第2話 失った者たち

 コン、コン、コン…


 少し控えめに部屋の戸をノックする音が響く。


「雫、起きてる?朝ごはんできたよ」


 戸の奥にいるはずの友人に向かって声をかける1人の女性、河野芽衣かわのめいはしばらく待っても一向に返事の返ってこないことに嘆息すると、少し思い詰めた表情で引き返し階段を下りていった。


 そんな彼女の足音を、自室の布団にくるまりながら聞いていた泣き腫らした顔の女性、佐野雫さのしずくはそのまま再び瞼を閉じた。


 ボサボサの髪と艶の失われた肌。


 ぐぅと腹の鳴る音が漏れた。しかし雫は意に介した様子はなく身体を丸めるように布団を引き上げた。








「すいません。雫、今日も出てくるつもりはないみたいです」


「…そう」


 芽衣と中年女性は、共に目の前に並べられた3人分の食事に視線を落とす。


「今日でもう2日ね。せめて食事だけでも摂ってくれればいいんだけど…」


「一応雫の分、部屋の前まで持っていきますね」


「ええ、お願い」


 芽衣は台所の棚から盆を取り出すと、それを食事の広げられたテーブルのところまで持ってきた。


 盆の上に雫の分の食事を全て載せ、その上に薄い布を軽くかけた後、再び階段を上って雫の部屋の前まで向かい、先程の戸の前に到着する。


「雫、ご飯扉の前に置いとくからね。お腹空いたら食べてね」


 そんな彼女の呼びかけに、部屋の中からの反応は返ってこない。


 芽衣はその場にしゃがみ込むと、部屋の前の通路の脇、戸を開けた時に食事にぶつかってしまわないように盆を隅に寄せて置き、立ち上がる。


「雫、ねぇ雫。ご飯だけはちゃんと食べてね。お願いだから、ちゃんと食べてよ」


 必死に祈るように呼び掛ける芽衣。その瞳には薄っすらと涙を溜めていた。








 あれから芽衣とこの家の家主である女性は2人で食事を摂り、台所にて食器洗いをしていた。


 そんな折、家の戸を叩く音がした。


「あ、私出ますね」


「うん、お願い」


 芽衣が自身の手の水気を布巾でとって、早足気味で家の扉まで向かう。


 戸を開けると、そこには芽衣と雫の大学からの友人である、島田杏子しまだきょうこ都築健吾つづきけんごの2人が心配そうな面持ちで立っていた。


「芽衣、雫のやつ、あれからなんか変化あったか?」


「…ううん。部屋に籠ったっきり、ご飯も食べてくれない」


「そうか…」


 沈んだ空気が3人を包む。


 誰も口を開くことができないまま、それから少し時間が経った時、


「芽衣ちゃん?どうしたの?」


 と芽衣の背後から家主の女性の声がかかる。


「…あら、健吾君に杏子ちゃんじゃない。ほら、こんなところじゃなくて中でお話しない?」


 芽衣の背中から顔を覗かせた家主の女性は、沈んだ空気を一蹴するような明るい声音と共に微笑みを湛えながら、3人を家の中へと招き入れようとする。


 口籠るようにたじろぎ顔を見合わせる健吾と杏子。


「…はい、お邪魔します」


「よかった。さ、入って入って」


 2人の背中を押し、家の中へと引き入れていく家主の女性。


 そんな彼女の笑顔につられて、他の3人も少し顔を綻ばせながら家の中へと歩みを進め、先程家主の女性と芽衣が食事をした部屋へと入る。


「適当にくつろいじゃって」


 家主の女性はそう言いながら、台所の方へと向かった。


「あ、手伝います」


 家主の女性の意図を察した杏子がすかさず声をかけた。


「そう?…それじゃあ手伝ってもらおうかしら」


 チラリと健吾と芽衣の方へ視線を向けた家主の女性は、少し思案するようにした後杏子にそう返す。


 芽衣と健吾はそのまま2人で台所へと向かう彼女らの姿を眺めながら、それぞれ大きな机の周りを囲むように設置された木の椅子に腰かけた。


 杏子と家主の女性がカタカタと食器やお茶の準備をしている音や会話の声が響く中、健吾と芽衣の間には沈黙が流れていた。


 組んだ手を机の上に置き、組み替えたり、指をにぎにぎとしてみたりする健吾と準備をしている2人の様子をぼんやりと眺める芽衣。


 2人がそうしている間にも準備は着々と進み、上に人数分のコップを載せた盆を持った家主の女性と、その後ろに続く杏子が机のところまで移動し、それぞれの席の前にお茶の入った容器を置いていく。


 そうして4人全員が席に着くと、芽衣、杏子、健吾の3人が自身の目の前に置かれた容器に一切手をつけようとしない中、家主の女性だけが容器の中身をゆっくりとしたペースで半分程度まで、他の3人の様子を観察しながら胃の中へと送っていく。


