第3話 逃げた者たち

 金属同士の激しくぶつかり合う音。


 何かが割れるような音。味方の悲鳴。


 地響き。怒号。獣の咆哮。


 それらはすぐ近くにまで迫って来ていた。


 無理だ。あんなの勝てっこない。殺される。


 全身から汗が噴きだし、剣を持つ腕や踏ん張る両足の震えが止まらない。


 チラリと視界の端に、牛人たちの住居が映る。


 俺は隙を見てそれに身を隠しつつ、そのまま戦場を後にする。


 背後では今まさに味方の誰かの悲鳴が上がったが、無視してただひたすらに足を動かす。


 牛人たちの集落付近にある茂みへと身体を潜り込ませ、縮こまる。


 戦場の恐怖から解放されたことにホッと胸を撫でおろすと共に、どうしようもないほどの罪悪感が胸をギリギリと締め付けてくる。


 それでも俺は、この茂みから一歩も出ることができなかった。








 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。


 俺は木の陰に身を隠し、ただひたすら誰に届くわけでもない許しを請う。


 木の向こう、村と森の間の開けた場所では亡くなった人たちを弔うべくたくさんの人たちが集まり、1つ1つ丁寧に遺体を火にくべている。


 遺体に別れを告げる者。悲しみに暮れる者。後悔を滲ませる者。


 そんな人たちを背に、俺は自身を守るため浅ましくも隠れ続けた。








「啓介さ、そんなに自分を責めなくてもいいんじゃない?あんな怪物を目の前にいたら、誰だって逃げ出したくなるよ」


 そう春風は優しく諭そうとしてくれる。


「でも春風さんや他のみんなは逃げなかった。俺だけがただ我が身可愛さに戦いを放棄したんです。俺1人逃げなかったところで何かが変わるわけでもないのかもしれない。でももし俺が逃げなかったとして、今回亡くなってしまった人たちの内の誰かが、たった1人でも命を落とさずに済んだとしたら、それはれっきとした殺人で、そして俺は人殺しなんです」


「っ!」


「俺は、死んでいった人たちにどう償ったらいいんでしょうか?亡くした人のために悲しむ人たちにどう詫びればいいんでしょうか?」


 返答に窮し、考え込む春風。


 ほとんど問い詰めるような形になってしまっている。


 何も悪いことをしていないこの人に、こんな負担をかけてしまうことを申し訳なく思いながら、それでも尋ねずにはいられない。


 コン、コン、コン…


 突然、部屋の戸をノックする音が聞こえた。


「春風、今いいか?」


「あ、ああ。ちょっと待って」


 春風が椅子から立ち上がり、中腰の姿勢でこちらに視線を送ってくる。俺はそれに頷いた。


 春風が扉に向かって歩き、戸を開けた。


「拓海、どうしたの?」


「あー、お前に用があるってやつが俺んとこまで来てな。…取り込み中だったか?」


 拓海が春風越しに顔を覗かせてこちらの様子を伺いながら、春風にそう問い掛ける。


「えっと…。とりあえず用件だけ聞いてもいいかな」


 そう言い春風は、拓海の後ろに控えていた1人の男に顔を向けた。


「あの…、ここでは少し…」


 拓海と俺にチラチラと交互に視線を送りながら、気まずそうに言い淀む男。


 こうして春風に相談をしている姿を他の人に見られたくはなかった。


 いっそ自分の相談はここで中断して、あの男に譲ってしまおうか。


 そう考え、席を立とうとしていたその時、男があっと声を上げた。


 反射的に男の方へ視線を動かすと、男と目が合う。


「すいません。ちょっと…」


 そう言い、男は彼の近くにいる春風と拓海に軽く頭を下げながら俺の方へと近づいてくる。


「あの、少しいいですか?お話したいことが…」


 訳も分からず、俺は首を傾げることしかできない。


「ここでは話辛いことなので、できれば席を外してもらえると…」


 席を外す?こいつ春風さんに会いに来たんじゃないのか?


