとか、…お菓子が美味しかったとか…」

「つまり?」

「つまり、…オレ、まだ、気持ちいいことが、あるんだなあ、って思って」

「気持ちいい?」

「何って言うんだろう…」

「楽しい、の間違いじゃねえのかい? 三十年も寝てると、ボキャブラリイも呆けるようだな」

「…!」

「まあ、いいさ」


 ふふん、と言う様に中佐は彼をのぞきこんだ。


「…駄目…かなあ。オレはまだ、見てみたいことが、感じてみたいことが、あるらしいんだ」


 そうだった。彼は思う。

 もう全部、どうでもいいはずだった。全部捨てて、眠ってしまって、目覚めなくていいはずだった。

 なのに。

 一度目を覚ませば、こんなに簡単に、ちょっとしたことに、楽しみを感じられる自分が、まだ居たんだ。


「そうだなあ」


 中佐は少しばかり難しそうな顔になる。彼はその表情に、一瞬ひるむ。もとより、この中佐の気持ちは、訓練され、ガードされているので、彼にとっては全く感じ取ることができないものだった。


「…あのな、クロ・ネコ君」

「は」


 その名前は。

 遠い、遠い昔に、その音で呼ばれたことがあった。


「俺はただの管轄外の軍警中佐なので、お前を本星に連れて行くこと以上の権限なんて、実のところ、何も持ってないの」

「…え」

「従って、お前が何を言ったか、なんて当局に言う必要も無いし、だいたい何だって、わざわざ見つけた同胞をまた殺さないといけないんだよ」

「…って」


 思わず、彼の顔が、真っ赤に染まった。このひとは、始めから。


「俺としても、極少の同期を、そうそう無くしたくは無いしねえ」

「同期?」

「そう。お前その名前、変だと思わなかった? クロ・ネコ。黒猫って、動物の名前だぜ? だけどあいにく俺達の生まれた世代、生まれた年のガキは、星回りがどうとか運勢がどうとかで、失われた言葉で動物の名前を付けるのがいいとか何とか。俺の名前なんて、家で飼われてる鴨、だぜ? 何考えてるって言うんだよ」


 そう早口でまくし立てながら、イエ・ガモ中佐は帽子を取って、真っ赤な髪を引っかき回した。

 同期って。俺達って。


「って中佐」

「あん? だから、お前とっとと、ちゃんと自分の能力把握して、俺の様に、ちゃあんと能力に似合った格好に成長しろよ。そういうための場所が、ちゃんと、本星にはあるんだ」

「…」

「そしてそこで、自由を勝ち取れば、またここに来ることもできる。今度は飛ばされてきた『バケモノ』じゃなく、お前自身としてな」

「オレ自身」

「そ」


 無理矢理でも起こして連れ出して、正解だったな、と中佐はその時思った。 



 あの時。


「…一体どうやって、『あれ』を…あの子を起こしたのです?」


 議長は、戻ってきた中佐に、勢い良く訊ねた。人払いがされた応接室には二人だけしか居ない。


「いや、別に。ごくごく、現実的な、当たり前なことを言っただけですがね」


 よっぽど煙草を我慢していたのが嫌だったらしく、中佐はふう、と気持ちよさげに煙を吐き出す。だが箱の中を片目でのぞき込むと、急に彼は慌てた。


「ああでもこれで最後の一本か、畜生」

「あの…これで良ければ、どうぞ」


 議長は、一箱の新しい煙草を差し出した。ほう、と言いながら、彼はその箱を手に取る。


「『パリッシュ・モーニング』…ですか。なかなか綺麗なラベルですな。歴史も長そうだし。ありがたく」


 ええ、と彼女はうなづくが、あくまでその顔は、自分の問いかけに対する返答を待って、苛立っている様だった。


「あのですね、奴が我々と同種―――天使種だ、ということは、いつ知ったんですか? 奴の記憶だと、あんたが、元恋人で狙撃手で画家だった、ロバート・マクラビーの手紙を読んだ時点じゃないか、と思えますがね」

「記憶…そんなことが」

「俺は、たまたまそういう能力ですんでね。今回は役に立つだろう、と管轄外なのに借り出されてるんですよ。ああ全く」


 彼女は何とも言えない表情になる。


「ま、記憶って言ったところで、奴が感じた範囲、ですがね。奴の目で見られた範囲でしかない。そうじゃないですかね? パースフル議長」


 彼女は目を伏せた。


「遠い、…話ですわ」

「だがまだまだ、奴にとっちゃ、昨日のことだな、あれは」

「…でも…もう三十年も経っているのですのよ。その間にマフィアは…完全な壊滅には至りませんでしたが、極小組織が小競り合いを続ける程度になり、夫の元議長は死に、私がその次の次の選挙で議長の役を引き受けることとなりました。三十年ですよ、三十年。そんな、…私達にとっては、長い時間ですわ」