 家主の女性がそうしている間も3人の間に会話はない、


 家主の女性は、持っていた容器を机に置くと、自ら口火を切った。


「…ねぇみんな、少し私の話を聞いてくれる?」


 他の3人の反応を窺う、微笑みを湛えた家主の女性。


 そんな彼女の様子に少し驚いた素振りを見せた3人は、彼女の問いに三者三様に容認の意を示した。


 3人の賛同を得た家主の女性は、ゆっくりと自身の身の上話を始めた。


 今回の戦争とは別件で、衛士であった自身の夫を亡くしたこと。


 そのショックで家に1人閉じこもってしまったこと。


 そして、全てを投げ出しそうになったこと。


 家主の女性の話を食い入るように聞く3人。


「夫を失い、それまで思い描いていた幸せな未来の全てが失われたかのような気持ちになった。でもね、そんなことはないって、気付かせてくれた人たちがいたの。忙しい日々の合間を縫って、わざわざ私に会いに来てくれるたくさんの人たち。彼ら彼女らが私にくれたたくさんの言葉や私のことを慮ろうと必死になっている表情が今でも私の中に残ってる。そんな人たちのおかげで、私は今も笑えているの」


 穏やかな陽だまりのような笑顔を浮かべながら、過去の思い出に浸る家主の女性の顔に、他の3人は釘付けになっている。


「雫ちゃんが私と同じとは限らないけど、彼女にもあなたたちがいるってことを伝えるのはとても重要なことだと、私は思う。時間はかかるかもしれないけど、諦めないで声をかけ続けてみて」


「……」


 家主の女性の話を受け、口籠り考え込む3人。


「さ、これで私の話は終わり。2人ともゆっくりしていってね」


 家主の女性は黙る3人の様子を少し眺めた後、そう言うと椅子から立ち上がって部屋を後にした。


 残された3人の間に再び沈黙が訪れる。


 しかしそれは長くは続かない。最初に口火を切ったのは芽衣だった。


「私、雫のところに行ってくるよ。そろそろご飯を食べ終わってるかもしれないし。…2人はどうする?」


 健吾と杏子の反応を窺う芽衣。その視線には家主の女性の話を聞く以前の弱々しさはなかった。


「俺も行く」 「私も」


 2人の反応はすぐに返ってきた。


 芽衣は2人を引き連れて階段を上り、雫がいるであろう部屋の前までやってくると、しゃがみ込み、先程の食事時、部屋の前の通路脇に置いた食事の上に被せた布をめくって食器の中を覗いた。