 俺に用があったのであれば、正直後回しにしたいところだが…。


 ただ、この男の様子、俺の顔を何度か見た後に声を上げたことからして、彼の今の行動は偶発的なものだとも考えられる。


 それに何より、俺はこの男とほとんど面識がない。一方的に俺の事を知られている状態だ。


 少し嫌な予感がした。


「あの、すいません春風さん。俺少し席を外してもいいですか?」


「あ、ああ分かった。話が終わってからまたこの部屋に来るといいよ」


 俺は春風に礼を言い、席を立つ。


「それじゃあちょっとこっちに…」


 男に促され、俺は春風の部屋を出てそれからしばらく歩く。


 客室ばかりが並ぶ一帯を抜け、階段を降り、そして更に歩く。


 どこまで行く気なんだこいつ…。


 男湯、女湯と書かれた暖簾の見える、大浴場へと続く一本の通路。その脇に前を歩いていた男が立ち止まった。


 俺もそれにつられ立ち止まる。


 今の時間帯、大浴場は清掃中で利用できない。そのためこの通路を通る宿泊客は今は全く見られず人通りが全くなかった。


 おそらく意図的にこういう人通りの少ない場所を選んだのだろう。


 特に暑くもないのに汗ばみ始め、心なしか喉が渇くような心地がしてきた。


 男が俺の方へ振り返ったが、俺はなんとなく男の顔が見られず、俯き気味になる。


「あの…もしかして、俺が今からする話の心当たりとかあったりします?」


「え…?いや別にそういうわけじゃないけど…」


 予想外の質問を投げかけられ、反射的に男の顔を見た。春風の部屋を訪ねてきた当初のような少し怯えるような表情とは打って変わり、若干顔が綻んでいるようにも感じる。


「それよりさっさと本題に入ってくれ」


 言葉につい苛立ちが混じる。彼の顔を見ていると無性に腹が立った。


「ああすいません、じゃあ率直に。牛人たちとの戦闘中、決着もまだ付いていない時にあなだがどこかへ走り去って行ったっきり、長らく戻って来なかったですよね。一体何をしていたんですか?」


 見られていた!?


 ガツンと、トラックにでも轢かれたかのような衝撃が走った。


 狂ったように脈打つ心臓。そのくせ手先がいやに冷たい。


「あ、いや…それは…」


 何か言い訳をしようにも、思考が上手くまとまらない。


 俺の逃走に気付く者がいたことは、当然と言えば当然のことであった。


 身を隠しながら逃げたといっても、それはあまりにも拙く、角度によっては視線を全く遮れていないということもあっただろう。


 今更自身の行動の迂闊さを嘆いても遅かった。


「あ、大丈夫です。落ち着いてください。俺も同じですから」


「え…?」


 苦笑いをしながら告げられた発言の意味が分からず、思わず聞き返してしまう。


「俺も、あの戦場から逃げたんです。味方たちが1人また1人と倒れていくのを目の当たりにして、全身の震えが止まらくなってしまいまして」


 頭を掻きながら恥ずかしそうに、そして悔しそうに話す目の前の男の発言を聞き、一番初めに俺が胸に抱いたのは圧倒的な安堵感だった。


 俺が戦場から逃げた、という一番肝心な部分は何も変わっていないのに。


 仲間がいた。それだけで腰から力が抜けてしまいそうな程で。


 実際に俺は通路の壁にもたれかかり、大きく息を吐いた。


「…なんでわざわざこんなとこ…。向こうで一緒に春風さんと話せばよかったじゃんか」


「あなたが春風さんとどんな内容の話をしていたか分かりませんでしたからね。それに単純に俺の見間違いという可能性もあった。内容が内容だけに、やっぱりできる限り人のいる場所は避けたかったんです」


