9 バケモノはもう

「さてと」


 フェイドはそう言うと、立ち上がった。


「最後の仕上げと行くか」

「最後の仕上げ?」

「決まってるだろう?」


 フェイドはそう言って、オレに向かってにやり、と笑った。


「諸悪の根元、って奴を滅ぼすのが、ラストシーンに決まってるじゃねえか」

「…じゃ…オレも行く!」

「馬鹿野郎!」


 薄暗い部屋の中、奴は非常に的確にオレの横っ面を張り倒した。


「お前が行って何になるよ」

「そうですよシャノ君。君が行っても、何もなりません」

「…けど」

「我々しか知っていなくて、君にできることもあるでしょう?」


 手はモニタや機械から録画ソフトを一つ残らず外しながら、マスターは静かに言う。


「僕はこれから、例の報道関係の仲間に、この今のソフトを渡しに行きます。これは急がなくてはならない。向こうが手を打って、夫人に対する中傷を流したら、それにすぐ対抗できるように」

「そうだな。だからお前のできることなんて、一つしかない だろ」


 はっ、とオレは気付いた。


「…ブランシュさんを、助けなくちゃ…」

「そうだ。方法は何だっていい。…ただ、単にホテルや警備の側に通報するだけじゃあ駄目だな」

「そうですね。今現在でも、彼女は既にガードされている訳です。それに夫人の情報が正確すぎます。カストロバーニの部下だったら…」


 彼女の知らぬ所で内部に入り込んでいる可能性はある、ということか。


「…判った。オレは彼女の方へ行く。それで…マスターは」

「我々は、この一連の事件が終わったら、また身を隠しますよ。治まったらシャノ君、また画廊へいらっしゃい。その頃には物騒なものはあの中から撤去しておきます」

「…物騒なものが置いてあったのかよ…」


 マスターはオレのそのつぶやきには、何も答えず、ケーブルをひたすら巻き取っていた。


「この場所はいい所でしたが、惜しいですね。置き忘れられたものでも、結構使い道があった」

「どんな街でも、幾つかそんな自然な隠れ家か抜け穴の様な所はあるはずさ。…ここはガキにはいい遊び場だったしな」


 そう言いながら、フェイドは二本目の煙草に火をつけた。そのぶ厚い意識の壁から、ふと、この場所と同じ映像が二重写しになった。

 …そこでは、「戦争ごっこ」をする子供達の姿があった。

 だがそれは一瞬だった。


「あんたは、…どうするの、フェイド」

「さっきも言ったじゃねえか。オレはオレのやるべきことをするだけだ」

「それだけ…?」

「ああ、それだけだ」


 扉を開ける。そしてまた、彼はにやり、と笑った。


「あばよ」


 ひら、と手を振る。そして音も無く、駆け出して行った。オレはその姿をしばらく呆然と見送っていた。


「…彼は、カストロバーニと共に、自分の存在も消すつもりなんです」

「え」


 ケーブルと発電機を奥のがらくたの中へ押し込みながら、マスターは静かな声で言った。


「我々と彼の関係は、決して気付かれてはいけないのです。あくまで、彼がカストロバーニを殺すのは、『内部抗争の結果』でなくてはならない」

「…って、そんな」

「彼はそれを当初から判っていました」

「それって」

「それに」


 彼はオレの言葉を遮った。


「目的のためとは言え、自分はあまりにも自分の復讐に無関係な人間の血を流しすぎた、と。自分はロバートの様な善人になる気は無いし、こんなことできる奴はもう既にバケモノなんだ、と。彼は言ってましたよ」


 バケモノ、という言葉がオレを少し刺激していた。


「同じ人間を、簡単に目的だの大義名分だので殺してしまっている自分の方がよっぽどバケモノだろう、って」

「そんな」

「だから、今のソグレヤを正すには、自分達の様に暴力で動く連中ではいけないんだ、と。…強情なひとですからねえ。せめてまた、名前と顔を変えて逃げろ、と僕も何度か言ったのですが」


