第5話  でんでこ 

音沢 おと

第五話  でんでこ

                                音沢 おと



「お客様、温泉お入りになりました?」

 旅館の女将が、山田のグラスにビールを注ぎながら訊いた。深い緑の着物の着こなしが、さすがしっくりとくる。

 白地に青ラインの浴衣姿の山田は、グラスの中の泡を少し気にしながら、「あ、はい」と答えた。

 夕飯が部屋に運ばれるとは、今時の人手不足の折に、とても贅沢だと思う。

 ホテルサイトで見つけたこの旅館は、急に空いたのか、ずいぶん割り引きされていた上、ビール中瓶一本のおまけつきだった。

「いいお湯でしたよ」

 山田はグラスに口をつける。酒には弱いが、仕事終わりのご褒美だ。

「じゃあ、お飲みになりました?」

「へ?」

 山田は女将の顔を見る。

「ここの温泉は飲めるんですよ。もっとも、湯船じゃないですよ、蛇口ありましたでしょ?」

 思い出してみるが、洗い場以外にあったかは、記憶にない。

 女将は笑みを浮かべて、少し空いたグラスに継ぎ足してくれると、頭を下げて出て行こうとした。山田も会釈をする。

 襖を閉めようとして、思い出したように女将が振り返った。

「お客様も、でんでこに会いにいらしたんですか? 申し訳ありませんね。お隣のお部屋なんですよ」

 でんでこ?

 山田は少し考えるが、女将は何を誤解したか、「すみませんねえ」と恐縮する。

「いえいえ、いいお部屋ですよ。一人じゃ、もったいないくらい」

「まあ、今夜は旅館前の川で、灯籠流しもありますし。ちょうど、このお部屋からよく見えますよ」

 では、と言いながら、再度女将は頭を下げる。結った髪が、山田の質問を跳ねのけたような感じがした。


 一人のお部屋食は、なんとも優雅な感じがした。

 鮎の塩焼き、刺身と季節の煮物、小さな陶板焼きまで揃っている。奥には、スイカがガラスの器にのっている。

 いつもの出張は、たいていがビジネスホテルで、それも夕食はうどん屋か、丼屋で済ます。部屋に戻って、缶酎ハイを一杯飲んで寝る。それが定番だった。

 たまにはこんな贅沢もいいな。

 山田はゆっくりと食べる。鮎も、煮物も、スイカも季節を教えてくれる。独身で、営業所まわりの自分にとって、一年は年度であり、四月からそれぞれ三か月ごとに一期・二期・三期・四期と味気ない区分けがされるだけだった。

 デザートのスイカを口に入れると、懐かしい味がした。子供の頃に食べた、青くさいスイカだった。

 食べ終わり、ふと窓辺に行く。

 和室の隣には、緑色のビロードの張った椅子と、小さなテーブルが置かれてある。窓は木枠でガラスも古い。

 夏とはいえ、八時すぎているため、外は暗い。いや、通りの灯りが落とされているようだった。

 下を覗くと、川が見えた。川には、淡い黄色の灯りがゆらめいていた。

 女将が言っていた灯籠流しか。

「きれいだろう」

 声がして、山田は振り返った。

 部屋の中に、紺の浴衣を着た男の子が立っていた。髪はおかっぱで、頬は少し赤い。温泉から出たばかりのような肌だ。

「とうろう、っていうんだ、あれ」

 男の子は、右手で指す。左には、古い子供のおもちゃを握っている。駄菓子屋で昔見たことがある。持ち手があり、上の方に布が張った小さな太鼓と丸い玉のようなものがついている。振ると太鼓が鳴る。

「君は、どこの部屋の子?」

 山田は訊く。部屋の入口の方を見やると、襖は閉まっていた。

 男の子は言った。

「隣の部屋だよ。いつもはね」

 隣の部屋?

「だけど、とうろう流しの日は、特別なんだ。少し、遠くに行ける」

 山田は男の子を見た。色褪せた紺の浴衣だ。

 浴衣の柄はこの旅館では、子供も大人も同じで、白地にラインが入っていた。

 いや、男の子が着ているのは、浴衣ではなくて、古い着物だ。

「でんでこ?」

 山田は訊く。

 女将が言っていた、でんでこ、とはこの子のことだろうか?

 もしかすると、どこかの伝説のような、座敷わらしみたいな。まさか。

 男の子は、にいっと笑ってみせた。

 だけど、なぜか恐怖など感じなかった。

「みんな、僕に会いたがるんだって」

 黒くて澄んだ目をしていた。

「会うと、いいことがあるのかな」

「そうみたい。しゃちょう、になれたとか、せんきょに勝てたとか、言ってた。意味は分からない。僕はここが好きだからいるだけなのにさ」

 男の子は、手に持つ小さな太鼓を見た。

「そうか。ここが好きなんだね。私も気に入ったよ」

 山田は自分の言葉に頷くように言った。

 確かに、ここには季節が見える。

 一期・二期・三期・四期なんて区分けではなくて、春夏秋冬がある。

「うん。とっておきのこと教えようか。ここの温泉、甘いんだ」

 男の子は今度は嬉しそうに笑い、左手に持っていた太鼓をくるくると回した。

 とんとんとんとん

 でんでん太鼓が鳴り響く。

「ほらほら、とうろう、きれいだろ。明るくって、あったかくて」

 男の子は、下の川を指し示す。山田は見る。男の子は続けた。

「明るくって、あったかくて、ちょっとだけ、寂しいんだ」

 とんとんとんとん

 男の子は、でんでん太鼓を鳴らし続ける。

 川を灯りが流れていく。暗い水面を、ゆっくりと、淡い灯りは遠ざかっていった。


 目を覚ます。

 いつの間に、布団で眠っていたのだろうか。

 夕食の片づけも、いつ終えてくれたのかは分からない。椅子で眠っているうちに、女将か中居さんが片づけて、布団を敷いてくれたのだろうか。まるで記憶がない。

 中瓶一本で、酔ったのだろうか。

「おはようございます。よろしいですか」

 声がして、山田は「あ、どうぞ」と返事をする。

 緑色の着物を着た女将が、「よく眠られました?」と訊く。

 ふああ、と欠伸をして、時計を見る。

 七時だ。

 いったい、いつから眠っていたのだろう。

「あの、女将さん、昨日、でんでこのお話、されましたよね?」

 山田は訊く。

「でんでこ?」

 女将はまるで知らないというような涼しい顔をする。

「ほら、隣の部屋で会えるとか」

「さあ。お客様、面白い夢でも見られましたか?」

 女将は微笑み、「朝、七時に起こしてくださいと、言われましたから、それだけは覚えていましたけどね。何度お電話をしても、お出にならないので」と言う。

 そんなことをいつ頼んだのか。

「ああ、そうでしたか。ありがとうございます」

 山田は会釈をし、女将は出て行く。


 朝風呂に入りに、温泉に行く。

 鏡を見る。

 よく眠ったためか、よく食べたためか、肌のつやがいい。

 体を洗い、湯船に浸かろうすると、岩の浴槽の側に蛇口があった。

「飲料可」とある。

 蛇口をひねり、手で掬う。少し温かい。

 ごくりと飲む。

 温泉水は、あの男の子が言った通り、甘かった。

                                                                       了

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第5話  でんでこ  音沢 おと @otosawa7

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