「発つひと」

小箱エイト

「発つひと」

彼が旅立つ。


バスを見上げながら、人目もはばからず泣いた。

アーケードのライトはやけに明るく、

乗り込む人々の表情が白く浮かぶ。


こんなに哀しいのに。

こんなに悔しいのに。


バスはブルブル震える。

少しでも傍にいたくて、鉄板のボディに触れていた。

薄く、冷たく、爪まで凍ってしまいそうで、

指の先、五本で振動を感じていた。


見上げる窓の向こうに彼がいる。

少し困ったような目をして、しきりに私の背後を指差している。

振り向いてみたけれど、

乗り場案内の閉じた窓と、自販機が見えるだけ。


「な、に?」

「……、……」


エンジンの音が、わり込みをする。


口パクの彼。人差し指のカタチ。

振り向く私。

繰り返しの果て、発車のラッパが鳴った。


爪は凍ってもかまわなかったのに。

涙はまだ零れているのに。

排気ガスが勢いをあげて、私たちを引き離す。


彼は手を振っていた。

少し歪んだように口が開いて、整った歯が見えた。


バスを追いかけて走る。

やがて、ロータリーを半周するともう、

四角いものはどんどん小さくなっていった。


日曜の夜の、

道の凍る冬の夜の、

駅前の明かりが滲んだ夜の、

世界を隔たれようとする二人の、

いつか、

遠い記憶のすみに

追いやられてしまいそうなエピソードは、

季節が移り変わっても、私のなかを廻っている。


あのとき彼が指差したもの、

いまだに聞けていないから。


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「発つひと」 小箱エイト @sakusaku-go

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