 マスターは残念そうに首を傾げる。それはできないのだ、とフェイドは言ったのだろう。


「…と言う訳で、我々は彼の意志を無駄にしてはいけません。自分にできることを、しましょう」

「オレは…じゃあ」

「その判断は、君に任せます。とにかく夫人を、殺させないで下さい。それだけです」

「それでも…」

「いいですかシャノ君」


 マスターは、オレの両肩に手を置いた。


「最初の一瞬が大事なんですよ」

「…え」

「この意味を、よぉく考えて下さい」


 じゃあ、と言って、彼は彼で、すっきりとした身軽なスーツ…なのだろうか、出て行った。

 もしかしたら、あの中に幾つもポケットがあって、これでもかとばかりに映像ソフトが入っているのかもしれない。でも彼の動きからは、そんなことはまるで判らなかった。…食えないひとだ。

 そして見渡した部屋の中には、今までのことがまるで嘘の様に、ただの無駄なもの倉庫の様になっていた。

 椅子もモニタもケーブルも、一体何処へ行ってしまったのだろう。今あったこと自体、夢の中の様に感じられなくも、ない。

 だが。

 ぐっ、とオレは両の拳を握りしめた。

 夢じゃない。今あったことは現実で―――

 オレのしなくちゃならないことは? ―――夫人を守ること。

 …じゃあ、どうすればいい?

 時間は、刻々と過ぎ去って行くのだ。


 ホテル・シャトウロゼは、先日オレが飛び出した警察本部からさほど遠くない所にあった。

 カストロバーニを捜す、なんていう雲を掴む様な作業より、ずいぶん楽だった。何せそのホテルは、デビアの何処からも良く見える…つまりは、一番大きなホテルなのだ。

 だけど、一番大きなホテル…一番格式の高いホテル…

 オレはこの間の服を取り替えてしまったことを、少しだけ後悔した。

 だがその時にはそれが必要だったのも確かだ。場所には場所に合った服というものがあるのだ。

 時計を見る。十六時に彼女は出立。街角の時計を見ると、十三時半にもう少し。あと二時間半。

 とにかく、ホテル方面へとオレは走った。ただし自転車だ。その場にあったのが、それだけだから仕方がない。背後から「自転車泥棒!」の声が上がっていたが、そこは小回りの利く乗り物、すぐに裏道へ入る。だいたいこの街で、盗まれたくなかったら、切れないカギでもつけておけ、って言うんだ。石で殴りつけたり、ペンチで切ってしまえば切れる様なワイヤなんか、カギの役割はしてねえって言うの。

 ああそれから、途中でほけほけと歩いていた何処かの金持ちそうなガキから、時計をかっぱらった。泣きながら「ばかやろーっ!」と叫ぶガキには、


「すまんな、また買ってもらえよーっ。ガキはそうやって逞しく育って行くんだぜっ」


と言い残し、オレはちゃーっと自転車を加速させた。…人間というのは、自分の受けてきたことを、大義名分さえあれば、勝手に忘れる動物だ、ということが、よぉく判る。

 そうしながら、オレはデビアの何処からでも見える建物に向かって走った。

 だいたい直線で五~六キロ、という所か。自転車だったら、多少道が入り組んだり、交差点の信号待ちとかあるので、一時間。…それで残り時間は、一時間弱。

 何とか、なるか?


 無論何とかなるか、と考えていたとしても、何をその場でするか、なんてオレは考えていなかった。それはその時考えるしかない、と思っていた。

 はあはあ、と息を切らしながら、自転車を乗り捨てたのは、ホテルに近い緑地公園の中だった。本当は、ホテル間近まで乗り付けた方が楽なんだが、あいにく、メンテの足りない自転車だったらしく、…つまりはパンク、したのだ。

 オレはその場で自転車を乗り捨てた。

 うっそうとした木々の向こう側に、高さ六十階建ての、微妙にピンクがかったホテルの建物が見える。

 …でかい。

 今まで縁が無かったから、デビアに住んでいた頃さえ、近づいたことも無かった。遠くから見ている分には、何か背の高いビルだよなあ、という印象を受けるだけなのだが、実のところ、近づいてみると、横幅もかなりのものだ。