「だけど我々にとっちゃ、大した時間じゃあない。寝てた奴にも、そんなことどうだっていい」


 中佐は言い切った。


「まあそれはいいんですよ。ただ一つ聞いていいですか」

「…何でしょう」

「あなた、直接あのガキを起こそうとしたことあります?」

「それは…もう何度も何度も」

「その時に、どんなことを言いました?」

「え?」


 彼女は眉を寄せる。質問の意味が判らないのだ。


「あなたが必要だから、大切だから起きて欲しい、とかそんなこと、言いませんでしたかね?」


 何かまずいのか、と議長の表情が変わる。


「まずい。うん、まずいですねえ」

「…な、何故…」

「だって、奴は少なくとも、殺されたがってるんですから」

「…だけど! それはマクラビーも、私も」

「それはあんた方の都合でしょ。奴に生きてて欲しい、って言うのは」


 さらり、と彼は言う。


「奴の望みは、自分の完全な消滅。だから俺は、それを約束した。だから奴は起きた。それだけですよ。簡単」

「…そんな…そんなこと」


 彼女は両手で口を覆う。


「まあでも、こっちの職務は奴を生かして本星へ連れてくことですから、安心して下さいな。女性を悲しませるのは俺も好きじゃあないし」


 それを聞いて、彼女の顔があからさまにほっとする。


「…殺したりは、しないのですね」

「ま、それは奴次第、ですが。まあたぶん、一度起こせば、何とでもなりますよ」


 なら良かった、と彼女はほっと胸をなで下ろす。


「ただね、そんなねえ、疲れきってる人間に、元気だせ、なんて言われたって、誰が嬉しいですかね。あのガキは、元気も何も、使い切って、疲れたから、自分の役目は終わったから、もういい、って寝腐ってたんですぜ」

「役目って…」


 中佐は軽く指を突き付けた。


「議長、いや当時は議長夫人か。あんたを守ること。それしか無いでしょ」

「私など…」

「それはあんたの考えることだ。奴は、とにかく、そう思いこんで突っ走ってた。全く、極端な奴だ」


 吐き捨てる様に中佐は言った。だがその口調は議長の耳には何故か、優しく届いた。


「ま、それでも議長、あんた方が奴を生かしておいたのは、正解ですよ。うちの軍勢が焼いたオクラナと違って、あんた等は奴を、見つけて保護して、奴の意志も無視してでも、生かしておいた。それはこの惑星のためには、正解でしたね」

「…ええ」


 彼女は苦い顔をする。ふう、と中佐は煙を吐き出す。


「…ああ、結構この『パリッシュ・モーニング』もいい煙草ですな。えれがんとな味わいじゃないですか」


 彼女は顔を上げた。


「あ、でもこれはこの惑星でしか売られてませんわ。ローカルな品ですから」

「ふうん…じゃあ後で、街見物しながら、カートンをダースで買って行くとするか」

 ぽん、と中佐は煙草の箱を放り投げた。



(結局街では買えなかったけどな)


 少しだけ、中佐は表情を緩めた。そんな彼の思いなどよそに、少年は問いかける。


「ねえ、オレはもう、『バケモノ』じゃないって、ことかなあ?」

「ま、それを決めるのはお前だろ。行こうぜ。時間が惜しい」

「…あのさ」

「何だ?」


 中佐は立ち止まり、少年の言葉をうながす。


「ちょっと思い出したことがあって」

「言ってみろよ」


 中佐は思う。きっとこの少年は、この惑星を出る前に言っておきたいのだろう。


「オレ、昔、…大事なひとと賭けをしたんだけど」

「賭けか? 俺も好きだが」

「林檎の種をまいたんだ。芽が出るかって。で、オレは出ないって言って、向こうは出るって言ったんだけど」

「ふうん?」

「そのひとはオレに言ったんだ。もし芽が出たら、もう自分のことをバケモノって言うな、って。オレ、出るとは絶対思えなかったんだ」


 中佐は黙って煙を吐いた。


「オレは…本当のところ、あのひと達の平和運動とか緑化とか、大してどうでも良かったんだ。だから、命賭けてたあのひとがもしかしたら犬死にだったんじゃないか、って思いかけたんけど…でも、今ずっと見てきて…」

「つまり?」


 上手い言葉が見つからない少年に、中佐は問いかける。


「つまり…オレは結局賭けに負けたんだって」


 論理の飛躍に、中佐は目を眇めた。ええと、と少年は言葉を探す。


「無理だと思ってた、あのひとの願いは叶ったんだ」

「ふん?」

「無理なことでも、願うことから始めたんだ、あのひとは。どんなことでも、あのひとはそうだったんだ。そうしなくちゃ、何も始まらないから」

「まあ、それはそうだな」

「…オレはだけど、それすらしなかった」


 なるほど、と中佐はうなづいた。


「だから…林檎も、芽が出てるかどうかは、どうでもいいんだ。芽が出るかもしれない、と思うことができなかったところで、オレはもう、負けてたんだ。あのひととの、賭けには」


 口の端を上げて、中佐は笑った。


「…だから、もうオレは、自分のこと、『バケモノ』なんて言わない。そして、この惑星に、いつか、戻ってくる」


 構わないだろう? と少年は中佐を見上げた。


「お前次第だな。だがそれならなるべく早くした方がいいぜ。あの議長さんが待ちくたびれちまう」

「議長?」

「見送りしてた中に、上品な奥さんが居たの、覚えてるか?」

「…あ? うん」

「あれが、今の議長だ。マリ・ブランシュ・パースフル女史」

「え」


 少年の目と口が、同時に大きく開かれる。中佐はそれを見て、にっ、と笑った。


「お前、とんでもない人を、助けたんだぞ。少しは自信持てよ」


 そう言うと、中佐は少年の頭をぽん、と叩いた。うん、と少年は大きくうなづいた。


「行くぜ」


 うながされ、少年はゲートに向かって歩き出した。


 ―――いつかまた、ここに、オレは、戻るから―――  

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眠っている場合じゃない 江戸川ばた散歩 @sanpo-edo

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