 申し訳なさそうな表情の男。


「ああ悪い。別に責めるつもりはなかったんだ。お前が色々と配慮してくれたんだってのは分かってる」


「そうですか。それならよかったです」


「それで、ここで話しておくことはこれだけか?」


「ああはい、俺からは以上です」


「そうか。なら早いとこ春風さんの部屋に戻ろう」


 そうして俺たち2人は、元来た道を引き返し、春風の部屋に向かう。


 緊張感から解放されたためか、その道のりは先程よりもとても短く感じた。


 春風の部屋の前に到着し、俺は戸をノックする。


 中から春風が戸を開けてくれ、俺と後ろの男を招き入れてくれる。


「さてと、そんじゃ俺は行くわ」


「ああ、ありがとう」


 部屋備え付けの椅子に座っていた拓海は、俺たちが部屋に入るや否や立ち上がり、部屋の出入り口へと向かう。


 すれ違う際、俺は気を遣ってくれた拓海に向かって軽く頭を下げる。後ろの男も同様だった。


 拓海は俺たちに向かって微笑みながら軽く手を振り、この部屋を去っていった。


「それで、えっと…2人は話は終わったの?」


「ああはい。なんていうか、その…こいつも俺と同じだったみたいで」


「同じっていうと、もしかして雅史もあの戦場から?」


「…はい。俺も逃げました」


 俯きがちにマサシという男は告白する。


「そっか。…それじゃあひとまず雅史の要件を確認してもいい?」


 マサシの告白を聞いても柔和な表情を崩さない春風。


「はい。俺も戦場から逃げ出した件について、春風さんに相談したくて」


「…となると、2人一緒にということでいいのかな?」


「あ…と俺は一緒にで構わないんですが…」


 マサシはチラリと俺の方を窺う。


「俺も一緒で構いません」


「…わかった。2人はそこの椅子に座って」


 春風は空いた椅子2つを俺たちに勧め、自身はベッドの上に腰を掛けた。それに従い、椅子を引いて腰掛ける。


「それじゃあまずは、これは啓介にも言ったことなんだけど。こうして勇気出して打ち明けてくれてありがとう。なかなかできることじゃないよ」


 柔らかな笑顔でマサシに向かってそう告げる春風。マサシは驚き呆然とするような表情で春風に視線を固定していた。


 ズッと鼻水を啜る。


 2人の今の光景を見て、俺がマサシと同じように春風に告白した時のことを思い出し、つい涙が滲んでしまった。


「い、いや…別にお礼を言われるようなことでは…」


 春風に固定していた視線を下に落とし、春風の発言を否定するマサシ。彼の言葉が涙声混じりだと感じたのは俺の勘違いではないだろう。


「ううん。みんなを率いる責任を負った身としてはね、こうして2人が自分の中に溜め込まずに吐き出してくれたことがすごく嬉しいんだ。だからもう一度。2人ともありがとう」


 春風は朗らかに、俺たち2人を見据えながら今一度お礼の言葉を告げる。


 俺たちの罪の全てを許そうというかのような春風の発言。ついそれに甘えてしまいたく自分をぐっと抑えて俺は息を吸う。


「でも、俺たちのしたことは変わりません。…俺が言えたことではないですが、春風さんは集団を率いる者として、むしろ俺たちの罪をちゃんと裁くべきなんじゃ?」


「裁く…か。俺にそんな大それたことはできないよ。俺にできるのはせいぜい一緒に罪を償うことくらい」


「罪…?春風さんに罪なんて…」


「あるよ、俺にも。俺は仲間の1人である慎二を死なせてしまった。当然その責任はとらないといけない」


「…何を、なさるつもりなんですか?」


「俺の場合、謝罪はむしろしてはいけないかもしれない。そうなるとリーダーとしてはやっぱりその成果で償っていくしかないだろうね。もうこれ以上犠牲を出さないこと、そして残された人たちの精神的ケアをすること。やるべきことは山積みだ」


 気丈に、穏やかに語るその姿は、自分との違いを浮き彫りにする。


 たった1つの歳の差でこんなにも違うものなのか。


 俺はただひたすらに答えを、自分の納得のいく許しを他人に求めていただけ。


 自分の、何もかもが恥ずかしくて仕方がない。


 俺も、この人のように…。


 気づけば俺は、橘春風という人間に強い憧れを抱いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

願いを叶えるその時まで 傍話集 緑樫 @Midori-kasi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