 つまりは、広い。部屋数もかなりある。

 無論、ブランシュ夫人は「議長夫人」だから、スイートだのスペシャルだの、そんな名前のついた部屋に居るんだろうけど…彼女が居るからだろうか。ちら、と見た裏口だの、内部レストランの通用口ですら、ガードマンの姿があった。

 時計を見る。あと一時間十五分。

 彼女に直接伝えることができれば、それが一番だ。他の誰でも無理だ。きっとオレは信用されない。内部でも外部でも怪しいひとを捜してくれ、と直接言えれば、それが一番いいのだけど…

 そう思った時だった。


 バラバラバラバラバラバラバラ…


 ヘリコプターの音が、次第に激しく近づいて来る。

 何だろう。木々の間じゃ、よく見えない。オレは車道の近くへと飛び出した。

 同じ様なことを考える人々は多かったらしい。何せ、あまりにもその音は大きい。鳴っているのが当たり前のものでも、それがあまりに大きいと、それは恐怖をもたらすらしい。

 オレは上を向いた。何だろう。思わず、意識をそちらに向けてしまった。

 と。


 真っ赤な色が、目の前に広がった。


 いや違う、そう感じただけで、それは。


 今までに、感じたことの無い程の、殺意だ。

 冷たい冷たい、そして、心の底から、煮えたぎっている、殺意が、そのヘリコプタの中から、感じられた。


「…まさか」


 あの中に、まさか。

 逃げるカストロバーニと、復讐に燃える、フェイドが。

 だとしたら。

 オレは思わずその場に屈み込む。あまりにも強い殺意と、それに対抗しようとする意志のぶつかり合いに、オレは思わず眩暈を覚えた。

 目を閉じて、意識を集中する。


『…何ですかね、これは、おやっさん』

『冗談に見えるかね、ベンジャミン・マクラビー』


 会話をしているのは―――カストロバーニと、…フェイドだ。

 周囲にも、数名。

 フェイドは銃を、突き付けられていた。それも、一人二人ではなく、その場に居た、操縦士以外の全ての者からぐるりと。


『正直、残念だよ。お前やロバート程の参謀も戦闘員もできる奴って言うのは、そうそう欲しくても手には入らん』

『そうでしょうねえ』

『…よくもまあ、わしの組織をここまで追いつめたものだ』


 そう言うと、カストロバーニは内ポケットから、黒いレコーダーを取り出した。

 流れて来たのは、…聞き覚えのある、会話。


『議長夫人の暗殺命令を出せば、内通者は動くと思ってな。だがさすがにお前自身だとは思わなかったが』

『あんたが俺を買いかぶってたってことだよ』


 へっ、とフェイドは口の端を上げた。


『ざまねえな。いつの間に盗聴器を仕掛けたんだ?』

『若い奴が盛んなのはいいことだ』

『…あの女か。ったく』


 ち、とフェイドは吐き捨てる様に言った。おそらく、つい最近一夜を共にした女に、カストロバーニの手が掛かっていたのだろう。


『ま、お前も兄貴同様、甘いってことだな』

『…ああ全く。それで…首都に行く代わりに、俺を、何処へ連れてくつもりなんだ?』


 言葉はあくまで軽い。フェイドはいつも調子を崩していない。カストロバーニも同様だ。この状況なのに、まるでお天気の話をする様に、淡々とした口調で話している。

 だが、その二人の間の空気は。

 きっとロブがこれに色をつけたら、ひどいものになると思う。いや、彼だったらこんなものに色などつけたくはない、と思うかもしれない。そのくらい、どす黒い感情がどろどろと混じり、時にはぶつかり合い、ちりちりと火花を飛ばしていた。


