雨上がりの忘却曲線

天野蒼空

雨上がりの忘却曲線

空が茜色に染まる。淡い水色とオレンジが混ざって、まるでダージリンティーのような色をしている。沈みゆく夕日に照らされ、街は温もりの色に輝いている。イヤホンから流れる曲はいつもと同じ曲。あの人が好きだった曲。


雨上がりの日曜日。水たまりが逆さまに町を映す。散歩帰りの私の手には濡れた傘が一本。スカートを少し涼しくなった風が揺らす。長くなった髪をかき上げる。


もうそろそろ切ろうかな。


髪を切ることは思いを断ち切ることに通じる。断ち切らなきゃなって、いつも思っているけれどできずにいる。


もう会えないあの人のこと。


一体彼はどこに行ってしまったのだろう。


不思議な人だった。日向の窓辺がよく似合う人だった。だけど、真夜中の街を好む人だった。笑う時の目は線のように細く、寝癖のついた髪が特徴的だった。約束に間に合ったことは一度もない自由人で、いつも眠そうな目を擦っていた。


蒸し暑い夏の日、彼は煙のように私の目の前から消えてしまった。あの日から、どこを探してもいない。行方不明。音信不通。誰も彼の行き先を知らない。


なんなら、彼の存在を忘れている人ばかり。まるで彼は最初からいなかったかのように、世界はすました顔をして回っている。一日、また一日と、彼を覚えている人は減っていき、今では私しか彼を覚えていない。私の中にしか彼はいない。


彼は変わった人だと周りの人は言った。彼と関わるのを良しとしない人が多かった。確かに彼は変わった人だったが、関わらないほうがいいなんて思わなかった。


あれは、今日みたいな雨上がりの夕暮れのことだった。


柔らかなオレンジ色が空に滲んで、わたあめみたいな雲が少し同じ色に染まっていた。濡れた傘を畳んで、ところどころに水たまりのあるコンクリートで舗装された道路を歩く。

普段と変わらない、散歩の時間。


「あ、虹だ。」


空の隅っこに、虹が架かる。短くて薄い、夢の橋。


「雨上がりの忘却曲線。」


いや、違うか。忘却曲線ってそもそもそんな意味じゃなくって…‥。


「虹のこと?」


後ろから急に声がかかる。


「ひゃあ。」


そこには目を細めて笑っている彼がいた。


「そんなに驚かないでよ。」


「だって誰かが聞いているなんて思わなくて。」


「ああ、ごめん。歩いているのが見えたんだけど、声かけるタイミング見失っていた。」


「もう、見つけたならこえかけてよね。」


「雨上がりの忘却曲線、ね。詩的なこと言うじゃん。いいと思うよ、俺は。」


「変わっているって言われるんだけどね。」

「いいじゃん。綺麗じゃん。」


そう言って笑う彼はとても眩しかった。




その笑顔を見ることはもうできないのだろうか。


思いつきの言葉をきれいと言ってもらえたあの時、胸の中に湧き出てきたあたたかさが今も忘れられない。単純なのかもしれない。


彼にとってはなんてことないことだったのかもしれないけれど、でもそれは、私にとってとても大きかったのだ。





そんなことを考えながら、歩き慣れた道を歩いている。夕日の沈む数秒前、道路は幸せそうなオレンジ色で一杯になる。


世界はこんなにも綺麗に、嘘をつく。幸せな色に染め上げて、みんなが幸せだと主張する。彼がいないのに。彼がいない世界なんて…‥。


私の目からは一粒の涙がこぼれ落ちた。


「泣くような事じゃないよ。」


自分で自分に言い聞かせる。そしてまた、歩き出す。


ゆっくりと夕焼けは消えていく。夜がやってくる。闇が降ってくる。静かな風は私の頬を撫で、髪を揺らし、涙を乾かした。



『黄昏時』



そんな言葉が浮かんできた。目の前にいる人が誰かわからないようなそんな時間。薄暗くなった夕方は人の顔が見分けにくく「誰だあれは」という意味で「誰そ彼」から「たそがれ」というようになったそうだ。


目の前から人が一人、こちらへ歩いてくる。夕闇の中だと、誰だかはわからない。背の高い、たぶん男の人。私は目を合わせないように下を向いて歩いた。


「下ばかり向いているとぶつかるよ。」


その声に私は聞き覚えがあった。


聞き覚えがあった程度ではない。ずっとずっと、聞きたかった声だった。


恐る恐る顔を上げる。


「嘘……でしょ。」


「嘘、ではないかなぁ。強いて言うのなら魔法かな。」


彼──私がずっと待っていた人、会いたかった人は笑ってそう言った。


「ま、魔法…?またまた、もう。冗談はやめてよ。そうやってまたどこかに行ってしまうんじゃないの?」


目からは涙が溢れてくる。もしももう一度会えたら、ああ言おう、こう言おう、と沢山考えていたはずなのになぜだろう。今は一言も口から言葉が出てこない。言葉にならない言葉が心の中で叫びだす。


「ごめんね。」


ゆっくりと彼はそういった。そして続けてこう言った。


「僕はもうこの世界の人じゃないんだよ。だから、もう行かなくちゃ。」


「待って!」


反射的に彼の白いシャツの袖を引いていた。


「黄昏時って不思議なことがあるものなんだよね。」


彼は遠い目をして言った。


「ごめんね。」


夕焼けの色はもうすぐ消えてしまう。


「雨上がり、だったんだね。」


「うん。」


「虹は見た?」


「今日は見てないな。」


それがどうかしたのだろうか。


「虹のこと、前に言ってたよね。」


「え、何のこと?」


話が飛びすぎてついていけない。


「雨上がりの忘却曲線」


「え、あ!ちょ、それは、その…‥。」


顔が赤くなっているのが自分でわかる。


「あれ、僕好きだな。」


更に赤くなる。


「次の雨が降って虹が出たら、僕の事は忘れるんだよ。」


「でも、そんなこと出来ないよ。」



──ぽん



あたたかくて大きな手が私の頭の上に乗る。


「これは魔法だよ。」


「ねえ、体が半透明になっているよ…‥。」


「ああ、時間なんだね。」


黄昏時が終わる。魔法は解けていく。






そして……。



雨上がりの日曜日。私はいつも通り散歩に行った。


「あ、虹。」


その瞬間なにかが私の頭の中をかすめた。大切な何かをなくしてしまったような気がした。


だけれども、もうそれは取り戻せない。私は先へと一歩踏み出した。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雨上がりの忘却曲線 天野蒼空 @soranoiro-777

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説