 少しも手の付けられた跡のない、冷めきってしまった料理の数々。


 めくりあげていた布を元に戻して立ち上がった芽衣は、部屋の戸を控えめに叩く。


「雫、聞こえる?扉開けるからね」


 そう言い、扉の取っ手を捻ろうとする芽衣。そんな彼女の腕を、杏子が慌てて掴む。


「ちょ、ちょっと芽衣。止めといたほうが…」


「止めないで杏子。無理やりにでもご飯は食べさせないと」


「それはそうかもしれないけど…」


「京子」


 不安そうな杏子の後ろから、健吾の声がかかる。それに反応するように2人の視線が健吾の方へと向いた。


「俺たちがビビってるようじゃ、やっぱり駄目なんだ。まずは俺たちが雫に向き合わないと」


「…!…そっか。…うん、そうだね」


 ハッとした表情を浮かべた杏子は、少し目を伏せて思案すると、


「ごめん。もう大丈夫」


 と、自身の不安を表情の奥に押し込めて2人にそう告げた。


「それじゃあ、開けるよ」


 3人で顔を見合わせ、互いに覚悟を確認し合うと、一番先頭にいる芽衣が扉に手をかけた。


「雫、聞こえる?扉開けるからね」


 再度芽衣が部屋の中へ呼びかけを行い、取っ手を捻って戸を引いていく。


 部屋の中の様子が少しずつ、戸の隙間から見え始めたその時、


「入って来ないで!」


 部屋の中から、金切り声が響いてきた。


 一瞬、芽衣の戸を引く手が止まる。


「雫じゃないみたい…」


 驚愕した表情で、小さく杏子が呟いた。3人の中の緊張感が一気に高まる。


 芽衣が戸を引くのを再開すると、間髪入れずに響くヒステリックな叫び声。


 今度は怯むことなく、芽衣は扉を完全に開いた。


 慌てるように身体を反転させて芽衣達に背中を向け、縮こまるように布団にくるまる雫。


 大して荒れた様子のない部屋内へと芽衣が一歩踏み出した。


「来ないで!」


 再び悲鳴染みた声を上げる雫。


「京子、そこに置いてあるご飯お願い」


 雫の背を見据えたままそう告げる芽衣に、少し戸惑いながらも短く返事を返す杏子。


 一歩また一歩と芽衣は部屋の中を進み、背を向けたままの雫に近寄っていく。


 来ないでって言ってるでしょ。


 私のことなんかもう放っておいてよ。


 繰り返される悲鳴に、食事の載った盆を持つ杏子は尻込みしそうになるも、彼女の背後にいる健吾と前を臆することなく進む芽衣の姿に背中を押されるように芽衣の後に続く。


 そうして芽衣は雫のベッドの脇まで行くと、しゃがみ込み雫に話しかける。


「ねぇ雫、お願いだからご飯だけは食べて」


「要らないって言ってるでしょ」


「駄目。もう2日も何も食べてないんだから。無理にでも食べてもらうからね。杏子、ここにお盆を置いて」


 冷たく言い放つ雫に、毅然とした態度で臨み、杏子に自身の隣に食事を置くように指示する芽衣。


 その指示に従い、杏子が芽衣がしゃがみ込んでいるところの隣にお盆を置く。


「ほら雫、こっち向いて」


「……」


 芽衣の呼びかけに、今度は背中を向けたまま黙り込む雫。


 芽衣は中腰になって雫の寝ているベッドの端に自身の右膝を乗せると、腕を伸ばし無理にでも雫の身体を反転させようとする。


「っ!やめて!もうほっといてって言ってるでしょ!」


「やめて欲しいなら、こっち向いてご飯食べて」


「食べたくない!」


「駄目。絶対に食べてもらうからね」


 ベッドの上で取っ組み合いを続ける芽衣と雫。


 食事の載った盆をベッド近くから離しながら、他の2人はその光景を黙って眺めていた。


 丸2日も食事を摂っていない雫は、すぐに疲れ果て抵抗を弱め、芽衣達の方を向く。


「はぁ、はぁ…。お願いだから…もうほっといてよ…。私もう…」


 すぅっと一筋の涙が雫の頬を伝うと、すぐに顔を自身の両手で覆う。


「そんなこと言わないで。…ほらご飯、少し冷えちゃったけど美味しいよ」


 ベッドから降り、床に置いてある食事の載った盆を手に取ってベッドの上に乗せ、小さな匙を右手で掴んで食事を少しすくい左手を下に添えながら雫の口元へと持っていこうとする。


「口開けて?」


 優しく微笑む芽衣。そんな彼女の姿を見た雫は僅かに怯み、迷うように目を泳がせる。


「い、いらない」


「駄目。食べて」


 すくっと雫の口のすぐ近く、ほとんど口が付きそうなくらいまで匙を近づける芽衣。


 狼狽える雫の唇が少し震える。ほんの少しだけ、その口が開いた。


 芽衣はその隙を見逃さず雫の口の中へ匙を押し込む。


「んぐっ」


 何も載っていない匙を引き抜く芽衣とゆっくりと咀嚼する雫の姿に、杏子と健吾はほっと安堵する。


 その後も、芽衣が食事をその匙で掬い、雫の口へと押し込むようにして食べさせるということが何度も、何度も繰り返された。








「それで、雫はもう大丈夫なの?」


 芽衣の話を聞いていた春風がそう尋ねた。


「ひとまず食事だけは摂ってくれるようになりましたが、相変わらず部屋から出る気はないようで…」


「そっか…」


 口をつぐみ、思案顔になる芽衣と春風。


「なぁ春風。このまま雫がまともに動けんようなら、この村に置いてくのも考えないといけねぇんじゃね?」


「玄治!」


「俺たちだっていつまでもこの村に留まってるわけにいかんだろ?元の世界に戻ってからの生活だってあんだぜ?」


「それはそうだけど、わざわざこの場で言う必要ないだろ」


 いつもと変わらない軽い調子で話す玄治に、今にも掴みかかりそうな様子の春風。


 この場には、雫の高校時代からの友人である芽衣、杏子、健吾に加え、春風、玄治、拓海、涼真の4人組が同席しており、雫についての現状報告を聞いた後、芽衣、杏子、健吾とは別れて残った4人でこれからについて話す予定だった。


「隠したって仕方ないでしょ。どうせ数日中には答えを出すことになんだから」


「だからって。芽衣たちの気持ちも少しは考えろよ」


 春風の鋭い視線もどこ吹く風と動じることのない玄治。


「…!」


「まぁ落ち着けって。玄治も、もうちょい空気読んだらどうなんだ?」


 一触即発といった2人の間に拓海が割って入る。


「空気ばっか読んだって、建設的な話し合いにならないようじゃ本末転倒だろ?」


「あのなぁ、俺たちは機械じゃねぇんだ。全部効率的になんかいくわけないだろ」


「…ふむ、まぁ確かに?悪かった、もう黙るよ」


 拓海の発言に、玄治は一瞬考える素振りを見せると、あっさりと自身の非を認める。


「はぁ…。ごめんな、話続けてくれ」


 仕方ないといった風に溜息を吐き、話の続きを促す拓海は、玄治の言動に少し不快感を露わにしていた芽衣や他の雫の友人2人に対して柔らかい表情を向け謝罪する。


「いえ…」


 その後芽衣の報告を続きを聞いた春風たちは、予定通り4人で話し合いを開始した。


 その際、玄治は相槌や他の者の意見への賛同の意を示すだけで、ほとんど自ら発言をすることはなかった。

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