『死人に生き返ってもらうのだよ。お前はベンジャミン・マクラビーとして、議長夫人を殺して死ぬんだ』


 ふうん、とフェイドの眉が上がる。


『と言うことは、既に刺客は放ってある、と』

『当然のことを、言わせるな。高層ビルの屋上は、一種の密室だ。夫人を見送るのを口実に、そこの全員を殺るように言ってある』

『そりゃあまあ、確かに。非常にあんたらしい。で、美しいご婦人の遺体の側に、俺の穴だらけの死体が転がってるって寸法ですかい?』

『さすが、よぉく判ってるじゃないか』

『そりゃあ、あんたの側に、長年居ましたからね』

『ああ全く、実に惜しい奴だ』

『だったら、この銃を下ろして下さいよ』

『そうしたら心を入れ直すとでも言うのか?』

『まさか』


 へらっ、とフェイドは笑った。


『てめぇの様なクソ野郎に誰が!』


 ぐい、とその瞬間、突き付けられる銃の圧力が強くなる。まだ待て、とカストロバーニは部下を征する。


『本当にお前は、もったいない奴だ』

『お褒めにあずかって恐縮』


 フェイドは苦笑しながら、ちら、と右腕の時計を擦った。


 あれ?

 …何だろう、と俺は思った。

 変だ。フェイドは時計を持ってなかったはず…

 それに…右手?


 ヘリはどんどん高度を上げ、屋上のヘリポートよりずっと上空までホバリングしながら、着陸態勢へと移って行く。


 変だ、とやはりオレは思っていた。

 こんな状態なのに。

 何だって、あんたは、そんな、澄み切った、青空の様な、気持ちで。

 オレは、思わず、手を上に伸ばしていた。


 その時彼は、にやり、と笑った。


『気の毒だが、着陸は、できねえよ』

『な…』

『お前も、終わりだ』


 フェイドの腕時計は、かちり、と音を立てた。


 ―――頼んだぜ、クソガキ―――


 そして、とても、そこは、静かに、なった―――


 野次馬らしい女性の巨体にぶつけられて、オレは我に返った。

 どれくらい、ぼんやりしていたのだろう。ホテルの屋上からは黒煙が見えた。

 この位置からじゃ、そのくらいしか判らない。


「…い、一体、何があったんですか?」

「何がって…あなた今、見てなかったの!?」


 掴んだ女性のたっぷりした腕から、瞬間の映像が入り込んでくる。


 膨らんだ火の玉。弾け散る破片。


 オレは唇を噛む。

 …頼んだぜ、…あれはフェイドの、あての無い思念だった。彼は自分の役目を果たしたんだ。

 ふら、と足が勝手に動き出すのを、感じた。

 そうだまだ、しなくちゃならないことが、オレにはあるんだな。

 ブランシュさんを…助けなくちゃ…

 ヘリであのひとは移動する予定だったんだ。だけどそのヘリポートであんな事故が起きたから…ヘリでの脱出はできない。 頭を軽く振ると、オレはまた、走り出していた。


 さすがに普段だったら、オレの様なストリート・ギャングな格好の奴は足も踏み入れられないだろうに、かえってこの混乱は好都合だった。


「ねえ何があったの? 大丈夫なの? 私五十階に部屋があるんですのよ? ああもう、支配人を呼んでちょうだい!」


 ヒステリックな声が、きんきんと響く。まだ若いフロントマンは、そんな、成金丸出しの女性にどう答えていいのか判らず、おろおろしている。


「…た、只今、状況は、確認中です。支配人は今ちょっと…」


 ん?

 「支配人」という言葉と、「議長夫人のお見送り」というイメージが彼からだぶった。

 彼はブランシュさんの行動を良く知ってるはずだ!

 オレは成金女を押しのけ、カウンターの上に膝から上がると、フロントマンの目をぎっと睨み、腕を掴んだ。


「議長夫人への内線は?」


 驚きと焦りと、突発事項に飛んでいる、フロントマンの散漫な思考の中、オレはそのイメージを捜した。

 …これか。

 お返しプラス、後腐れの心配を兼ねて、オレはそのまま今の高ぶった感情を、つながった手から流し込んだ。う、と一声うめいて、彼はその場に倒れ込んだ。ごめんよ。だけどオレも今はその気分を散らしておかないと、保ちそうに無いんだ。

 色々ありすぎて、頭が、爆発しそうだ。

 明らかに間違ったシャドウを塗りたくった目をまん丸く開いた成金女は、その場で呆気にとられている。オレは彼の頭の中のイメージにあった通りにカウンター下の内線端末を引き出すと、番号を打ち込んだ。

 間違えるなよ、1を押してから、60101、だ。どうか…出てくれ!

