序章
強い未練を抱えた魂が庭に迷い込んできたので、事情を知っていた女神ユフィアは外に出た。
ユフィアの好む白い花の咲く庭で、娘が泣いていた。人間の魔術師だった娘だ。
「聖剣が魔人の呪いで失われたわね」
ユフィアが声をかけると娘は顔を上げ、目の前にいるユフィアの正体を正しく理解して平伏した。
平伏しながらも懇願してきた。
魔人が自らの命を対価にしてかけた、死に際の嫌がらせの呪いは、聖剣の遣い手を死を撒き散らす不死の怪物に変え、聖剣を次元の彼方に封じてしまった。
あれは普通の人間には解けない呪いである。
神の力ならば簡単に解けるものだが、不干渉を貫かねばならない事情がある。
けれど、約定を破ったのは魔人のほうだ。
だからすでに、話はついている。
あれこれ制限を課してきたが、すべてを満たす存在がいたので問題はない。魔人たちは不可能だと思って条件を並べたのだろうが、何百年経っても神々の力を侮っている。
七柱の神が数千万の魔人の軍勢を退けた。
その事実が示す力の差をなんだと思っているのだろう。
不可侵条約は神々ではなく、守護する人間たちのため。
何より、世界を維持するため。
魔人どもに寄生されないためのものだった。
「ひとつだけ問うわ。あなたが救いたいのは何故?」
「聖剣が失われたら──」
「神の前で偽りを口にしたら、わたくしの気まぐれは怒りに変わると心して答えなさい」
優等生の願いを口にしかけた娘は、言葉を切ったままうつむいた。
答えなど聞かなくても知っている。
娘の魂が全力で訴えている。
けれども当人が自覚して、それを願わなくては成立しない。魔人どもが納得しない。
ユフィアが花を愛でながら待つと、長いこと葛藤していた娘は、しぼり出すように願いを口にした。
「ルークセンを助けたいんです……!」
「女だものね」
国だの民だのと言うのは男たちだけで十分だ。女は惚れた男のためにすべてを捧げればいい。
そのついでに国も救われるのだから上々だろう。
「あ、あの人は、わたしのことなんて、その、なんとも思ってないって知ってるんですけど、でも、あの」
「あなたがどう思っているのかが重要なだけよ」
国より民より、一人の男を優先するなんて、そんな人間はいないだろうと魔人たちは侮った。
恋だの愛だので、人間たちはよく国を傾け、他人を巻き込む。それを愚かだと見下して嗤っていても、理解できていない。
魔人と人間が違う生き物ゆえに。
生きる長さの差が、刹那の感情でその一瞬を生きている人間と考え方を
千年生きる魔人は、千年先まで見据えて生きる。
百年も生きられない人間は、百年後のことなど考えていない。
「でもあなたの願いを、あなたが望む形では叶えられないのよ」
「ど、どのような形になるのか、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「あなたに呪いを解く魔法を教えてあげる。習得には300年はかかるわね。でもこれは本来人間には使えない魔法だから、時間がかかるのはどうにもならないわ」
「あの、でも、わたしはもう死んでますよね?死後300年修行した後、どうしたら」
人間にとって300年は途方もなく長く感じるだろう。
呪われたままの男のことも心配だろう。
けれどこれが、ユフィアに叶えられるギリギリの条件だった。
「魔法を習得したら、その魔法を覚えたまま転生してもらうわ。ただし、条件があるの」
「転生、ですか?」
「そう。あなたは今のあなたとは違う人間になる。記憶も何もない。助けたいと願った男のことも忘れているわ」
娘は苦しげに顔を歪めたが、黙って頷いた。
「呪いを解くための誘導はするから、そこは保証しましょう。けれど不自然な転生になるから、不具合が生じるの」
「構いません」
「内容を聞いてから応えてね。来世においてあなたには、親も家族も血縁一人いない、完全な異邦人となるわ。どこにも属さず、どこの誰でもない。記憶のないあなたは、ありもしないものを求めて探し回るかもしれないわね」
娘は神妙に頷く。
「今のあなたと同じ17歳から始めるわ。名前はわたくしが考えてあげる」
「え!?それは、その、知られたら大変なことになるのでは!?」
「人間に知るすべはないわよ」
人間たちは大騒ぎする事実だろうが、永遠に知られることはない。
「だから本当に、過去を探しても何も見つからないの。そういう人生になるわ」
「──はい」
「あなたが拒否したら、聖剣は世界の終わりまで失われたまま。あなたの救いたい男も、世界の終わりまであのままよ」
そんなの嫌です、と娘は首を横に振る。
彼を救えるなら、自分の人生なんてどうでもいい。
千年の時を思うと魔人には言えない言葉も、恋する乙女はたやすく言い放つ。
「そう。あとふたつの条件があるわ。ひとつ、聖剣の遣い手は自分を救った相手があなただと気づかない。決して報われない」
「それはどうでもいいです。感謝されたい訳ではありません」
「ふたつ、呪いを解くことが必ずしも救いになるとは限らないということ」
どういうことですか!?と慌てた娘も、聖剣が失われたまま300年が過ぎた世界よ、と告げれば考え込んでから思い至ったようだ。
人間たちがその責任を誰に押し付け、誰を恨んでいるのかを。
そして300年前の亡霊のような男が現れて、どう扱うのかを。
「独りで荒野をさまよううちに、狂気に呑まれていくでしょう。人間の心は300年も過ごせるようには出来ていないの。でも狂気の中にいるだけのほうが楽かもしれない。人間たちの憎悪に晒されるよりも、大罪人として処刑されるよりも」
「ルークのせいじゃないのに……!」
「でもその時にはあなたは記憶がないわ。今のその感情を持っていない。必死に助けたいとは思わないかもしれない。ただ処刑される男の姿を見るだけかもしれない──それでも助けたい?」
「それなら、生まれ変わってから幸せになって欲しいと、願います。聖剣を取り戻した世界で、次こそ……!」
契約成立ね、とユフィアは微笑む。
娘の答えなど分かっていた。
これ以外に助けなどない。
だが叶えるには同意が必要だった。
結末を知っても、それを望む意志が必要だった。
決意と覚悟があって初めて、娘の魂は300年の修行に耐えられる。
女神であるユフィアには未来も見えているのだが、人生は本人が体験して決めていくものなので言及するつもりはない。
弟子の未来を、ちょっとにまにま眺めるだけである。
聖剣の勇者 兼乃木 @kanenogi
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