 数回のコールの後、かちゃ、と受話器を上げる音がする。


『…はい?』


 一気にオレの身体から力が抜ける。…あの、優しくも厳しい声が、そこから聞こえてきた。


「…ブランシュさん、オレ…です」

『…シ…! どこからかけてるの?』


 名前を呼びそうになって、思わず口を押さえたのだろう。低い声に代わった。


「あなたが居る、ホテルのロビーに…それより、あなたの見送りを口実に、…狙ってる奴が、居ます」

『…え』

「今、そこに誰か、居ますか?」


 少し間が空く。周囲を見回しているのだろう。


『いいえ、まだ出発には時間があったから、ボディガード以外、居ないわ。…ひどい振動があったので、見に行かせたら、エレベーターも止まっていて…あなた何があったか知ってる?』

「知ってます…けど今、それを説明する時間が無いですから…」

『シャノ君』

「だから…」


 何となく、自分の言葉に、現実感が無くなって行く気がした。一体オレは何をやってるんだろう?


『ねえ! シャノ君! しっかりして!』

「…あ、はい…うん、だから、あの、非常階段で逃げて、下さい。オレも行きます」

『そう、じゃあ、西側の階段から…』


 そこでふ、と受話器の向こう側の彼女の気配が変わった。だが一瞬だった。そんな気がしただけかもしれない。


『あのひとの…見たわ』

「見たんですね?」

『ええ。そして私がしなくてはならないことがはっきりしたわ。だから私、何としても生き延びるから』

「…ええ、そうです、絶対に…ああ、何処かに奴の…カストロバーニの息の掛かった奴がまだ、居るかもしれない…気をつけて」

『…あなたこそ、シャノ君』

「オレは」

『ねえ、聞いてる?』

「…」

『ちゃんと、聞いて。今度こそ、私が、あなたを守るわ』

「…」

『彼との約束よ。いい、判った?』

「…はい」


 短く答えると、オレは受話器を置いた。それ以上の言葉を、彼女から、聞きたくなかったのた。

 だって、オレは、もう。

 …

 頭をとりあえず切り換える。西側の非常階段…何処だっけ。

 ああオレって何て馬鹿なんだ。後先考えないからこうゆうことになるんだよな。

 聞くのに簡単なフロントマンは気絶中。さっきの女はもう居ない。ごった返しているロビーは、我先にとばかりに情報を、自分の安全を求めてる客で一杯。ああもううるさい。

 意識のシャッターをオレは一気に閉めた。館内表示を地道に捜そう。その方がいい。

 止まっているエレベーターの横に、館内表示があった。西、西、西…ああこれか。今更ながら、文字が読める様になってて御の字だ。

 声が飛び交うロビーの人波をかき分けながら、オレは階段口へ飛びつき、狭い階段を駆け上がる。

 と。上からの人々の圧力が空気の波になって、どっと押し寄せてくる様に思えた。ロビーより激しい、人・人・人!

 我先にと降りて来ようとする人々の波を、わずかなすき間を、オレは逆走する。乱暴だと言われようが、何と言われようが知ったことじゃない。


「何してんだよ!」

「邪魔だ!」

「ちょっと! ったく…」


 罵声・罵声・罵声。

 オレは気持ちの壁を厚くする。少しでもそれを緩めると、このどうしようもなく刺々しい、暴力的と言ってもおかしくない意識の渦に、巻き込まれそうだった。

 ああそうだよな。こんなとこに泊まれるからって決して意識までお上品じゃあないんだよな。

 結局、とにかく、自分が助かりたいんだろ? ああそうだ、それは非常に正しいよ。 

 だけど知ってるか? 確かに自分の意志のためかもしれないけれど、ロブもフェイドも結局、誰かのために死んでしまったじゃないか。

 犬死にって言うか?

 冗談じゃ、ねえ。

 オレは彼等の死を、犬死にになんてするもんか。

 少なくとも、彼等は、命と引き替えに、彼女に希望を託した。

 …だからお前ができるのは、何だ?

 記憶の中のフェイドが問いかける。

 オレにできるのは、彼女を守ることだけだ。

 カストロバーニは死んだけど、暗殺命令の解除が今更出る訳じゃ無い。

 …最初の一瞬が、大事なんですよ。

 マスターの声がする。

 そうだ一瞬だ。暗殺者なんていうのは、最初の一撃に、かなりの意識を集中させる。

 その後に、必ずスキができるはずだ。だからその一撃を、何とかして防げば…


 オレは十二階の踊り場に居た。

 既に人々の数も少ない。だんだん走る速度も上げられる。

 だけど逆に、今度は走るオレ自身が疲れて、少なくとも一段抜かしで上る様なことができなくなっていた。

 ああでも、彼女の気配は近い。頭上に迫りつつある。もう少し。

 止まると心臓が飛び出しそうだ。速度を少し落として、吹き出る汗をぐい、と袖で拭う。頭からもだらだらと流れてるのが判る。

 そして再び速度を上げた。

 だけど、刺客は―――誰なんだ?

 「見送り」と言っていた以上、警察本部長か、その側近は…確かだろう。それとも、ホテルの支配人…そのクラスだよなあ…それとも他に?

 支配人だったら、エレベーターで足止めを食らってるかもしれない。そこで時間が稼げるだろうか。


 三十五階に差し掛かったあたりで、黒服の男達が、オレの前に立ち塞がった。足を止める。肩ではあはあと息をする。汗が一気にだらっと全身から流れ落ちるのが判る。


「…何だお前は」

「…ブランシュさんは…」


 はあはあ、とオレはそれだけ言うと、心臓が飛び出しそうな胸に手を当てた。


「その声は…シャノ君!?」


 懐かしい声が、耳に入る。


「大丈夫よ、この子は!」


 彼女が少し上から駆け下りてくる気配がする。はあはあ、とオレはまだ呼吸が整わない。

 周囲の男達からは、何だこいつは、という気配が濃厚に立ち上っている。だがそれは純粋な警戒心だ。信用できる類のものだ。

 またでかい男達ばかり。絶対これって、これはいざという時の盾にしようって、旦那がつけたんだ、とオレはこんな時にも関わらず想像してしまった。


「…ブランシュ…さん…あのさ」

「ゆっくり喋りなさい、シャノ君、あなたひどい顔色よ」


 そりゃあ三十五階まで走れば仕方が無い。だけど。


「…ブランシュさん、カストロバーニは死んだ」

「…え」

「ベンジャミンを、知ってる?」

「ベンジャミン…? って…あ!」


 彼女の中に、さあっ、と学生時代のマクラビー兄弟の姿が走った。


「…いろいろ…あったのね」

「…うん、いろいろ、あった。でも、だから、あなたが、生き残れば、…こっちの勝ちだよ」

「…そうね」


 ふう、とオレは大きく息をついた。


「そうして、みせるわ」


 彼女はそう言うと、オレの手を取って、ゆっくりと立ち上がらせた。


「行きましょう」


 オレは立ち上がりかけた。―――その時だ。

 非常階段の上から、駆け下りて来る足音がする。

 でかいボディガードの身体ごしに見える踊り場に、一人の男が飛び出して来た。スーツの様な制服? 胸には、ネームプレート。よっぽど焦ったらしい。撫でつけた髪が、乱れている。

 支配人? …だな? 

 さっき見た、フロントマンの中にあったイメージと合う。


「議長夫人! …ああ、ご無事だったのですね!」

「ああ、支配人、心配かけました」

「いえいえ、本当によろしゅうございました。さあ、安全な所へとご案内致しましょう…」


 顔中に笑みを貼り付かせて、男は近づいてきた。右手には、小型の黒いアルミトランク。

 だけど。

 何だこいつ。

 オレは彼女の側に寄り添う様にしながら、男の貼り付いた笑顔を凝視していた。

 ぴーんと張り詰めた様な感触。笑顔の下の意識には、分厚い壁。

 職業柄? …いや違う。

 まるであの、フェイドの様な…


 ―――って。


 気付いた時には、遅かった。

 笑顔の男は、笑顔のまま、トランクの手元のスイッチを押した。

 がご。

 奇妙な音が、その場に響く。

 トランクの両蓋が、一瞬のうちに、その場に落下する。するとそこには手提げ形のハンドマシンガンが現れたのが一瞬見えた。


「伏せて!」


 オレは、彼女に飛びかかり、自分の下に抱き込んでいた。

 だだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだ、と音が、狭い非常階段に反響する。

 ボディガード達は銃を抜く間も無かった。ぴ、と頬に生暖かい液体が飛ぶのを感じる。ちらと見る床に、壁に、血しぶきが飛んだ。

 オレは気持ちのガードができないのが辛かった。殺意の居場所を感じてなくてはならない。だけど、その代わり、断末魔の悲鳴も―――飛び込んでくるのだ。

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 心臓が、どきどきする。頭に血が上る。くらくらする。血のにおいのせいだけじゃない。

 階段室中に響く銃撃音が、振動となって身体に伝わってくる。


 あ。


 …オレの背にも、斜に、銃弾が撃ち込まれて行くのが、判った。

 いくら巨漢だって、全然盾になってないじゃないか、馬鹿野郎…

 …それに、何だよ、一体こいつ、何発持ってるんだよ…

 背中が熱い。何か、ひどく、他人事のように、オレはその痛みを感じていた。

 すごく痛い。だけど、どうでもいいような。

 痛いんだよ。だけど。痛いだけ、だろ。

 それだけ、だろ…

 ちら、と相手に意識を向ける。殺意はまだ奴の周囲に充満している。ロブじゃないけれど、明らかに、戦争経験のある奴だ。マシンガンで特攻する類の…


「…シャノ君…」

「…黙って…目をつぶって…」


 呼吸の音すらも、聞こえない様に。

 静けさが、辺りを覆った。

 微かな足音。男がとどめを刺しにやって来るはずだ。オレはそっと、自分の服の中を探っていた。

 足音が、止まる。

 奴がオレ達を見下ろしているのが判る。ああこいつは、ハンターだ。獲物をいたぶり、仕留める瞬間の強烈な快感って奴を求めるような。

 美味いものは最後に取っておく、タイプかよ。

 手を伸ばす。だけどそれはゆっくりと―――

 そのスキを、オレは見逃さなかった。


「!」


 オレは最後の力を振り絞り、起きあがった。


「お」


 奴に飛びかかる。かなり意外だったのか、奴は目を大きく開き、バランスを崩し、その場に倒れ込んだ。

 がん、と音がする。後頭部を階段にぶつけたのか。


「う…ち、お前、生きてたのか」


 そう。オレは、バケモノだからね。妙に乾いた気持ちで、内心つぶやくと、ぐい、と銃を奴の顔に突き付ける。


「撃てるのかい、ガキが」

「…ああ」


 オレは、目を伏せた。


「…これで、最後だからね」


 相手の口に銃を突っ込む。これが一番有効なんだ、とストリート・ギャング時代、あれはフェイドが言ったことだ。

 一発で、確実に殺すには、そうしろと。


 身体に、思い切り、衝撃が走った。

 だだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだ。

 ひでえ音。何だろ。一体。

 何か、痛いんだけど。

 痛いだけ、だけど。


 そしてオレは、引き金を、引いた。


「シャノ君! シャノ!!」


 階段には血がだらだら、と流れているだろう。彼女の声が、聞こえる。

 すごく、遠い。

 身体が重い。

 早く逃げて。

 近づいてくる彼女の気配に、オレはそうつぶやいたつもりだった。

 オレはあなたを助けたかったんだから。それだけなんだから。

 だから、オレのことなんか、放っておいて、逃げて欲しい。そして…

 お願いだから。ねえ。

 頼むから。


 …オレは、もう、疲れたんだ…

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